TABI天使日記

天使になったカナダのアジリティ犬と、ママ・パパの日常

日本人の死に時

2012-10-16 22:18:58 | その他
「そんなに長生きしたいですか?」が、サブタイトル。

終末医療が専門の医師が書いているので、説得力がある。
言いにくいことをズバッと言ってくれ、溜飲が下がる思い。

思い出すのは、高校時代。
生物の授業で、なぜかポックリ病が話題になった。生徒達は口々に「私も突然死したい!」「先生、どうやったらポックリ死ねるんですか?!」と先生に詰め寄り、授業の後半はポックリ病の話に終始した。

芳紀十六歳の、将来有望な女生徒達に「さっさとポックリ死にたい」と迫られて、教師も困惑したことだろう。超進学校で勉強、勉強の毎日で、私達は疲れていたのかもしれない。が、みな頭脳明晰な女の子であったから、無用に長生きするより適当なところでおサラバするほうが幸せだと、その年にして人生を達観してたことは確かだ。それに、祖父母と暮らしていた子も多かったから、老いてお迎えを待っているのになかなか死ねない苦しさを、間近で見ていたに違いない。

もちろん彼女達とて、わずか十六歳で死にたいと思ってたわけではない。当時の私達から見て老年というと、六十台とか七十台とかだった。「そのくらい生きれば、いいや」と思ってたのだ。

本に戻ると、爆笑したのが老人ホームでのいじめ。
ゲームで鈍くさいことやって負けた老人が、同じチームの老人から責められる。本人が「私、もう死んでしまいたい」と泣くと、いじわる婆さんが「あんたなんか、簡単に死ねんわ」と言っていじめるのだ。

子供のいじめは「お前なんか死ね」と、死を否定的に見ている。が、老人達は簡単に死ぬことが幸せだと思って懇願しており、死を肯定的に見ているので、「あんたなんか死ねない」と言うのがいじめなのである。

医学の進歩は多くの難病を克服する道を開いたが、同時に「死にたくても死ねない」状態で生きながらえる人々を作り出すもとになった。自然の摂理に挑戦を抱いた結果が、死ぬより辛い地獄の獄門なのかもしれない。「人間、生まれてきたからには生きることを望むべきだ」などという、病気の苦しみを知らない人々の「善意」が、延命治療をサポートする。本人の辛さは、誰にもわからない。

問題は、この現代にどうやって長生きせずにポックリ死ぬか?
アンチエイジングだの長寿法だの、くだらない情報はごまんとあれど、その反対に関する情報はきわめて少ない。生物の授業からウン十年、明確な答えはまだ聞いたことがない。


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