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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 司馬炎、魏を亡ぼす

2011-12-10 09:45:46 | 十八史略

漢人不意魏兵卒至、不爲城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王怒曰、若理窮力屈、禍敗將及、便當父子君臣、背城一戰、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。帝不聽。哭於昭烈之廟、先殺妻子而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封爲安樂公。帝在位四十一年、改元者四、曰建興・延煕・景耀・炎興。右自高帝元年乙未、至後帝禪炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。
呉主休殂。諡曰景皇帝。兄子烏程侯皓立。
魏司馬昭、先是已受九錫。已而進爵爲晉王。昭卒、子炎嗣。魏主奐僭位六年、改元二、曰景元・咸煕。炎迫魏主禪位、封爲陳留王。後卒。晉人諡之曰元。
魏自曹丕至是凡五世、四十六年而亡。
自漢亡後、又歴甲申、闕正統一年。

漢人、魏兵の卒(にわか)に至るを意(おも)わず、城守(じょうしゅ)を為さず。乃ち使いを遣わして璽綬を奉ぜしめ、艾(がい)に詣(いた)って降る。皇子(こうし)北地王(しん)怒って曰く、「若し理窮まり力屈して、禍敗(かはい)将(まさ)に及ばんとせば、便(すなわ)ち当(まさ)に父子君臣、城を背にして一戦し、同じく社稷に死し、以って先帝に見(まみ)えて可なるべし。奈何(いかん)ぞ降らん」と。帝聴かず。、昭烈の廟に哭し、先ず妻子を殺して後に自殺せり。艾、成都に至る。帝出でて降る。魏、封じて安楽公と為す。帝、位に在ること四十一年、元を改むる者(こと)四、建興・延煕(えんき)・景耀(けいよう)・炎興と曰う。右、高帝の元年乙未(いつび)より、後帝禅の炎興癸未(きび)に至るまで、凡(すべ)て二十六帝、通じて四百六十九年にして漢亡びたり。
呉主休、殂(そ)す。諡(おくりな)して景皇帝と曰う。兄の子烏程侯(うていこう)皓(こう)立つ。
魏の司馬昭、是より先、已に九錫を受く。已にして爵を進めて晋王と為る。昭卒し、子の炎嗣(つ)ぐ。魏主奐、僭位六年、改元すること二、景元・咸煕(かんき)と曰う。炎、魏主に迫って位を禅(ゆず)らしめ、封じて陳留王と為す。後卒す。晋人之に諡して元と曰う。
魏、曹丕より是(ここ)に至るまで凡て五世、四十六年にして亡ぶ。
漢亡んでより後、又甲申(こうしん)を歴(へ)て、正統を闕(か)くこと一年なり


城守 城を守ること。 璽綬 印璽とそれを佩びる紐。 詣 至る、伺候する。 社稷 建国のときに祭った土地の神の社と五穀の神の稷で国家のこと。 乙未 きのとひつじ。 癸未 みずのとひつじ。 甲申 かのえさる。

蜀漢では魏の兵がこれほど早く攻め込んで来るとは思わず、城の守りをしていなかった。そこで帝は使者に印綬を持たせて、艾に降伏を申し入れた。これを聞いて皇子の北地王劉は大いに怒って「すじみちに行き詰まり、力もつきはてて国に災禍が迫ったならば、父子君臣城を背に存分に戦い、ともに国家のために殉じてこそ、先帝にお目見えできるというものです。どうして降伏などなさるのですか」と諌めたが帝は聴き入れなかった。は昭烈帝の廟前で哭し、まず妻子を殺し、自ら命を絶った。艾が成都に到着すると、帝は城を出て降伏した。魏は帝を安楽公に封じた(263年)。後帝劉禅は位に在ること四十一年、年号を改めること四回、建興・延煕・景耀・炎興である。前漢の高帝の元年乙未の年から後帝禅の炎興癸未の年まで、あわせて二十六代、四百六十九年で漢は滅亡した。
呉王孫休が病死した。景皇帝とおくり名された。兄の子の烏程侯孫皓が即位した。
魏の司馬昭は、これより先に九錫を受けていて、間もなく爵を進めて晋王となった。昭が亡くなり、子の炎があとを嗣いだ。
魏の曹奐は位を僭すること六年、改元すること二、景元・咸煕という。炎、魏主に迫って位を譲らせ、陳留王に封じたが後に亡くなってから晋は元とおくり名した。
魏は曹丕からここに至るまであわせて五代、四十六年で滅亡した。
漢が亡んで、さらに甲申の歳を経ており晋が興る(乙酉の歳)まで一年の間、正統の天子がいなかったことになる。