瑯琊諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・樂毅。備訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・龐士元也。徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。備三往乃得見亮、問策。亮曰、操擁百萬之衆。挾天子令諸侯。此誠不可與爭鋒。孫權據有江東、國險而民附。可與爲援、而不可圖。荊州用武之國、州險塞、沃野千里。天府之土。若跨有荊・、保其巖阻、天下有變、荊州之軍向宛・洛、州之衆出秦川、孰不箪食壺漿、以迎將軍乎。備曰、善。與亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。士元名統、龐公從子也。公素有重名。亮毎至其家、獨拝床下。
瑯琊(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽の隆中に寓居(ぐうきょ)す。毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)う。徽曰く、「時務(じむ)を識る者は俊傑に在り。此の間自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明・龐士元(ほうしげん)なり」と。徐庶(じょしょ)も亦備に謂って曰く、「諸葛孔明は臥龍なり」と。備、三たび往いて乃ち亮を見るを得、策を問う。亮曰く、「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)んで諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒(ほこ)を争う可からず。孫権、江東に拠有(きょゆう)し、国険にして民附く。与に援(えん)と為す可くして、図る可からず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)、沃野千里。天府(てんぷ)の土なり。若し荊・益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、天下変有らば、荊州の軍は宛(えん)・洛に向かい、益州の衆は秦川(しんせん)に出でば、孰(たれ)か箪食壺漿(たんしこしょう)して、以って将軍を迎えざらんや」と。備曰く、「善し」と。亮と情好(じょうこう)日に密なり。曰く、「孤(こ)の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」と。
士元、名は統、龐徳公(ほうとくこう)の従子なり。徳公素(もと)より重名(じゅうめい)有り。亮其の家に至る毎に、独り床下に拝す。
瑯琊 山東省南部の地名。 襄陽の隆中 湖北省襄陽県の隆中山。 管仲 春秋時代斉の宰相。楽毅 戦国時代の燕の将軍。 時務 当世の急務。 三たび往いて 三顧の礼。 図る 画策する。 天府 天然の庫、豊かな土地。 跨有 領有。 箪食壺漿 飲食物、箪食は竹の器に入れた飯、壺漿は壺に入れた飲み物。 魚の水あるが如し 水魚の交わり。 従子 甥。
瑯琊の人諸葛亮は襄陽の隆中山に寓居し、つねづね管仲、楽毅になぞらえていた。ある時、劉備は司馬徽に当代の傑物を尋ねた。すると「時局の急務を認識している者は俊傑といえるだろうが、中でも伏龍、鳳雛と言われる大人物がいる。それが諸葛孔明と龐士元だよ」と答えた。徐庶からも「諸葛亮は臥龍なり」と聞かされていた。そこで劉備は三度亮を訪ねてやっと会うことができた。劉備が天下経略の策を問うと、「曹操は百万の兵を擁し、天子を奉じて諸侯に号令しています。決して兵を交えてはいけません。孫権は江東を根城にして、その地は険阻で人民もよくなついています。共に援けあうべきであって、策略を用いて事をかまえるべきではありません。この荊州は武略を用いるのに適した国であり、益州は険阻な要害に恵まれ、そのうえ肥沃の野が続くまさに天恵の宝ともいうべき地であります。この二州を領有し、嶮しい地勢に守られつつ、天下の大事にあたって荊州の軍は宛から洛陽に向け、益州の軍隊は、秦川に撃って出れば、誰もが食物と飲み物を用意して将軍を迎えるに違いありません」と答えた。劉備はこれは良いと喜び、以後日増しに親密になってゆき、「自分にとって孔明はなお魚に水があるようなものだ」と言うようになった。
龐士元は名を統といい、龐徳公の甥である。公は平素から評判の高い人物であった。諸葛亮がその家に行くたびに、自分だけは床下から拝礼した。
読者の方からのリクエストで十八史略の諸葛孔明の部分を漫画にしました。
http://juppo.seesaa.net/article/486682968.html
その際、こちらの記事をかなり参考にさせていただき、リンクも貼らせていただいております。
勝手ながら、大変お世話になりました。
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