狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

大江健三郎のいかがわしさ

2008-11-05 07:24:30 | 大江健三郎のいかがわしさ

 

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♪義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界♪

・・・と高倉健は唄った。

人権と表現の自由を秤にかけた、大阪高裁の小田裁判長は、

「表現の自由」が重いと裁決した!

                                              *

人権配慮にかまびすしい昨今のマスコミ世論の中で、大阪高裁の判決は人権尊重には後ろ向きともとれる判決である。

裁判長が、人権より表現の自由に重きをおいたた理由は、原告と被告の社会的バックボーンにある。

人権を主張した原告の一人は高齢の元軍人である。

一方、表現の自由を主張する被告は、戦後民主主義を代表する大手出版社とノーベル賞作家。 

表現の自由を主張する被告が、そのものずばりの表現・言論の自由を体現する出版社と作家であれば、

裁判長の秤の目盛りが被告側に傾くのも、むべなるかなである。

更に原告の元軍人はかなりのご高齢。

裁判長の判断に、

「被告の表現の自由を守るためには、高齢の元軍人に少しぐらいの人権侵害はあっても、老い先短いのだから我慢せよ!」

といった驕りが潜んではいなかったか。

被告側から「判決の何処にそんなことが書かれてあるか!」と横やり飛んで来そうだが、

判決文には、こう書かれている。

仮に後から出た資料で誤りとみなされる主張も、言論のばにおいて無価値なものとはいえない。 これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものである

間違った主張でも寛容になれ、つまり「我慢せよ」と書いてあるではないか。

確かに「老い先短いのだから」とは書かれてない。

だが小田裁判長の心の中で、「被告のノーベル賞の重さと原告の短い老い先」が、天秤に掛かっていなかったと誰が否定できよう。

筆者は文系分野のノーベル賞(平和、文学、経済)なんていかがわしいものだと考えている。

そのいかがわしい見本がノーベル文学賞作家大江健三郎である。 
 

以下は、大江健三郎のいかがわしさについて

過去記事より一部抜粋・加筆して再掲する。
 
                    ◆


<論破され 「誤読」で逃げる 大作家> 詠み人知らず

幻の誤字騒動で狂喜乱舞する人は失笑で済むが、

自著の矛盾を突かれ、それは誤読だとシラを切るノーベル賞作家には驚かされる。

法廷で自著には書かれていない屁理屈をを問いつめられた大江は、これを誤読とだと言い逃れた。

(問い)-陳述書で「装燈された時限爆弾としての命令」としているが、「沖縄ノート」には書いていない。

(大江)「1970年にこの本を出版して現在まで37年がたつが、私は沖縄の問題についてかなり多くの文章を書いたし、新聞にも連載したことがある。大きな新聞で書く以上、責任をもってやってきた。根本的に誤読があるなら、曽野綾子さんに訂正を求める文章を書こうと思う

自分に都合の悪い事はなんでも誤読で逃げられると思っているのだろうか

更には、日本人には馴染みのないラテン語の辞書の、それも二番目の意味を取り出して、自分の書いた奇妙な単語の意味だと屁理屈をこね回す姿には、この人物の常識さえ疑ってしまう。

彼にとっての常識とは、戦争は絶対悪であり、軍隊のやることはすべて悪という絶対平和主義であり、全てはこの基準で測られる。

だが同じ軍隊でも沖縄では「鬼の赤松」を創り上げ、日本軍を糾弾した大江氏が、なぜか広島や長崎に原爆を投下した米軍を糾弾することはない。

大江氏の常識とは所詮この程度の少女趣味の常識であり、戦後GHQの「三年殺し」で去勢された常識でもある。

彼を左翼勢力と呼ぶのは、ある意味で大きな見当違いである。

ヨーロッパ先進国の左翼は自分の国家に帰属意識を持った上での左翼であるが、

日本という国家に帰属意識を持たない大江氏のよりどころにするのは、憲法第9条に代表されるユートピア的国際主義であり、連合赤軍の世界同時革命にも通じる。

自分が生まれ育った日本国へ憎悪をむき出しにする大江氏には、

反日勢力という呼び名が相応しい。 

自国の文化勲章受賞は拒否しておきながら、スウェーデン王立のスウェーデン・アカデミーが選定するノーベル賞には嬉々として尻尾を振る。

ここに、このノーベル賞作家の精神的幼児性がある。

社会主義が健在だった時代には、こういうユートピア的国際主義も一定の説得力を持ちえただろう。

だが、ベルリンの壁が崩壊し、そして大江氏が地上の楽園と憧れた北朝鮮もその恥部を世界中に暴露されてしまった今、もはや彼の帰属希望の共同体(地上の楽園)はこの地上には無い。

大江氏は、青い鳥を求めて彷徨う幼児にも劣る。

             

(中略)

後だしジャンケン■

後だしジャンケンとは、相手が出したタイミングに一瞬のタイムラグを設けて、相手の手を読みそれに勝つ卑劣な手段のことをいう。

『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏は、自著が「集団自決裁判」の原告側の証拠として提出され、

「梅沢隊長が軍命を出した」という被告側の主張が否定されると

、「一ヶ月前に立場を変えた」として自著を改定し『新版 母の遺したもの』を出版した。

筆者はこれを後出しジャンケンだと批判した。

「集団自決」 宮城晴美氏が新版で「後出しジャンケン」

■大江健三郎の屁理屈ジャンケン■

大江健三郎氏は、宮城晴美氏が批判に動揺して後だしジャンケンを出したような、分かり易い手法は取らなかった。

一旦出した自分の手はそのままにして、それを屁理屈で煙に巻いて、勝を主張するというから、さすがはノーベル賞作家。

「屁理屈ジャンケン」とは、負けた場合でも、負けを認めず屁理屈で勝を主張する破廉恥な手段のこと。

例を挙げよう。

チョキをだしたのに相手がグーなら普通は負け。

だが、「屁理屈ジャンケン」はこれからが勝負。

「私はパーを出したつもりだ」

「この指をチョキと見るのは君の誤読だ」

「私は指は5本伸ばしパーのつもりで出した」

大江健三郎氏は証言台でcorpus delictiなる一般読者には聞きなれない言葉まで引っ張り出して、

「罪の巨塊とは死体である」と、まともな人間なら赤面するような屁理屈を披露した。

法廷で証言台に立った後の11月20日の朝日新聞朝刊で、大江氏は「『罪の巨塊』に込めた思い」と題する更なる「屁理屈」を加えた。

 ≪私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。≫

一般の読者は、著者、それもノーベル賞作家自らの解説を聞く幸運には遭遇しない。

だが例え聞いても理解できる人は少ない。

ならばと今度は紙面で、その「屁理屈」に上塗りの解説、

と念を入れたのが上記の朝日記事だ。

 

問題の箇所を『沖縄ノート』より抜粋するとこうなる。

《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》

一般の読者に上記文で国語の問題を出したら、「罪の巨塊」が「死体」(他殺体)のことだ理解できる人が果たして何人いるか。

ちなみに辞書を引くとcorpus de・lic・ti は次のような二つの意味がある。

犯罪の事実[主体];

②(他殺)死体.⇒corpus  [さらに]

大江氏は、敢て二番目の意味の死体(他殺体)を訳語に当てたという。

よくもこんな屁理屈がいえるものだ。

『沖縄ノート』が出版されてから30年以上経って初めて、こういう「新解釈」が出てくる・・・しかも法廷の証言台で!

これを称して「大江の屁理屈ジャンケン」という。

いろんなブログが大江氏の屁理屈を「詭弁」、或いは「変な説明」として批判しているが日々是好日さんが「大江氏による「罪の巨塊」の変な説明 」で詳細に検証しているのでご覧下さい。 ノーベル賞作家も形無しです。

他にも大江氏の「屁理屈ジャンケン」を批判するブログの紹介。

大江健三郎という「嘘の巨塊」

 

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