昨日朝NHKBsの新漢詩紀行に李白の越中覧古が取り上げられていましたが、承句を、「義士家に還るに尽く錦衣す」と読んでいました。従来「義士家に還って尽く錦衣す」 と
読みならわしていましたが、違和感がありました。還るにの方が故郷に錦を飾る意でふさわしい気がします。 では昨日の続きです。
秦の始皇帝名は政、邯鄲に生まれる。かつて昭襄王の時に孝文王柱が太子となった。昭襄王には妾腹の子で楚という者が居て、趙に人質になっていた。そのころ、陽翟に住む豪商の呂不韋という者が趙に行き、楚を見るなり、「これは良いものを見つけた、手に入れておこう、後々きっと莫大な利益を生むに違いない」と言った。そこで不韋は秦に行き、太子柱の妃華陽夫人の姉に頼んで、華陽夫人を口説いて楚を太子柱の後継ぎにした。不韋は邯鄲の美姫を娶り、妊娠すると楚に献じて妃とした。そして政を生んだ、つまり政の本当の父親は呂不韋と言う訳である。昭襄王が薨じ孝文王柱が立ったがわずか三日で亡くなった。その後楚が立って莊襄王と為った。四年後莊襄王がみまかると政が十三歳にして王となり、母は太后となった。不韋は、莊襄王の時にすでに秦の宰相になっていたがこの時に文信侯に封ぜらた。王の母太后と呂不韋の密通が発覚し不韋は自殺させられ、太后も廃せられて別宮殿にいたが、茅焦の諌めがあって元に戻った。
華陽夫人に取り入った経緯は史記の呂不韋列伝に詳しい。
不韋は小遣いとして五百金を子楚に渡し、食客たちと交際させ、さらに五百金で献上物を買って秦に旅立つ。華陽夫人の姉に面会して進物を夫人に託しがてら、こう言わせた。
「吾これを聞く、色を以て人に事(つか)うる者は、色衰うれば愛弛む、と。今、夫人は太子に事(つか)え、甚だ愛せらるるも、子なし。この時を以て蚤(はや)く自ら諸子の中の賢孝なる者と結び、挙立して以て適となし、これを子とせざるや。中略 繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰え愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚お得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら、中男なれば、次として適と為るを得ず、其の母も又幸せららるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人、もし此の時を以て、抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を畢(お)うるまで秦に寵あらん」と。
適 あとつぎ
読みならわしていましたが、違和感がありました。還るにの方が故郷に錦を飾る意でふさわしい気がします。 では昨日の続きです。
秦の始皇帝名は政、邯鄲に生まれる。かつて昭襄王の時に孝文王柱が太子となった。昭襄王には妾腹の子で楚という者が居て、趙に人質になっていた。そのころ、陽翟に住む豪商の呂不韋という者が趙に行き、楚を見るなり、「これは良いものを見つけた、手に入れておこう、後々きっと莫大な利益を生むに違いない」と言った。そこで不韋は秦に行き、太子柱の妃華陽夫人の姉に頼んで、華陽夫人を口説いて楚を太子柱の後継ぎにした。不韋は邯鄲の美姫を娶り、妊娠すると楚に献じて妃とした。そして政を生んだ、つまり政の本当の父親は呂不韋と言う訳である。昭襄王が薨じ孝文王柱が立ったがわずか三日で亡くなった。その後楚が立って莊襄王と為った。四年後莊襄王がみまかると政が十三歳にして王となり、母は太后となった。不韋は、莊襄王の時にすでに秦の宰相になっていたがこの時に文信侯に封ぜらた。王の母太后と呂不韋の密通が発覚し不韋は自殺させられ、太后も廃せられて別宮殿にいたが、茅焦の諌めがあって元に戻った。
華陽夫人に取り入った経緯は史記の呂不韋列伝に詳しい。
不韋は小遣いとして五百金を子楚に渡し、食客たちと交際させ、さらに五百金で献上物を買って秦に旅立つ。華陽夫人の姉に面会して進物を夫人に託しがてら、こう言わせた。
「吾これを聞く、色を以て人に事(つか)うる者は、色衰うれば愛弛む、と。今、夫人は太子に事(つか)え、甚だ愛せらるるも、子なし。この時を以て蚤(はや)く自ら諸子の中の賢孝なる者と結び、挙立して以て適となし、これを子とせざるや。中略 繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰え愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚お得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら、中男なれば、次として適と為るを得ず、其の母も又幸せららるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人、もし此の時を以て、抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を畢(お)うるまで秦に寵あらん」と。
適 あとつぎ
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