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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 太后の遺言

2014-11-11 08:31:13 | 十八史略

太宗皇帝初名匡乂、太祖長弟也。太祖入京城、匡乂首請號令諸將、戢士卒。仍自於馬前戒摽掠。太祖受禪、乃改名光義。尹開封、同平章事。封晉王。建隆二年、昭憲杜太后、臨崩謂太祖曰、汝知所以得天下者乎。太祖曰、皆祖考與太后之餘慶。太后笑曰、不然。正由柴氏使幼兒主天下耳。汝萬歳後、當傳位晉王、晉王傳秦王、秦王位傳昭。國有長君、社稷之也。太祖曰、謹受教。

太宗皇帝初めの名は匡乂(きょうがい)、太祖の長弟なり。太祖京城に入るや、匡乂、首として諸将に号令し、士卒を戢(おさ)めんと請う。仍(よ)って自ら馬前に於いて摽掠(ひょうりゃく)を戒む。太祖、禅(ゆずり)を受けて乃ち名を光義と改む。開封に尹(いん)として、同平章事たり。晋王に封ぜらる。建隆二年、昭憲杜太后、崩ずるに臨んで太祖に謂って曰く「汝天下を得る所以(ゆえん)のものを知るか」と。太祖曰く「皆祖考と太后との余慶なり」と。太后笑って曰く「然らず。正に柴氏が幼児をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝万歳の後、当(まさ)に位を晋王に伝え、晋王は秦王に伝え、秦王は以って徳昭に伝うべし。国に長君(ちょうくん)あるは社稷(しゃしょく)の福(さいわい)なり」と。太祖曰く「謹んで教えを受く」と。

匡乂 匡義の間違いという。 戢 治める。 摽掠 脅かすことと掠めとること。 尹 長官。 昭憲杜太后 太祖の母、昭憲は諡(おくりな)杜は姓。 祖考 ここでは亡父のこと。 柴氏 後周の姓。 万歳 貴人の死。 徳昭 太祖の子。 長君 年長の主君。 社稷 国家。

太宗皇帝は初めの名を匡乂(匡義)といい、太祖の一番上の弟である。太祖が汴京に入った時、真っ先に進み出て「私が諸将に号令して、士卒を取り締まりましょう」と請い、自ら太祖の馬前に出て「民を脅かしたり財産を掠め取ってはならぬ厳命した。太祖は、後周の恭帝から禅譲をを受けると名を光義と改め、開封の長官として、治安を維持し、同平章事として国政に参画し、晋王に封ぜられた。
建隆二年、昭憲杜太后が崩ずるに臨んで太祖に言った「そなたが天下を手に入れた訳を存じていられるか」と。太祖は曰く「皆祖考と太后との余慶なり」と。太后笑って曰く「然らず。正に柴氏が幼児をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝万歳の後、当(まさ)に位を晋王に伝え、晋王は秦王に伝え、秦王は以って徳昭に伝うべし。国に長君(ちょうくん)あるは社稷(しゃしょく)の福(さいわい)なり」と。太祖曰く「謹んで教えを受く」と「亡き父上と母上の善行の余慶でございます」と答えると太后は笑って「いやそうではない周の世宗が幼児を天子にしたからに外ならない。そなたが亡きあとは弟の晋王に位を譲り、晋王はその弟の秦王に譲り、秦王に至ってそなたの子の徳昭に伝えなさい。国に年長の君主のあるのは国家にとっての幸いです」と遺言した。太祖は「謹んで教えを承りました」と言った。

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