寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 竹林の七賢

2011-12-20 10:17:35 | 十八史略
山公の啓事
濤昔在魏晉之、與嵆康・阮籍・籍兄子咸・向秀・王戎・劉伶相友。號竹林七賢。皆崇尚老莊虚無之學、輕蔑禮法、縱酒昏酣、遺落世事。士大夫皆慕效之、謂之放達。惟濤惟仍留意世事、至是典選、甄抜人物、各爲題目而奏之。時人稱之爲山啓事。

濤、昔、魏晋の間に在って、嵆康(けいこう)・阮籍(げんせき)・籍の兄の子咸(かん)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)・劉伶(りゅうれい)と相友(ゆう)たり。竹林の七賢と号す。皆、老荘虚無の学を崇尚(すうしょう)し、礼法を軽蔑し、縦酒(しょうしゅ) 昏酣(こんかん)、世事を遺落(いらく)す。士大夫、皆之を慕效(ぼこう)した。之を放達(ほうたつ)と謂う。惟、濤は仍(なお)世事に留め、是(ここ)に至って、選を典(つかさど)り、人物を甄抜(けんばつ)し、各々題目を為(つく)って之を奏す。時人、之を称して山公(さんこう)の啓事と為す。

崇尚 あがめたっとぶ。 縦酒 酒をほしいままに飲む。 昏酣 泥酔すること。 遺落 なげやりにする。 慕效 慕いならう。 放達 気ままにふるまうこと。 甄抜 才能を見分けて引き立てること。 啓事 天子などに申し上げる書面。

山濤はかつて魏から晋に代る時代に嵆康・阮籍・阮籍の甥の咸・向秀・王戎・劉伶と親交があり、竹林の七賢と呼ばれていた。皆老子や荘子の虚無の学を信奉し、礼法を軽蔑して、酒をとめどなく飲んでは泥酔し、世事をないがしろにした。当時の士大夫はこの風を慕い倣って放達と称していた。ただ山濤だけは世事にも心を留めて、吏部尚書となって官吏の人選をつかさどり、才能を見分けて引き上げるために、各項目ごとに特性を奏上した。人々は「山公の啓事」と呼んだ。

十八史略 外寧ければ、必ず内の憂い有り

2011-12-15 15:52:34 | 十八史略
祜請伐呉。議者多不同。祜歎曰、天下不如意事、十常七八。惟杜預・張華贊其計。祜病。求入朝面陳。晉帝欲使祜臥護諸將。祜曰、取呉不必臣行。但平呉之後、當勞聖慮耳。祜卒。以杜預爲鎭南大將軍、督荊州軍事。呉主皓淫虐日甚。預表請速征之。表至。張華適與帝棊、即推枰斂手贊其決。帝許之。山濤告人曰、自非聖人、外寧必有内憂。釋呉爲外懼、豈非算乎。時濤爲吏部尚書。

祜(こ)呉を伐たんと請う。議する者、多くは同ぜず。祜、歎じて曰く「天下、意の如くならざる事、十に常に七八」と。惟、杜預(とよ)・張華のみ其の計を賛(たす)く。祜、病む。朝に入って面(まのあた)りに陳(の)べんことを求む。晋帝、祜をして、臥しながら諸将を護せしめんと欲す。祜曰く「呉を取るは、臣の行(こう)を必せず。但(ただ)呉を平らぐるの後、当(まさ)に聖慮を労すべきのみ」と。祜卒す。杜預を以って鎮南大将軍と為し、荊州の軍事を督せしむ。呉主皓、淫虐日に甚だし。預、表して、速かに之を征せんことを請う。表至る。張華、適(たまた)ま帝と棊(き)す、即ち枰(へい)を推し、手を斂(おさ)めて、其の決を賛く。帝、之を許す。山濤、人に告げて曰く、「聖人に非ざるよりは、外(ほか)寧(やす)ければ、必ず内の憂い有り。呉を釈(ゆる)して、外(そと)の懼れと為さんこと、豈算に非ざらんや」と。時に濤、吏部尚書たり。

表 天子にたてまつる文書。 棊 囲碁。 枰 碁盤。 算 得失。吏部尚書 人事担当長官。

羊祜は呉を討伐するよう奏請した。しかし評議に加わった者の多くが反対した。羊祜は「世の中、思い通りにならないことが十中七八か」と歎いた。た
だ杜預と張華だけは賛成していた。羊祜が病気になり、朝廷に出て、直接意見を述べたいと願い出た。晋帝は、羊祜に寝ながらでもよいから将軍たちの力になるよう望んだが、羊祜は「呉を取るには必ずしも私が行く必要はございません。むしろ呉を平定された後に心を致されますように」と言った。祜が亡くなった。帝は杜預を鎮南大将軍に任命し、荊州の軍事を統括させた。一方、呉主皓の暴虐は日ごとに激しくなった。そこで杜預は上奏して直ちに呉を討ちたいと申し出た。その上奏文が着いたとき、帝は張華を相手に碁を打っていたが、張華は碁盤を押しやって裁可を促がしたので帝はこれを聞き入れた。
山濤は後日人にこう語った「聖人でない限り、外患が治まれば必ず内憂が起きるものだ、ここは呉を見逃して、外患にしておくほうが晋のためではないだろうか」このとき山濤は吏部尚書であった。


春誠流 創流祝賀会

2011-12-13 18:03:11 | 春誠流・中野区吟連
12月11日、春誠流になって初めての第17回総会が開かれ、併せて創流祝賀会が新宿三井クラブで催されました。中澤春誠代表の挨拶に続き、支部から昇格した。山陽吟詠会の中村春荘会長と、中野吟詠会の森谷春征会長に認定証が授与され、ご来賓の先生よりご祝辞をいただき、中村春荘会長の乾杯の発声の後パーティーに移りました。約2時間にわたり、和気藹々の歓談ののち、記念撮影を終えて散会しました。

十八史略 司馬炎西晋を建国

2011-12-13 17:58:23 | 十八史略
西晉世祖武皇帝姓司馬、名炎、河内人、昭之子、懿之孫也。昭爲晉王、議立世子。議者、以炎髪立委地、手垂過膝、臣之相、遂立。已而嗣爲王、即帝位。追尊懿爲宣皇帝、師爲景皇帝、昭爲文皇帝、大封宗室。晉有滅呉之志。以羊祜都督荊州事。呉以陸抗都督諸軍。祜與抗對境、使命常通。抗遣祜酒。祜飲之不疑。抗疾。祜與之成樂。抗即服之曰、豈有酖人羊叔子哉。祜務修政、以懐呉人、毎交兵、刻日方戰、不掩襲。抗亦告其邊戍、各保分界而已、毋求細利。時呉主皓不修政、而欲兼并、使術士筮取天下。對曰、庚子歳、青蓋當入洛陽。蓋謂銜璧之事。而皓不悟。用諸將謀、數侵盗晉邊。抗諌不聽。抗卒。

西晋世祖武皇帝、姓は司馬、名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為り、世子(せいし)を立てんことを議す。議する者、炎が髪、立てば地に委(い)し、手、垂るれば膝より過ぎ、人臣の相に非らざるを以って、遂に立つ。已にして嗣(つ)いで王と為り、帝位に即く。懿を追尊して宣皇帝と為し、師を景皇帝と為し、昭を文皇帝と為し、大いに宗室を封ず。晋、呉を滅ぼすの志有り。羊祜(ようこ)を以って荊州の事を都督せしむ。呉、陸抗(りくこう)を以って諸軍を都督せしむ。祜、抗と境を対し、使命常に通ず。抗、祜に酒を遣(おく)る。祜、之を飲んで疑わず。抗、疾(や)む。祜、之に成薬を与う。抗、即ち、之を服して曰く、「豈人を酖する羊叔子(ようしゅくし)有らんや」と。祜、務めて徳政を修め、以って呉人を懐(なづ)け、兵を交(まじ)うる毎に、日を刻して、方(まさ)に戦いて、掩襲(えんしゅう)せず。抗も亦其の辺戍(へんじゅ)に告げて、「各々分界(ぶんかい)を保つのみ、細利を求むること毋(なか)れ」と。時に、呉主皓、徳政を修めずして、兼并(けんぺい)せんと欲し、術士をして、天下を取らんことを筮(ぜい)せしむ。対(こた)えて曰く「庚子の歳、青蓋(せいがい)当(まさ)に洛陽に入るべし」と。蓋(けだ)し、璧を銜(ふく)むの事を謂うなり。而れども皓、悟らず。諸将の謀(はかりごと)を用いて、数しば晋の辺を侵盗(しんとう)す。抗、諌むれども聴かず。抗、卒す。

地に委し 地に届き。 使命 音信を通ずること。 酖する 毒殺する鴆に通ずる。 羊叔子 羊祜のあざな。 掩襲 急襲、不意討ち。 辺戍 辺境の守備軍。 分界 さかいめ、分担地域。 兼并 併せて一つにすること。
 術士 方術をつかう者。 筮 占う。 青蓋 皇太子が王に降されるこき乗る青いほろの車。 璧を銜む 国王が敵に降伏するとき、後ろ手に縛られて、璧を口に銜えて捧げたので、こういった。


西晋の世祖武皇帝、姓は司馬で名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為って、嗣子を決める評議が行われた。それに加わった者
達は炎の髪が、立っても地にたれるほど長く、手を下げると、膝の下にまで届くのは人の臣となる相ではないとして、あと嗣ぎに立てた。司馬昭を嗣いで晋王となり、やがて帝位に即いた。司馬懿を追尊して宣皇帝とし、司馬師
を景皇帝として、父昭を文皇帝として、一族をあげて王に封じた。
晋は呉を滅ぼそうとしていた。羊祜に荊州の都督を命じ、呉はそれに対して陸抗が諸軍の都督に任じた。羊祜も陸抗も国境を接していたが常に使者を行き来させていた、陸抗が酒を贈ると羊祜は疑いもせずにこれを飲み、陸抗が病気になると羊祜が薬を届けた。危ぶむ部下に陸抗は「人に毒を盛るような羊叔子ではないわ」とすぐに服用した。羊祜は徳政を布き、呉の人びとをも懐け、戦闘を交えるにも日時を決めてそれを守り、不意討ちをかけるようなことはしなかった。陸抗も国境部隊に「それぞれ受け持ち地域を守ればそれで良し、些細な手柄など考えるな」と布令ていた。
この頃、呉主の孫皓は善政を布かないばかりか、領土の併呑を求め、方術士に天下を取ることを占いさせた。「庚子の歳に、青蓋が洛陽にるであろう」との卦を示した。これは皓が天子に降伏することを意味していたが、皓は自分に都合よく解釈して、部将達の謀を用いてたびたび晋の国境を侵略した。そして陸抗の諌めを聴かず、抗もやがて亡くなった。


十八史略 司馬炎、魏を亡ぼす

2011-12-10 09:45:46 | 十八史略

漢人不意魏兵卒至、不爲城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王怒曰、若理窮力屈、禍敗將及、便當父子君臣、背城一戰、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。帝不聽。哭於昭烈之廟、先殺妻子而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封爲安樂公。帝在位四十一年、改元者四、曰建興・延煕・景耀・炎興。右自高帝元年乙未、至後帝禪炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。
呉主休殂。諡曰景皇帝。兄子烏程侯皓立。
魏司馬昭、先是已受九錫。已而進爵爲晉王。昭卒、子炎嗣。魏主奐僭位六年、改元二、曰景元・咸煕。炎迫魏主禪位、封爲陳留王。後卒。晉人諡之曰元。
魏自曹丕至是凡五世、四十六年而亡。
自漢亡後、又歴甲申、闕正統一年。

漢人、魏兵の卒(にわか)に至るを意(おも)わず、城守(じょうしゅ)を為さず。乃ち使いを遣わして璽綬を奉ぜしめ、艾(がい)に詣(いた)って降る。皇子(こうし)北地王(しん)怒って曰く、「若し理窮まり力屈して、禍敗(かはい)将(まさ)に及ばんとせば、便(すなわ)ち当(まさ)に父子君臣、城を背にして一戦し、同じく社稷に死し、以って先帝に見(まみ)えて可なるべし。奈何(いかん)ぞ降らん」と。帝聴かず。、昭烈の廟に哭し、先ず妻子を殺して後に自殺せり。艾、成都に至る。帝出でて降る。魏、封じて安楽公と為す。帝、位に在ること四十一年、元を改むる者(こと)四、建興・延煕(えんき)・景耀(けいよう)・炎興と曰う。右、高帝の元年乙未(いつび)より、後帝禅の炎興癸未(きび)に至るまで、凡(すべ)て二十六帝、通じて四百六十九年にして漢亡びたり。
呉主休、殂(そ)す。諡(おくりな)して景皇帝と曰う。兄の子烏程侯(うていこう)皓(こう)立つ。
魏の司馬昭、是より先、已に九錫を受く。已にして爵を進めて晋王と為る。昭卒し、子の炎嗣(つ)ぐ。魏主奐、僭位六年、改元すること二、景元・咸煕(かんき)と曰う。炎、魏主に迫って位を禅(ゆず)らしめ、封じて陳留王と為す。後卒す。晋人之に諡して元と曰う。
魏、曹丕より是(ここ)に至るまで凡て五世、四十六年にして亡ぶ。
漢亡んでより後、又甲申(こうしん)を歴(へ)て、正統を闕(か)くこと一年なり


城守 城を守ること。 璽綬 印璽とそれを佩びる紐。 詣 至る、伺候する。 社稷 建国のときに祭った土地の神の社と五穀の神の稷で国家のこと。 乙未 きのとひつじ。 癸未 みずのとひつじ。 甲申 かのえさる。

蜀漢では魏の兵がこれほど早く攻め込んで来るとは思わず、城の守りをしていなかった。そこで帝は使者に印綬を持たせて、艾に降伏を申し入れた。これを聞いて皇子の北地王劉は大いに怒って「すじみちに行き詰まり、力もつきはてて国に災禍が迫ったならば、父子君臣城を背に存分に戦い、ともに国家のために殉じてこそ、先帝にお目見えできるというものです。どうして降伏などなさるのですか」と諌めたが帝は聴き入れなかった。は昭烈帝の廟前で哭し、まず妻子を殺し、自ら命を絶った。艾が成都に到着すると、帝は城を出て降伏した。魏は帝を安楽公に封じた(263年)。後帝劉禅は位に在ること四十一年、年号を改めること四回、建興・延煕・景耀・炎興である。前漢の高帝の元年乙未の年から後帝禅の炎興癸未の年まで、あわせて二十六代、四百六十九年で漢は滅亡した。
呉王孫休が病死した。景皇帝とおくり名された。兄の子の烏程侯孫皓が即位した。
魏の司馬昭は、これより先に九錫を受けていて、間もなく爵を進めて晋王となった。昭が亡くなり、子の炎があとを嗣いだ。
魏の曹奐は位を僭すること六年、改元すること二、景元・咸煕という。炎、魏主に迫って位を譲らせ、陳留王に封じたが後に亡くなってから晋は元とおくり名した。
魏は曹丕からここに至るまであわせて五代、四十六年で滅亡した。
漢が亡んで、さらに甲申の歳を経ており晋が興る(乙酉の歳)まで一年の間、正統の天子がいなかったことになる。