先是熒惑入南斗。梁主曰、熒惑入南斗、天子下殿走。乃跣下殿禳之。及聞脩出奔、慙曰、虜亦應天象邪。脩至長安、踰半年又與泰有隙。泰鴆之。後諡曰孝武皇帝。孝武既遇弑。泰立南陽王寶炬。歡與泰連年相攻戰、互有勝負。歡卒。遺言囑其子澄曰、侯景有飛揚跋扈之志。非汝所能御。堪敵景者、惟慕容紹宗。景果以河南降西魏、未幾復附于梁。梁封景爲河南王。景使至梁、梁羣臣皆不欲納。梁主亦自謂、我國家如金甌無一傷缺。恐納景因以生事。惟朱异力勸納之。
是より先、熒惑(けいわく)南斗に入る。梁主曰く、「熒惑南斗に入れば、天子、殿(でん)を下って走る」と。乃ち跣(せん)して殿を下って之を禳(はら)う。脩の出奔せしを聞くに及び、慙(は)じて曰く、「虜(りょ)も亦天象(てんしょう)に応ずるか」と。脩、長安に至り、半年を踰(こ)えて又泰と隙(げき)有り。泰之を鴆(ちん)す。後、諡(おくりな)して孝武皇帝と曰う。孝武既に弑に遇(あ)う。泰、南陽王宝炬(ほうきょ)を立つ。歓、泰と連年相攻戦し、互いに勝負有り。
歓卒す。遺言して其の子澄(ちょう)に嘱(しょく)して曰く、「侯景は飛揚跋扈の志有り。汝が能く御する所に非ず。景に敵するに堪(た)うる者は、惟慕容紹宗(ぼようしょうそう)のみ」と。景、果たして河南を以って西魏に降り、未だ幾(いくばく)ならずして復梁に附く。梁、景を封じて河南王と為す。景の使い、梁に至るや、梁の群臣、皆納るるを欲せず。梁主も亦自ら謂う「我が国家は金甌(きんおう)の一傷缺(しょうけつ)無きが如し。恐らくは景を納るれば、因って以って事を生ぜん」と。惟朱异(しゅい)のみ力(つと)めて之を納れしむ。
熒惑 火星、不吉な星。 跣 はだし。 天象 天体の起す現象。 勝負 勝ったり負けたりする。 飛揚跋扈 天翔け地を渉猟する志、高い地位に上り権勢を欲しいままにすること。 西魏 長安に逃れた元脩の魏。 金甌 金のかめ。 傷缺 缺は欠、欠けること。
これに先立って、熒惑が南斗星の坐に入るということがあった。梁主の武帝は「熒惑星が南斗の星座を侵すのは天子が玉座を下って逃げ出す前兆ではないか」と言って、裸足で宮殿から出て厄払いをした。やがて魏の元脩が洛陽を落ち延びたとの報を聞くと、「夷にも天の啓示は及ぶものか」と言って、厄払いをしたことを慚じた。元脩は、長安に来て半年あまりになり、宇文泰と仲違いが生じると泰によって毒殺され、後に孝武皇帝とおくり名された。宇文泰は脩を弑殺すると今度は南陽王の宝炬を立てた。
東魏の高歓と西魏の宇文泰は年々戦いをして、互いに勝ち負けを繰り返していた。やがて高歓が世を去ったが、死に臨んで子の高澄に遺言して「侯景という男は大きな野望をもっていて、とてもお前が適う相手ではない、対等にわたり合えるのは慕容紹宗ひとりだけだろう」と言った。果たして侯景は河南の地を献じて西魏に投じ、さらに梁につき従った。梁は侯景を河南王に封じた。
侯景の使者が梁に来たとき、梁の臣は侯景を迎え入れることに反対した。梁主も自ら「我が国は傷一つない黄金の甕のように治まっている。受け入れればむしろ禍をひきおこすであろう」とためらいをあらわにした。ただ朱异だけが、強く侯景を受け入れるよう主張し、武帝を説き伏せた。
是より先、熒惑(けいわく)南斗に入る。梁主曰く、「熒惑南斗に入れば、天子、殿(でん)を下って走る」と。乃ち跣(せん)して殿を下って之を禳(はら)う。脩の出奔せしを聞くに及び、慙(は)じて曰く、「虜(りょ)も亦天象(てんしょう)に応ずるか」と。脩、長安に至り、半年を踰(こ)えて又泰と隙(げき)有り。泰之を鴆(ちん)す。後、諡(おくりな)して孝武皇帝と曰う。孝武既に弑に遇(あ)う。泰、南陽王宝炬(ほうきょ)を立つ。歓、泰と連年相攻戦し、互いに勝負有り。
歓卒す。遺言して其の子澄(ちょう)に嘱(しょく)して曰く、「侯景は飛揚跋扈の志有り。汝が能く御する所に非ず。景に敵するに堪(た)うる者は、惟慕容紹宗(ぼようしょうそう)のみ」と。景、果たして河南を以って西魏に降り、未だ幾(いくばく)ならずして復梁に附く。梁、景を封じて河南王と為す。景の使い、梁に至るや、梁の群臣、皆納るるを欲せず。梁主も亦自ら謂う「我が国家は金甌(きんおう)の一傷缺(しょうけつ)無きが如し。恐らくは景を納るれば、因って以って事を生ぜん」と。惟朱异(しゅい)のみ力(つと)めて之を納れしむ。
熒惑 火星、不吉な星。 跣 はだし。 天象 天体の起す現象。 勝負 勝ったり負けたりする。 飛揚跋扈 天翔け地を渉猟する志、高い地位に上り権勢を欲しいままにすること。 西魏 長安に逃れた元脩の魏。 金甌 金のかめ。 傷缺 缺は欠、欠けること。
これに先立って、熒惑が南斗星の坐に入るということがあった。梁主の武帝は「熒惑星が南斗の星座を侵すのは天子が玉座を下って逃げ出す前兆ではないか」と言って、裸足で宮殿から出て厄払いをした。やがて魏の元脩が洛陽を落ち延びたとの報を聞くと、「夷にも天の啓示は及ぶものか」と言って、厄払いをしたことを慚じた。元脩は、長安に来て半年あまりになり、宇文泰と仲違いが生じると泰によって毒殺され、後に孝武皇帝とおくり名された。宇文泰は脩を弑殺すると今度は南陽王の宝炬を立てた。
東魏の高歓と西魏の宇文泰は年々戦いをして、互いに勝ち負けを繰り返していた。やがて高歓が世を去ったが、死に臨んで子の高澄に遺言して「侯景という男は大きな野望をもっていて、とてもお前が適う相手ではない、対等にわたり合えるのは慕容紹宗ひとりだけだろう」と言った。果たして侯景は河南の地を献じて西魏に投じ、さらに梁につき従った。梁は侯景を河南王に封じた。
侯景の使者が梁に来たとき、梁の臣は侯景を迎え入れることに反対した。梁主も自ら「我が国は傷一つない黄金の甕のように治まっている。受け入れればむしろ禍をひきおこすであろう」とためらいをあらわにした。ただ朱异だけが、強く侯景を受け入れるよう主張し、武帝を説き伏せた。
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