夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

デューク エリントン      柴田浩一 愛育社  追加あり

2008年10月05日 22時30分55秒 | 芸術・文化
最近、愛育社から柴田浩一さんの「デューク エリントン」という本が出版されました。
(やっと、Amazonで売りに出ましたので、一番下にリンクを追加しておきます)

この前の二つの日記、「板橋文夫って」と「Proceed with caution」はこの本を紹介したくって、何をどう書くってもやもやした思いを心の中で纏め上げるために書いたものだというと怒られるかな?

板橋文夫はこの本の出版記念に演奏してくれた人。私としては彼が自分の作り出す音の世界と自分の戦争を、自分の中だけに終わらせないで、聴く人の心にまで投げてくるようなあのスタイル。あれに心を奪われてしまったのです。それは数年前に横濱ジャズプロムナードで彼のアンサンブルとして聞いた音とはまた違うもの、ソロ演奏としての彼の音楽は、私がそれをどう受け止めるかを真摯に、心の真ん中に投げかけてくる宣戦布告のようなものとして受け止められました。ほんとうに身震いがするような音。でも、日記にも書いたけど、正直疲れた。。。。

奴隷として異国につれてこられ家畜のような生活を強いられてきた黒人達が、唯一生きる力を振起させたものがジャズ。それは心の叫びでもあったわけです。それが南北戦争によって廃棄された軍楽隊の楽器を持つようになり、音楽として成長していった。それがジャズなのですね。あきらめに裏打ちされたような音楽と、板橋氏の音楽はまったく異質なもののはずなのに、私の心の中ではなぜかまったく違和感がなく受け入れられる。なぜなのだろう、これはこれから考えなければいけない、私の宿題になりました。

ところで「Proceed with caution」はまた違った方向からの、アプローチ。こちらではproceed with cautionというアメリカの道路標識を導入にして、柴田氏の出版記念に行く前に電車の中で読もうと買った漢詩の本のことについて書いています。
この本には、詩は心だよってことが一番の命題として掲げられています。でもどのページも漢詩の作法についての話ばかり。以前にこの日記で紹介した碧巌録のことを思い出しました。この本のまず最初に、真理というのは言葉では表せないものっていうのが堂々と書かれている。そして連綿とその真理についての言葉が並ぶ。はて?って感じの本ですね。
そのときは東洋の考え方は難しすぎるなんて逃げを打っていましたけど、なに、私がずっと仕事にしてきた西洋の美術でも、音楽でも、「大事なのは心」って言うのです。技術はその心を表すためのもの、技術は単なる道具だってね。でも、実際に習おうとすると、技術や理論しか教えてもらえない。
それは芸術だから特別なのでしょうって言われるのですか?
私が携わってきたアートマネージメントの世界でも、教えるのは技術や情報だけ。何を、どう評価していくかというのが最初にあるべきだけど、それは個人の問題だから、科学ではないのだそうですよ。
でもアートマネージメントなんてたんなる職能教育。科学の一部門なんていうのは学者さんが象牙の塔の中でほざいていればいい。
ここで学んだ学生が一番最初、そして最後まで当面するのは、道具の使い方じゃなくて、自分がすばらしいって評価するものってなんだろうってことなんですから。

ジャズを理解するのも、まずは心で理解することなのでしょう。
そしてその上で、その背景とか、動きとかを理解し、さらに理解を深めていくということなのでしょう。まあ学者さんや評論家は反対のアプローチをするけどね。

エリントンというジャズの巨匠に関しても、さまざまな出来事や、演奏を通じて、いろんな論評や、優れた記録が断片的に出されている。でもこの本はほとんどエリントン狂いといっても過言でない柴田氏が一生をかけてまとめ上げられたエリントンという人の生涯の膨大なモニュメントであるとともに、エリントンという近代ジャズの巨匠の活動を通じてのジャズの変遷の記録になっている本に仕上がっている。(なに? まだ一生を終わっていない。あっ、これは失礼、ごめんなさい。香典をくれる人を怒らせたりしちゃいけないんでした)

でも私がこの本を紹介したいと思うのは、それがただの歴史や記録だけの通年史で終わっていないところ。
多くの出来事には、柴田氏の気持ちや、彼の目に映じた背景説明や、その折の音へのアプローチのヒントが埋め込まれているのはとてもすばらしい。
最初の板橋氏のところで感じた疑問も、この中になにやら答えがありそうな予感。
エリントンが嫌いな人でも、ジャズが好き、ジャズのことを体系的にもっと知りたいという人にはぜひ一読してもらいたい本だと思う。

なお柴田氏によれば、「この本の写真、僕が撮ったんだからね」ということらしい。エリントンの来日の写真などたくさんの写真が資料として添付されているけど、エリントンのフアンにとっては、本当に貴重な写真だと思う。







デューク・エリントン
柴田 浩一
愛育社

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Proceed with caution

2008年10月05日 15時35分48秒 | 芸術・文化
知人のブログを出発点にあちこちサーフしていたらこんな看板のついたブログの日記に行き当たった。

Squirrel Crossing
Proceed with caution

テネシー州ナッシュビルにある道路標識。

リスが横断します。
運転に気をつけて。

なんて文を渡されて、翻訳しなさいって言われたら、Proceedって単語をすんなり使えるかなって思うと、多分思いつかないでしょうね。
昔もイギリスの田舎のドライブインで車を駐めたときに、
「駐車場に止めている車に事故があっても私ども(マネージメント)は責任を負いかねます」というような看板が出ていたけど、そのときの「責任を負かねます」という部分が、こんな言い回しは、どうとちくるっても、私の英語力ではでてこないよねって、魂消てしまったことがある。写真は撮ったんだけど、どこかへ行ってしまったので、その言い回しが出てこない。
英語は仕事の言葉だったのだけど、でもいくらやっても旨くならないし、今でもへぇ、、、、ってことがずいぶんとある。
外国語って難しい。
それにその社会背景や、そのときの環境を知らなければ訳なんてできないよということはいくらでもある。
翻訳や通訳をやる人たちって尊敬しちゃいますよ。


なぜ、そんなことを言い出しているかというと、昨日の外出のときに電車で読む本を買ったのです。安岡正篤「新編漢詩読本」 この本に関して今、何もいうことはできないし、安直に人にお勧めするということもできないのだけど、でも読み進めると、安岡氏の言われる詩の心ということより、文字を知らなければ、社会を知らなければ、人を知らなければ、詩ってわからないんだね~ってことを痛感したからにほかなりません。

ほんと、あと十回生を受けて、好きなことを勉強できたとしても、果たしてそれで満足できるものが見えてくるのでしょうか。たぶん、私には無理でしょうね。
それにしても、果たしてそんな勉強がなんの役に立つのだろうっていう、私の持論もまた強くなってくる。でも、感覚的であるためには理論的でなければ、、、それが私の思いでもあるのですけど。



猫が分からなきゃ、猫の詩は分からないよ、、、ねっ。






板橋文夫って

2008年10月05日 00時30分19秒 | 芸術・文化

知人の出版記念のパーティーに出席しました。
横浜の著名なライブハウス、バーバーバーでありましたが、文字通り立錐の余地のないくらいに大盛況でした。
本に関しては、まだ読み終えていませんので、読み終えたら、紹介記事を書くことになるかもしれません。でもつらつらと見るに、読了するまでにだいぶ時間がかかりそうです。
タイトルは「デューク エリントン」愛育社からの刊行ですが、今日の時点では、まだ本屋には出ていないと思います。

今日のパーティには私がいる間には二組のバンドが出ていました。ひとつはクワルテットで、そつのない演奏、スタンダードなプログラムで高齢者の多い???会場の雰囲気を上げてくれていました。やはりジャズって、もう若い人の趣味ではなくなってきたのでしょうか?

もうひとつは板橋文夫。彼はアンサンブルを予定されていましたけど、私が聞いた時間は彼のソロ。
彼の音楽って、自分の音やメッセージを聞く人にぶつけて葛藤を呼び起こさせるようなものですね。音だけをそのまま受け入れられるようなものではない。それに対してこちらも自分の気持ちをそれにぶつけて、その上で、やっと自分なりの聞き方ができる。音の一つ一つとの勝負みたいなところがあって、正直に告白すると、疲れました。
でもやはり、音の世界で、そこまで聞く人に要求する、あるいは思わせる演奏ができるっていうのは彼の希有な世界なのでしょうね。それができる才能というのもまたすばらしいものだと思います。


サブカメラで、クアルテット(パーカッションが隠れてまして、トリオになっていましたけど)や板橋氏、挨拶をされた鶴岡氏や、ご当人を抑えましたけど、承諾を得ていないので、ブログにアップしていいのかどうか迷い、今回はアップしておりません。

今日は珍しく、絵面なしの日記だけで終わりますね。