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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

  「しょうがない」と「仕方なかった」の違いって? 

2007-07-11 07:47:22 | 県知事選

同じ事件の報道でも報じる新聞社によって、まるで反対の印象を受ける記事に出会うのは珍しいことではない。

ましてや、署名記事ともなるとその記者の視点が際立つので更に興味深い。

通常は新聞社が記事でやりあうのは、A社の記事を後でB社が記事で批判するという形になる。

一週間前にB社の記者がブログで批判した記事を見てなかったのか、A社の記者がB者の批判をモロにかぶるような記事を書いた。

パンチの練習をしている強打のボクサーの前に、わざわざ頭を差し出してボコボコにされるマヌケな素人ボクサーのように。

 

今朝の毎日新聞のコラム「記者の目」は、久間前防衛相の「しょうがない」と本島元長崎知事の「仕方なかった」を挙げて、これを必死で弁護している。

本島元市長のイデオロギーに洗脳された感のある横田記者が情緒的文で必死に本嶋氏を庇う様子は痛々しい。

だが、その丁度一週間前に産経新聞の阿比留記者がブログで同じテーマで本島発言を徹底的に批判していた。

これを飛んで火に入る「毎日の記者」とでも例えようか。

なお、冒頭の分り難い拙文のA社は毎日、B社が産経を指すことは言うまでも無い。

さぁ、順序は前後するが両記者の歴史観が垣間見える議論をお楽しみください。

                      ◆

毎日新聞 2007年7月11日 東京朝刊

記者の目

原爆「しょうがない」と「仕方なかった」の違い=横田信行(長崎局)  ◇相互理解を目指す本島氏--久間氏には苦悩見えず

 被爆地・長崎選出の久間章生衆院議員(66)が6月30日、講演会で原爆投下を「しょうがない」と発言し、3日後に防衛相を引責辞任した。「歴史認識を欠く発言」で、辞任は当然のことだ。

 一方で、同様に「仕方なかった」と10年近く発言し続ける人がいる。1979~95年、長崎市長を務めた本島等さん(85)。表現は似ているが、思いや経緯はまったく違う。2人の「発言」の背景を対比すると、原爆投下や戦争責任についての歴史認識をおざなりにしてきたこの国の実情が見えてくる。

 本島さんは隠れキリシタンの子孫。カトリック信者で、差別に苦しみながら職を転々とした。旧社会党から自民党へ移り、県議を5期務めた。市長時代の88年、議会で「天皇に戦争責任はある」と答弁。90年に右翼団体幹部に銃撃され、九死に一生を得た。

 戦後生まれで40歳の私は、本島さんを通して「戦後60年」を検証しようと、05年11月から今年6月まで、長崎版に「異色の肖像」のタイトルで、101回の連載を行った。

 久間氏は農林水産省職員、県議を経て自民党から衆院議員に転じた。核保有論には否定的だが「米国の核の傘の下で日米安保条約に基づいてやるのが一番いい」が持論だ。

 米国の原爆投下の背景には(1)旧ソ連への軍事的優位を保つ外交上の切り札(2)原爆開発計画の成果を米議会に示す(3)人体実験--など、政治的・軍事的諸説があり、米国では「戦争終結を早め、多くの犠牲を未然に救った」とする正当化論が一定の力を持つ。ただ、久間氏の言う旧ソ連参戦阻止説は否定的な見解が一般的だ。ウラン型とプルトニウム型の2発の原爆が使われたのも米側の当初方針だったとされ、非核三原則の下で核不拡散を求める日本政府の国防責任者として、歴史認識はずれていると言わざるを得ない。久間発言に対し、本島さんは「防衛政策通なのに、太平洋戦争や原爆を十分勉強していない」と失望を隠さなかった。

 その本島さんも最初から「原爆投下は仕方なかった」と考えていたわけではない。95年3月、東京の外国人記者クラブで「原爆投下はユダヤ人虐殺と並ぶ人類が犯した20世紀最大の罪」と批判した。ところが「投下を指示したトルーマン米大統領(当時)はヒトラーと同じか」と記者に切り返され、答えに詰まった。

 こうした海外の原爆観との違いに直面する経験を積み重ねて本島さんは、互いに自らの正当性を主張し非難し合うだけでは相互理解はあり得ないと痛感。「原爆投下は仕方なかった」という結論に達した。「被爆地では、被害だけを強調する傾向がある。しかし原因があるから結果がある。日本が戦争を始めなければ原爆投下はなかった」というのが理由だ本島さんは「『原爆投下は正しかった』と言える人たちとの妥協点を探った。被爆者の方は反論するだろうが、相手に少しはなるほどと思ってもらわないと意味はない」と話す。根底には「赦(ゆる)す」というカトリックの考え方があり、敵でも理解し合いたいという強い信念がある。そこに差別や軍隊での戦争体験で受けた痛みが加わる。それが天皇の戦争責任発言でも政治生命をかける姿勢となり、戦後日本への問題提起になった。

 これに対し「『しょうがない』はすぐ口をついて出る」と、自らの発言を失言にすり替えた久間氏。参院選を辞任の理由にする態度には、被爆地の痛みや苦悩を理解しようとする意思が感じとれない。それは、安倍政権の与党幹部や閣僚も同じだ。中川昭一・自民党政調会長や麻生太郎外相が繰り返した「核保有論議発言」など、核を巡る最近のさまざまな発言は結局、対米追従の構図の中での「放言」に過ぎず、表現の雑さ、荒っぽさが目につく。

 日本の加害責任と核の傘の下での反核運動の矛盾を問い続ける本島さん。「自虐史観」「原爆容認論」など、各方面から批判が集まる。だが、「使っていけないのは核兵器だけか。すべて兵器を使う状態を作り出す戦争こそ、絶対反対しなければならない」という本島さんの訴えには傾聴すべき点も多い。

 核兵器は多くの市民を無差別に殺傷する大量破壊兵器だ。原爆の使用は誤りであり、核兵器は廃絶すべきだと私も思う。同じ過ちは二度と繰り返されてはならない。そのためには、加害、被害を超えた相互理解と共感も必要だろう。

 日本は、原爆投下や戦争責任を巡る歴史認識をあいまいにして、他国との共通認識を得る努力を怠ってきた。このツケを清算しない限り、第2の久間発言は生まれ続けると思う。

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>根底には「赦(ゆる)す」というカトリックの考え方があり、敵でも理解し合いたいという強い信念がある。

本島元市長は「マッカーサーの三年殺し」にやられたのでしょうか、藤山一郎が歌う「長崎の鐘」と、同じ歴史観をお持ちのようで。

「NHK・BS2 ビッグショー」 反省の歌「長崎の鐘」

沖縄空手の必殺技 「マッカーサーの三年殺し」

                      ◆

 

久間氏どころではない本島・元長崎市長の原爆発言

2007/07/04 12:02
 毎日毎日、ドタバタしています。もう少し落ち着いて仕事をしたいものですが、世の中が動いているので仕方がありませんね。さて、昨日は久間章生防衛相の辞任表明と、後任に小池百合子首相補佐官の起用が発表されるなど大きなニュースがあったため、今朝の新聞にはあまり載っていないようですが、長崎市の田上富久市長が首相官邸を訪れ、安倍首相に久間発言について抗議しました。

 田上市長自身が記者団に語った話によると、田上市長は安倍首相に「今回の発言で、長崎は非常に傷つけられ、動揺している」と訴えたそうです。また、長崎県議会も昨日、久間発言に抗議する決議を全会一致で可決しています。「原爆」に関係する問題が、戦後60年以上がたった今も、いかに日本人の心の琴線に触れる取り扱いに注意を要するものであるかが、分かるように思います。

 私自身、何度も書いているように、久間氏の発言はいろんな意味で甚だ不適切だったと思っています。ただ、長崎市長が首相にまで面会を求め、抗議する姿を見ていて、ちょっと割り切れない思いがしたのも本当です。というのは、同じ長崎市の市長だった本島等氏の、米国による原爆投下を積極的に容認・肯定する一連の発言が頭をよぎったからでした。

 そして、そんなことを考えながら今朝の読売新聞の政治面を読んでいたところ、その本島氏のコメントが載っていました。本島氏は読売の取材に対し、「久間発言を責めるだけでなく、日本人にとって原爆投下は何だったのか、加害の責任も含め、正しい歴史認識を共有する機会にしてほしい」と語っているようです。これだけでは、本島氏は特別なことは何も言っていないようですが…。

 現職閣僚と元市長とでは、立場が違うので同列に論じることはできませんね。でも、久間氏の「しょうがない」発言をきっかけに、これまで被爆地・長崎の市長であった本島氏がどのようなことを述べてきたかを紹介するのは無意味ではないと思い、過去記事から引用します。まずは1998年8月に、産経新聞のインタビューに応じて語った言葉からです。

 「米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかったと、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ

 「1996年に国際司法裁判所は核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、通常兵器と変わらない原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺や三光作戦による死もすさまじい

 こうした本島氏の発言について、当時の伊藤一長・長崎市長(残念ながら射殺されましたね。ご冥福を祈ります)は「本島氏は現在は一市民であり、正式なコメントは差し控えたい」とした上で、「本島氏の発言は『戦争を終わらせるために何を使ってねいい』と取られかねない」「発言は不可解だ」などと述べていますが…。

 また、本島氏は同年7月には、共同通信のインタビューに対しては、広島と長崎への原爆投下について「落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの)15年間にわたるあまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」とも答えています。さらに、こんなことも言っています。

 「南京大虐殺、三光作戦、731部隊などは残虐の極致。日本人の非人間性、野蛮さが出ている

 本島氏は市長を辞めた(落選)後、あちこちで講演しては「侵略戦争をした日本は原爆を落とされて当然であり、日本に原爆を批判する資格はない」という趣旨のことを言い続けていたそうです。だれに何を吹き込まれたのだか。この人はこのほか、昭和天皇の戦争責任発言でも有名ですが、こうなると、反戦平和だとか非核だとかそういうレベルではなくて、単に過去の日本を非難したくて仕方がないだけという印象を受けます。反日日本人の一つの典型ですね。

 長崎市民も、本島氏の思想がここまで徹底(?)していると知って選んだわけではないと思いますが、こういう事例をみると、選挙とは難しいものだなと改めて感じます。候補の正体を考えないような安易な投票は、とんでもない結果を招くかもしれないと。

 今朝もテレビを見ていると、久間発言についていろんな人(コメンテーター、街の声)が「許せない」と批判していました。それはそれで分かるのですが、なんだか釈然としないものが残ったという次第です。久間氏自身には何の思い入れもないので、辞めていただいて結構なのですが。

 
◆おまけ:
「しょうがない」ではすまない、・・・と思い入れたっぷりの「西日本新聞」の怒りの記事も暇があったら見てね。
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死者を冒涜する「軍命令説」<史実封殺>届かぬ沖縄の心④ 

2007-07-11 06:15:29 | ★集団自決

    ■ほころびの出たマスコミの真実封殺■

「不都合な事実」の封殺に必死の沖縄・地元紙にもほころびが見え出した。

琉球新報の「沖縄戦特集<史実封殺> 届かぬ沖縄の心④」でその「不都合な事実」が顔を出して来た。

<元島尻郡教育研究所長で座間味村出身の宮城恒彦さん(74)=豊見城市=は沖縄戦当時、座間味村で起きた「集団自決」で姉を失った。>

今回の証言者は当時11歳とは言え「集団自決」の生き残りであり、11歳だったら大まかな記憶はあるだろうし証言者としての資格は充分だ。

宮城さんの証言は次のように続く。

<1945年3月26日の朝、宮城さんの家族が隠れていた壕に、気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。  この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>

そう、「集団自決」は軍の命令ではなく、米軍上陸の恐怖から起きたパニックで起きたと証言しているではないか。

「軍命令説」はここでもほころびを隠しきれていない。

 

    ■真実を語る証言者■

この後宮城さんの生々しい「悲惨な証言」が続く。

<腹部をえぐり取られた重症を負った姉の姿>

<逃げる子を引っ張って首を切ろうとする女性教諭>

確かに体験者でなければ表現できない悲惨な体験談だ。

宮城さんは自分でも聞き取り調査を続けて20年近くかけて体験記19冊にまとめていると言う。(★文末で著書紹介)

そして次のように証言を結んでいる。

<言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった>

「軍が直接命令をした」と言わずに「目に見えない命令があった」と考えたのは、後に大人たちの言葉で刷り込まれたのだろう。

当時11歳の少年が「直接命令する軍人の姿」は理解できても、「目に見えない命令」という抽象的な意味を理解できたとは思えない。

真実の証言とマスコミの煽動で揺れ動く心のあやが読み取れる証言だ。

宮城さんはきっと正直な方なのだろう。

沖縄戦の悲惨な体験者であり、生々しい「集団自決」の状況を証言はしても、

彼は一言も「軍の命令で集団自決した」とは証言していないのだ。

 

    ■死者を冒涜する「軍命令説」■

つぎのくだりは、「集団自決」の真実を知るための重要な場面である。

<・・・気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。 この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>

やはり大方の人が想像するように、島を米軍に囲まれ艦砲射撃の雨に村民は怯えきっていた。

そんな時、愈々米軍が上陸するとの知らせ、・・・これでパニックに陥った島の人々が自ら命を絶ったとしても不思議ではない。

むしろ上記のようなパニックもなく整然とした状況で、軍の命令があったからと言って、家族同士が血で血を洗うような殺し合いで自決することこそ信じられない。

軍の命令を主張する学者・マスコミは、「集団自決」で命を絶った人たちは、軍命令があったからと言って、何の判断力もなく、唯々諾々と家族の命を奪い合ったとでも言うのだろうか。

彼らは自決した人たちをまるで意思の無いロボット扱いすることによって、結局死者を冒涜していることに気がついていない。

 

★  書    名 潮だまりの魚たち―沖縄・座間味島の戦世  著者・ゲスト 宮城恒彦
出版社 クリエイティブ21
http://www.nhk.or.jp/book/review/review/2004_b_0320.html

テーマ
「潮だまりの魚たち―沖縄・座間味島の戦世」を語る
内容
宮城恒彦さんをお迎えして、座間味島の集団自決の生き残りである著者の、戦争体験や聞き書きを綴った「潮だまりの魚たち―沖縄・座間味島の戦世」についてお話を伺いました。

<「潮だまりの魚たち―沖縄・座間味島の戦世」の内容>
1945年3月、沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島・座間味島。平和で美しかったこの島は、一瞬にして地獄と化し、およそ700人の日本軍が戦死。犠牲となった島民は358人。そのうち、178人が集団自決でした。
『女の先生が持参していた、たった一個の手榴弾を使うことになりました。校長先生の合図で「天皇陛下萬歳」を三唱しました。その声が消えて数秒後、「パーッ」と耳に厚い板をたたきつけられるような、短い重い音響がしました。』(本文より)
当時11歳だった宮城さんは、この集団自決で、姉と担任教師を亡くし、逃げ場を失った純朴な島の人々は、まさに「潮だまりの魚」となったのです。
戦後60年、風化してゆく悲惨な記憶を今に伝える、貴重な戦争体験集です。 

 

 

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