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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 

2011-03-01 11:10:21 | 十八史略
孝元皇帝名奭。初爲太子、柔仁好儒。見宣帝所用、多文法吏、以刑名縄下。嘗燕、從容言、陛下持刑太深。宜用儒生。宣帝作色曰、漢家自有制度。本以覇王道雜之。奈何純任教、用周政乎。且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。何足委任。乃歎曰、亂我家者太子也。宣帝少、依太子母家許氏。許后以霍氏毒死。故弗忍廢太子。至是即位。
初元元年、立皇后王氏。

孝元皇帝名は奭(せき)。初め太子たりとき、柔仁(じゅうじん)にして儒を好む。宣帝の用うる所を見るに、文法の吏多く、刑名を以って下(しも)を縄(ただ)す。嘗て燕(えん)するとき、従容として言う、陛下刑を持すること太(はなは)だ深し。宜しく儒生を用うべし、と。宣帝色を作(な)して曰く、漢家自から制度あり。本より覇王の道を以って之に雑(まじ)う。奈何(いかん)ぞ純(もっぱ)ら徳教に任じて、周の政を用いんや。且つ俗儒は時宜に達せずして、好んで古を是とし今を非とし、人をして名実に眩(げん)して守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや、と。乃(すなわ)ち歎じて曰く、我が家を乱る者は太子なり、と。
宣帝少(わか)きとき、太子の母家の許氏に依る。許后、霍氏の毒を以って死す。故に太子を廃するに忍びざりしなり。是(ここ)に至って位に即く。
初元元年、皇后王氏立つ。

孝元皇帝(元帝)は名を奭という。太子であった時から、温和柔順で仁愛に富み、儒学を好んだ。宣帝の用いる者を見ると、司法に関与する役人が多く、刑名の法に基づいて臣下を糺してきた。ある時、酒宴の席上で、おもむろに申し上げた。「陛下は大変仕置きを厳しくなさっておいでですが、聖人の道を説く儒生を登用されてはいかがでしょうか」と。宣帝は顔色を変えて「漢家には漢家の制度がある、それは覇道と王道を交えもちいている。道徳の教化に頼る周代の政治に倣うことがあろうか。それに儒者どもは時勢の変化について行けず、昔を良しとし、今を悪いと決めつける、建前と実状とについて人を惑わし何に従い何を守るべきかを知らせない。そんな者に政治を委ねることなど出来ようか」さらに歎息して「わが漢家を衰え乱す者はおそらく太子であろう」と言った。
宣帝は若い頃、太子の母(宣帝の后)の実家の許氏に身を寄せていた。ところが許后は霍氏によって毒殺されたので不憫に思い廃位に踏み切れなかった。かくて宣帝が崩御すると太子が位に即いた。
初元元年(前48年)、王氏を立てて皇后とした。

文法 法律。 刑名 刑は形に通じ、行い。名は言で言行。 言行の一致を要求し、それにより賞罰することを政治の根幹とする法家の学説。 燕 宴に同じ。 覇王 力で統治するのが覇道、徳で統治するのが王道。

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