爾朱世隆與爾朱兆、立宗室長廣王曄、入洛陽。子攸遇弑。後諡曰孝莊皇帝。世隆又以曄疎遠廢之、立孝文之姪廣陵王恭。高歡起兵誅爾朱氏、入洛陽、廢恭而立孝文之孫平陽王脩。脩弑恭。後諡曰節閔皇帝。高歡爲大丞相、建府於晉陽居之。魏主畏歡、謀伐晉陽。歡擁兵來。魏主奔長安、依關西大都督宇文泰、以泰爲大丞相。歡追魏主、不及。遂立清河王世子善見於洛陽、遷于鄴。魏自道武至是十二世。一百四十九年、而分爲東魏・西魏。
爾朱世隆(じしゅせいりゅう)、爾朱兆と、宗室の長広王曄(よう)を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇う。後諡(おくりな)して孝荘皇帝と曰う。世隆は又、曄の疎遠なるを以って之を廃し、孝文の姪(てつ)広陵王恭を立つ。
高歓、兵を起して爾朱氏を誅し、洛陽に入り、恭を廃して孝文の孫、平陽王脩を立つ。脩、恭を弑す。後おくりなして節閔(せつびん)皇帝と曰う。高歓大丞相となり、府を晋陽に建てて之に居る。魏主、歓を畏れ、晋陽を伐たんことを謀る。歓、兵を擁して来たる。魏主、長安に奔(はし)り、関西(かんせい)の大都督、宇文泰に依り、泰を以って大丞相となす。歓、魏主を追いしも及ばず、遂に清河王の世子、善見を洛陽に立てて、鄴(ぎょう)に遷(うつ)る。
魏は道武より是に至るまで十二世。一百四十九年にして、分かれて東魏・西魏となる。
爾朱栄の従弟の爾朱世隆は甥の兆とともに、北魏の宗室に連なる長広王曄を立てて洛陽に入り、子攸を弑殺した(530年)。のちに孝荘皇帝とおくりなした。
世隆は後に曄を、王室の血筋から遠いとしてこれを廃し新たに文帝の甥の広陵王恭を立てた。
そこで高歓は兵を挙げて爾朱氏を誅し、洛陽に入って恭を廃し、文帝の孫にあたる平陽王脩を立てた。脩は恭を弑札殺した。後に節閔皇帝とおくりなした。高歓は大丞相となり、晋陽に幕府を開いてここを根城とした。魏主の元脩はこれを畏れて密かに晋陽を伐とうとしたが、高歓が先手を打って洛陽に攻め寄せた。元脩は長安に逃げて、関西大都督の宇文泰を頼り、泰を大丞相に任じた。高歓は元脩を追ったが、追いつけなかった。そこで清河王の世子、元善見を洛陽で帝位に即かせ、鄴に遷都した(534年)。北魏は道武帝からここに至るまで十二代、百四十九年で、高歓の立てた元善見の東魏と、長安に逃れた元脩の西魏の二つに分かれた。
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