
答えは「葵祭」、「祇園祭」それに「時代祭」。
云われてみると、どれも聞き覚えがある。
が、改まって聞かれるとなかなか名前が出てこない。
地元沖縄の祭りではないせいなのか。
沖縄にも三大祭りがあると云う。
これも聞かれると何人のウチナンチュが正解できるやら。
三大祭りとは、5月のハーリー(舟漕ぎ競争)、10月の大綱引き(那覇祭り)、そして2月の「尾類馬行列(尾類馬祭り)」を指すという。
ハーリーと大綱引きは、テレビでも放映され、沖縄観光の目玉として観光客にも知られている。
だが、尾類馬行列についてはあまり語られる事はない。
それどころか現在中止されているという。
中止の理由はその「尾類(ジュリ)」という言葉にあった。
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沖縄の解説本によるとジュリは尾類と書いて、女郎の事とある。
女郎とは今では既にに死語になりかかっているが、遊女、おいらん、娼妓のこと。 要するに遊郭で、遊客と枕をともにした女のことである。
尾類馬行列が中止になった理由は戦前は主に経済的理由であったらしい。
景気が良くなれば行列を景気よく繰り出し、不景気になれば中止する。
話は明快だった。
ところが施政権が返還されて沖縄県になってからの中止理由は簡単明瞭にはいかなくなった。
婦人団体が「尾類行列祭りの存続は公娼制度の復活につながる」と尾類行列に反対運動を起こしたのだ。
勿論、その一方尾類行列存続をを訴える意見もある。
自治会や市の観光課が「観光振興・地域活性化」と言う理由で尾類馬行列の復活を訴えているらしい。
だが現在中止されているところを見ると、反対派の意見が勝ったようだ。
観光振興だけでなく、伝統保存の立場からも復活を望む声もある。
こういうとき検索が威力を発揮する。
2003年3月23日の沖縄タイムスのオピニオン面に「ジュリ馬行列は立派な芸能」と題する屋部邦秀(65歳)さんという方の投稿があった。(文末に転載)
その中で尾類馬行列を「売春云々」の面だけを捉え伝統芸の面を無視してはいけないと主張している。
この手の問題に反対する婦人団体に異を唱えるのは容易な事ではない。
議論が熱すると話は一気に飛躍する。
「貴方は売春制度を支持するのか」
「貴方は女性差別主義者か」
更には論理を超えて感情的になるともう手におえない。
「貴方の趣味は買春か」、に始まり挙句の果ては「エロオヤジ」、「女性の敵」と自宅を女性団体の糾弾の声で包囲されかねない。
話は多少大袈裟だが、ご婦人方を敵に回すのはかくも恐ろしい事だという覚悟が必要だ。
戦後、学校で剣道の部活を反対する婦人団体があった。
いわく「剣道は人殺しを練習する術だから反対」ということだった。
これに異論を唱えると「人殺しを認めるのか。 戦争を賛美するのか」の感情論で大変だったようだ。
東京都の「はとバス・おいらん道中ツアー」の例を待つまでも無く、現代の常識で過去の伝統行事の是非を判断するのは愚だ。
伝統歌舞伎だって元を辿れば遊女歌舞伎から始まったという。
第一、歌舞伎者という悪いイメージの言葉さえある。
お座敷遊びについてはウンチクを傾ける知識は無いので、映画などの受け売りに頼ってみよう。
映画の中では今では京都観光のシンボルともなっている花柳界でも旦那とか身請け、借金による身売りと言った今の常識では許せない言葉が飛び交う。
それを根拠に現在の舞妓さんや芸子さんの出自を問うのは野暮と言うものだろう。
唐突に結論を持ってくると尾類馬行列に反対する女性団体の理由は尾類という「職業」に対する嫌悪感だけでない。
「尾類」という漢字の当て字にある。
「尾類・・・有尾人・・・」と言った奇異なイメージ・・・。
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◆≪[わたしの主張あなたの意見]/「立派な芸能」ジュリ馬行列/屋部邦秀=65歳
二月十一日の辻自治会の紹介に、三百年以上の伝統を誇り、那覇の三大祭りの一つであった「ジュリ馬行列」が「売春肯定になる」との批判から市の補助も絶たれ、その伝承に苦労している、とある。
「売春云々(うんぬん)」の考え方を否定はしませんが「ぜひ伝承していきたい」と懸命に努力なされている人がいることも考えてほしい。
なぜ「売春云々」になるのか。もし、ジュリの踊りだから、というのであれば、金細工や花風の歌や踊りもジュリの歌、踊りだが「売春云々」の話は聞きません。むしろ、立派な芸能として、歌い、踊られているのでは。ジュリ馬行列も立派な芸能と考えます。
異なる考え方を受け入れる寛容さが社会をつくるための大切なことでは。私の考えが正しい、ほかはだめ、否定、抹殺すべきである、ではいびつな社会にしかならない。
私たちの時代で途絶えさせることなく、次の時代にも確実に伝承させなければならない「立派な芸能」と考えます。(那覇市) ≫
