<多度大社 たどたいしゃ>
仮に、新羅由来の習俗を持つ渡来氏族が、
但馬国、播磨国などを経由し、
金屋子神への信仰とともに出雲に進出した経緯が、
『金屋子神祭文』に描かれているとすれば、
出雲で起きた「鉄の主導権争い」や、
それらの出来事を暗示したヤマタノオロチ神話が、
さらに具体性を帯びて迫ってくるようです。
一説によりますと、奥出雲のタタラの
棟梁である村下(および金屋子神)が、
麻(蔦)に足を取られて亡くなったあと、
次なる村下の立場を担ったのは、
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だったのだとか。
天目一箇神は「鍛冶の神」であるとともに、
筑紫忌部・伊勢忌部の祖神とされる神様ですね。
播磨国の和気氏と出雲国の安倍氏の一件以外にも、
中国地方に進出した渡来氏族の間では、
出雲の砂鉄を巡る攻防があったのでしょう。
伊勢神宮の創建にも関わったとされる
秦氏の重要人物・秦河勝が、
異国の神を信奉する大生部多を討ち取ったように、
この出雲の地でも、伊勢と縁する氏族が、
金屋子神の名前を借りた、ある種の「邪教」
を成敗した歴史があるのかもしれません。