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佐藤優氏は琉球新報の長期連載コラム「ウチナー評論」<40>で、次のように「小林よしのりとその「仲間」を罵倒していた。
これは同氏の沖縄講演会の2週間前の記事である。
(前略)
現在の沖縄は、危機的な状況にある。それは日本全体に新自由主義が浸透し、個人がアトム(原子)化している状況で、多くの日本人に他者の気持ちを想像し、共感する力が衰えているからだ。そのような共感の衰退を背景に、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)について、日本軍の責任を免罪する言説が内地では商売として流通している。さらに沖縄の異議申し立てに対して「全体主義の島」というレッテルを貼り商売している漫画かもいる。そして、この漫画家に協力し、「全体主義の島」キャンペーンの知恵袋となっている沖縄の大学教授もいる。このような輩に対抗する最大の武器が、沖縄に対する愛に基づく冷静さと没主観性であることを筆者は仲原から学んだのである。(琉球新報 2008年10月11日)
◇
上記コラムで、佐藤氏に輩呼ばわりされた大学教授が,自分のブログで「困ったもんだ」と嘆いているようだが、
その一方で琉球新報は「輩」は差別用語だから使用は禁止だという。
例え差別用語でも「ラスプーチン言論封殺大魔王」が使うのならならお目こぼしなのだろう。
琉球新報の二重基準については次のエントリで触れてある。
保守を標榜し、天皇を崇拝するというという佐藤優氏が沖縄紙に取り入って、連載コラムを持ったり講演会を頻繁に行うようになった理由の一つは、
去年辺りから当然騒ぎ出した沖縄の血だという。
だが、ほかにも沖縄マスコミとは「護憲」が接着剤であり、
決定的なのは、集団自決訴訟では「軍命あり派」だという氏の軸足にある。
「SAPIO」から「週刊金曜日」にいたる、不節操とも言われる広範な氏の論議には、
同じ外務省官僚経験者で評論活動をしている天木直人氏もついて行けないのか、こんな評価を下している。
<なぜ佐藤氏が「マスコミの寵児」となりえたのか。それは勿論彼の作家、評論家としての非凡さの故である。そしてそれに目をつけたマスコミが彼を利用して売り上げを伸ばそうとしたのだ。マスコミの打算である。しかし同時に、「マスコミの寵児」となることは、佐藤氏の打算でもある。経済的基盤を強化すると言う事も勿論あるであろうが、「マスコミの寵児」となって露出度を高めることは国家権力の圧力から身を守るという事でもある。生き残りに必死な佐藤氏の利害がマスコミの利害と一致した結果である。
しかし「マスコミの寵児」となる事は自分自身を失う危険をおかすことでもある。私は自らの体験を通じてそれを知っている。
今月号(12月号)の文芸春秋に「沖縄集団自決」に関する佐藤氏とその母の対話が掲載されている。それを読んだ私は、「マスコミの寵児」であり続けるために実母までも利用しなければならない佐藤氏を気の毒に思うのである。同時にまた私はその文春の記事を読んであらためてキム・ガンサン氏の佐藤優論の正しさを思い知った。
佐藤氏は母親の経験談を引用しながら「軍の自決強制」があったことを間接的に認めて左派に取り入り、その一方で、歴史には「複数の真実がある」などとごまかして右派からの反発を避ける。マスコミの寵児であり続けなければならない佐藤氏の苦しさと卑怯さを見逃すわけには行かないのである。>「佐藤優という休職外務省員を私はどう評価するか」
http://www.amakiblog.com/archives/2007/11/14/#000586
思想的には左派である天木氏は、佐藤氏の胡散臭さは本能的に見破っているようだが、天皇を崇拝する佐藤氏が自分と同じ「護憲派」であるとは、気がつかなかったようだ。
<国家より個人を優先し、憲法9条を世界に掲げて平和外交を唱える私と佐藤氏は、おそらくその思想において対極的なところに位置する。>
いや、いや外務省の先輩である天木氏も、
鵺(ぬえ)のように捉えどころのない佐藤氏の思想には、自分と対極的と判断したようだ。
「ゴー宣」で黒塗りのシルエットで描かれた佐藤氏(「言論封殺魔」)の漫画絵は、半眼の目と共に、
口が鳥のような形に白抜きされている。
きっと小林氏は「言論封殺魔」を鵺の化身であると暗示しているのだろう。
佐藤氏の「沖縄独立論」もマッチとポンプの繰り返しで、鵺のように捉えどころがない。
沖縄の講演会では必ず出てくる演題で、「(独立は)国との交渉で切り札として使え」と火をつけられた県民は、次の一言で水をかけられる。
「私は独立論には反対です」
これは、万が一独立運動が本格化した場合、その首謀者の一人にされることを避ける為の責任逃れの「アリバイ証言」ともとれる。
次に、「独立は三年もあれば可能である」と根拠を示さず言い切って再度火をつける。
そして、「それは居酒屋独立論」といわれても仕方がないと水をかけておいて、
またまた火をつける。
「ほとんどの国の独立は居酒屋の論議で始まっている」とマッチを擦る。
そして「独立論を叫ぶ県民は少数派だ」と、最後の水をぶっ掛けておいて、
世界の独立を勝ち取ったの国の例を挙げて、火をつけたままで佐藤優氏の独立論は終了する。
佐藤氏の講演会録からその部分を抜粋する。
<さらにですね、住民の圧倒的大多数が賛成していないから独立ができないということは、ありません。1991年3月に、ソ連全体でソ連維持に関する国民投票というのをやったんですね。8割のソ連人が「ソ連維持」です。バルト諸国でも過半数が独立反対です。ところが、その年の終わりにソ連は崩壊してしまって、15の独立共和国ができたじゃないですか。過去3回、「ウチナー評論」という「琉球新報」の評論に、ルーマニア人とまったく同じモルドバ人という人たちがいるんですが、これがルーマニア人からモルドバ人となって別の国家を建てていくプロセスについて書きました。国家がどういうときに独立するかという興味深い実例だからです。簡単に言いますと、独立というのは県会議員が国会議員になりたいと本気で思って、県会議長が国会議長になりたいと思って、知事が大統領になりたいと思う、商工部長が商工大臣になりたいと思う、と。そう思うと瞬く間に実現するんです。住民全体にとっては非常に不利になってもそれでも実現するんです。この例は、東欧の崩壊の中でも、ソ連の崩壊の中でもよく見られる現象でした。ですから、去年、教科書検定に対する抗議行動として11万6千人という一つの物語なり神話ができたということがすごく重要なんですね。>
佐藤氏は、ここまでで終わっておればよかったのだが、
大多数が左翼である沖縄の聴衆を前にして、「ホーム」の気安さからか、
沖縄では決して言ってはいけないことまで言ってしまっている。
「11万人の神話」について、佐藤氏はこういっている。
<あの11万6千人という数字は、一つ一つカウントすればそこまではいかないなということは、集会の主催者や参加者がいちばんよく知ってます。他方、内地の沖縄に対する目つきのよくない連中が、「航空写真で数えてみたら1万数千人しかいない」などと言うと話が変わってきます。沖縄戦の意味が何かを理解しようとしていない人間がアヤをつける。そんなことになるんだったら断固11万6千でいこう、とこう思うんです。沖縄の人々の心理を考えた場合、こうなるのは当たり前なんです。>
今や沖縄の左翼、特に「集団自決訴訟の被告側」のカリスマ的存在になりつつある佐藤氏が、触れてはいけない「11万人の神話」についての秘密を暴露してしまった。
この発言は、保守の集会で言われるのなら特に珍しくないが、
沖縄の地で、しかも「11万人信者」の前で、
「軍命あり派」を標榜する佐藤氏が公言したことに、
大きな意味がある。
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