涿郡劉備、字玄、其先出於景帝。中山靖王勝之後也。有大志。少語言、喜怒不形於色。河東關羽、涿郡張飛、與備相善。備起。二人從之。
孫堅之子策、與弟權留富春。遷于舒。堅死、策年十七。往見袁術。得其父餘兵。策十餘歳時、已交結知名。舒人周瑜、與策同年。亦英達夙成。至是從策起。策東渡江轉鬭、所向無敢當其鋒者。百姓聞孫郎至、皆失魂魄。所至一無所犯。民皆大悦。
涿郡(たくぐん)の劉備、字は玄、其の先(せん)は景帝より出ず。中山靖王(ちゅうざんせいおう)勝の後(のち)なり。大志有り。語言(ごげん)少なく、喜怒、色に形(あら)わさず。河東の関羽、涿郡の張飛、備と相善(よ)し。備起こる。二人(ににん)之に従う。
孫堅の子策、弟権と富春に留まる。舒(じょ)に遷(うつ)る。堅死するとき、策年十七。往(ゆ)いて袁術に見(まみ)ゆ。其の父の余兵を得たり。策十余歳の時、すでに交結(こうけつ)して名を知らる。舒人(じょひと)周瑜(しゅうゆ)、策と同年なり。亦英達(えいたつ)夙成(しゅくせい)なり。是(ここ)に至って策に従って起こる。策、東のかた江を渡って転闘し、向う所敢えて其の鋒(ほこ)に当る者無し。百姓(ひゃくせい)、孫郎至ると聞き、皆魂魄を失う。至る所一も犯す所無し。民皆大いに悦(よろこ)ぶ。
交結 まじわる。 夙成 若くして学業などができあがっていること、早熟。
涿郡(河北省)の劉備、字は玄徳、先祖は景帝の第六子の中山靖王勝の後裔である。かねてから大志を抱き、寡黙にして感情を顔にださなかった。
河東(山西省南部)の関羽、涿郡の張飛が劉備と親交があり、兵を挙げると二人はこれに加わった。
孫堅の子孫策は弟の孫権と富春県(浙江省)に留まり、後に舒州(山東省)に移った。孫堅が死んだとき孫策は十七歳であったが、袁術に会って父の残兵を受け継いだ。十歳余りの時にすでに豪傑たちと交わりを結び、名を知られていた。
舒州の人周瑜も孫策と同年でやはり早くから英才を謳われていたが、ここに至って孫策のもとに馳せ参じた。東を目指し揚子江を渡って転戦したが、鋒の前に立ち向かう者はなかった。人びとは孫策が来ると聞くと、みな震え上がったが、いよいよ来てみると掠奪も一切無かったので、大いに喜んだ。
孫堅之子策、與弟權留富春。遷于舒。堅死、策年十七。往見袁術。得其父餘兵。策十餘歳時、已交結知名。舒人周瑜、與策同年。亦英達夙成。至是從策起。策東渡江轉鬭、所向無敢當其鋒者。百姓聞孫郎至、皆失魂魄。所至一無所犯。民皆大悦。
涿郡(たくぐん)の劉備、字は玄、其の先(せん)は景帝より出ず。中山靖王(ちゅうざんせいおう)勝の後(のち)なり。大志有り。語言(ごげん)少なく、喜怒、色に形(あら)わさず。河東の関羽、涿郡の張飛、備と相善(よ)し。備起こる。二人(ににん)之に従う。
孫堅の子策、弟権と富春に留まる。舒(じょ)に遷(うつ)る。堅死するとき、策年十七。往(ゆ)いて袁術に見(まみ)ゆ。其の父の余兵を得たり。策十余歳の時、すでに交結(こうけつ)して名を知らる。舒人(じょひと)周瑜(しゅうゆ)、策と同年なり。亦英達(えいたつ)夙成(しゅくせい)なり。是(ここ)に至って策に従って起こる。策、東のかた江を渡って転闘し、向う所敢えて其の鋒(ほこ)に当る者無し。百姓(ひゃくせい)、孫郎至ると聞き、皆魂魄を失う。至る所一も犯す所無し。民皆大いに悦(よろこ)ぶ。
交結 まじわる。 夙成 若くして学業などができあがっていること、早熟。
涿郡(河北省)の劉備、字は玄徳、先祖は景帝の第六子の中山靖王勝の後裔である。かねてから大志を抱き、寡黙にして感情を顔にださなかった。
河東(山西省南部)の関羽、涿郡の張飛が劉備と親交があり、兵を挙げると二人はこれに加わった。
孫堅の子孫策は弟の孫権と富春県(浙江省)に留まり、後に舒州(山東省)に移った。孫堅が死んだとき孫策は十七歳であったが、袁術に会って父の残兵を受け継いだ。十歳余りの時にすでに豪傑たちと交わりを結び、名を知られていた。
舒州の人周瑜も孫策と同年でやはり早くから英才を謳われていたが、ここに至って孫策のもとに馳せ参じた。東を目指し揚子江を渡って転戦したが、鋒の前に立ち向かう者はなかった。人びとは孫策が来ると聞くと、みな震え上がったが、いよいよ来てみると掠奪も一切無かったので、大いに喜んだ。
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