夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

何とかならないかな この性格

2008年10月21日 11時38分06秒 | 日記

先日もベランダの花で紹介したバラ。
なんてことない小さな花ですけど、いま一生懸命に咲いています。
山や、田んぼのあぜなどで咲いている野の花を見て、その健気さに感動することも多いし、花屋さんの店頭を飾る見事な花々を見ているとうっとりとすることもしばしば。
でも、このバラを見ていると、私はたくさんある花の中でやっぱりバラが好きなのかなあと思います。
それもこのような小さなバラ。それが咲き始めてきて、あちこちの枝にポツリポツリと咲いているようなとき、なんとなく心が温かくなるような、そんな気持ちに包まれます。



確かにどこから見ても、けちのつけようのないような豪華なバラ、見事なバラはたくさんあるのですけど、、、それはそれで、すばらしい、はっと目を引きます。
でも、それを受け入れ、相対するエネルギーが足りないのかな?

自分の許容範囲が自分が思っている以上に狭いせい?
美しすぎるものは、雲の上って、、、、でも、それはないかもしれない。

ずっと昔にダンスの子とヌード談義をしたことがあります。この子は自分の舞台のコレオグラフもやるのですけど、次はヌードをやるって言ったんで、普通の観客はそっちのほうに気をとられて、あなたがなにを言いたいのかには気がいかなくなるかもしれないよってことを言った覚えがあります。
この子はイギリスやオランダの美大でも教壇に立っていて、自分の舞台に批評を加えてきた批評家と延々と芸術論を戦わせていた、理論派だったけど、こちらもあの当時は対抗するエネルギーがあったんですよね。
ところで、話がまたまた変わりますけど、今さっき長谷京のドラマの再放送をしていたんです。私はこの人は本当に美人だと思います。この人のキャノン(?)のプリンターの広告なんか今でも目に残っている。この人は大根だよなんてことを言う人がたくさんいたんだけど、今見ているときちんと演技しているじゃないなんて思う。でも、綺麗過ぎるというのはある部分マイナスなのかな、見る人がその綺麗さに気持ちを奪われてしまうから。

それとも私の性格のなせる業?
散歩のし過ぎで体が重くなると、今日も出かけるぞってことになるし、
見事な秋の青空、爽やかな風、暑くもなく、寒くもない、一年で一番良い時期、それを見ているとなんとなく欝っぽくなります。
これから野山を飾る錦の時期。もっと欝になるのでしょうか。
陽気なグループに入ると一人ぽつんと浮いていて、周りを心配させる。
なんとかならないかといつも自分でも思っている天邪鬼。
でも、この性格だけはなんとも仕様がないですね。


私が美しいと思うのもは、それ自身の中に、あるいはそれを見る私の中に、なんとなく隠し味を感じさせるもの? そのことに自分が気づかないほどの本当の意味での隠し味。砂糖だけではぜんざいの味は平坦になってしまいますよね。


なんてことを書きながら、思っています。
この日記も、最近の日記も、文章も写真もまあなんてお手軽な、、、、
疲れてきていると、まとまりがなくなるし、やっつけになるんですよね。
でも気息充実していることなんて、これからもっと少なくなるでしょうし、、、、
欝、、、、