<諏訪大社本宮 すわたいしゃほんみや>
金屋子神が出雲国で指示したとされる
「良質の鉄を採るための方法」のほとんどが、
いわゆる「死」や「死体」に関連する内容です。
これらの話を前提に、「金屋子神は死を好む」
「金屋子神は生贄を必要とする」
などと論じられるわけですが、考えてみますと、
そのとき出雲のタタラ民が行ったのは、
「棺桶」「葬式」「死んだ人」に関する神事のみであり、
「生きている人間」を葬ったわけではありません。
つまり、その当時の出雲のタタラ民は、
極力「生贄」という習俗を避けようとした、
という風にも受け取れるのですね。
だとすれば、金屋子神が持ち込んだ風習は、
いったいどこから来たものなのでしょうか……。
現時点で、可能性のひとつとして考えられるのは、
「殺牛祭祀」という「生きた動物」を
神に捧げる文化を持つ新羅という国です。
金屋子神が縋った「諏訪の神」とも縁する
「新羅系の一部の渡来人」が、
人柱という神事を伝えたと仮定すると、
出雲国と播磨国との間で起きた「鉄の争い」が、
また違ったニュアンスに感じられるでしょう。