夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

自殺   男って弱い生き物

2005年09月29日 15時37分46秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
昨日友人の旦那さんが自殺していたことを聞いた。
彼女の方から何年も離婚話があり、やっと今年の春に離婚が成立したばかりだった。
離婚の話の途中に、「離婚したら俺は死ぬ」って彼はいい、彼女もそれが口だけではないかもしれないことを感じていたらしいけど、それでも結婚生活に耐えられなかかったのでやっと離婚を認めてもらった。
離婚の条件に週に何日かはご飯を作りに来ることとあって、私たちは呆れていたけど、彼が死ぬかもしれないことも考えなければならなかったから彼女はそれを受けたのだろうと思う。

お母さんが亡くなり、相続でもめたり、離婚があったりして、躁鬱気味の彼としては発作的に自殺したのではというのが、周りの見方だし、彼女がこれから心に抱える傷を案じる言葉ばかりだった。


友人の近くにすむ老夫婦。
ボケかけた夫を見守り、ぼけの進行を少しでも遅くしようと毎日二人で散歩をしていたそうで、近所の人たちもそんな彼女たちを暖かく見ていた。
ある日、妻が末期癌で緊急入院、手術となり、夫も一人でおいて置けないので別な病院へ入院した。
でも妻は結局入院から一週間もしないうちに死んでしまう。
彼女の最後の頼みは、「苦しくてもいいから死なないようにしてください。夫を見る人がいなくなるから。」だったそうだ。
彼女は思いを残して死んでいったんだなと、、、、、

それから二日後に夫が老衰でなくなった。
死に顔はとても安らかだったそうで、
皆「おばあちゃんのところに行けるのが嬉しかったんだね」って話し合っていた。


最初のケースでは、彼はとても頭がよく(東大の首席卒業だったんだって!)それ以上に気持ちが繊細だったから、私は彼はそれでよかったと思おう。彼には残りの人生を寂しさと侘しさを抱えながら生きていくことには耐えられなかっただろうから。

男っていくつになっても、妻、恋人の中に、母親のように自分を見守り、抱いてくれる存在を見出そうとするのだね。そしてそれがどれだけ大切だかを知っているから死に物狂いでそれを守ろうとする。それが男の強さでもあるけど、女の強さでもある。
まだ愛を強く感じているときには、自分の相手を子供みたいって目を細めて見ているけど、子供が生まれ、母親としての実感が強くなると、子供大人はもう頭から亡くなってしまう。母親が自分の子供を守る決意は、男以上かもしれない。

覚悟 プロへのステップ

2005年09月28日 15時54分25秒 | 芸術・文化
例えばある人が美大を卒業した。
学校で学んだことをプロとして実践していけるのか、自分の望む作品が受け入れてらえるのか、プロとしての人脈、経験を積む時期というのはあると思う。
この時期を仮にセミプロの時期と呼ぼうか。
この時期であれば、自分や自分の作品を知ってもらうためにすべて持ち出しで作品を作り、舞台を踏むことも仕方がないかもしれない。
でもプロがプロである所以は、自分の作品で食べていけることなんだと思う。
自分の作品に込める思いと、現実から来る要求のぎりぎりのせめぎあいを経てプロの作品は生まれてくるのだと思う。
自分を主張しすぎれば折角のチャンスをつぶすし、安易に受け入れて迎合すれば、それが貴方の作品だとあなた自身の評価がその作品によって決定される。それはそれ以降の貴方の活動に大きなマイナスにしかならない。

いつまでたっても機会を与えられたからと持ち出しで作品を作っていくのであれば、その人はプロではないし、結局のところ道楽で作品を作っているアマチュアと代わりがない。もしプロの企画、会場運営者が、材料費や制作費などもカバーできないようなオファーをしてきたら、あなたはそれだけとしかみなされていないことに気がつかなければならない。
これはアーティストだけには限らない。自分の技術や見識を売る仕事では、自分が責任をとれないような条件をオファーされたときに断れるかどうかがその人の一つの評価になると思う。またオファーする側もきちんとした技術を必要とするのであれば、その辺は理解しているはず。

プロであればそれを受けれるかどうか、自分の生活があるのだから、、

セミプロからプロへのステップでは大きな覚悟と変革が必要だし、プロになればなったで毎日がせめぎあい。
それ以上に自分の作品や、その気持ちを毎日考えなければならないのだから、プロとは辛い一生だね。


食べていかなければいけない作家なら誰でもしっていること。でも変革期にある作家や、お嬢ちゃん、お坊ちゃんの道楽作家にはわからないことかもしれないけど。


アートマネージメント

2005年09月28日 14時47分10秒 | 芸術・文化

アートマネージメントが大変興味をもたれているようで、さまざまな大学でも講座がもたれ、学生たちを集めている。

ただこの学問(私はある部分職能教育-それも大学院レベルの-であると思っているけど)は、あまりにもカバーする範囲が広すぎるのではないかと思う。

細かく述べていくことはできないけど;

そもそもこの学問が始まったのはイギリスの演劇関係であったということだけど、日本でも同じ時期に音楽経営という形で講座が始まっている。

まずジャンルの問題。演劇や音楽、美術それぞれでマネージメントのやり方も違うし、大きな方言の差がある。これらを一からげに教えることはちょっと無理があるのだろうと思う。

次に環境。たとえばイギリスのアートマネージメントはいくつもある助成金を、どこにどのようにしたらうまく取れるだろうかということが根底にあったかもしれない。でも日本では助成金の範囲も量も殆どなく、そのような環境でどうしたら経済的に自立できるのか、希望している企画を運営していけるのかがその始まりにあった。
ところがこのような音楽企画という講座はいつのまにか消えていって、今各地の大学で教えられているアートマネージメントの講座を受け持つ人は多くがヨーロッパで学んできた人々。そして結局大学にこもっているので、実戦経験が非常に少ない人々である。

だから現況のアートマネージメントの講座の中心は、経済的にも、それを公開する施設もあったとして、どのように運営していくかが中心になっている。

少なくとも日本ではお金や施設を見つけてくることから始めたら、一年の講座はそれだけで終わってしまうだろう。
でも日本ではそこが一番困難な問題であるのだけど。教授陣たちは自分たちがマネージメントを実践するときに、大学の施設や、あるいはその地方のスポンサードへの強いコネと影響力をもっているので比較的容易にそれらが可能なので、これがいかに死活問題であるかについての認識が薄い。
だからヨーロッパ風の教える内容であっても別段問題なし、これで実践可能という気持ちになっているようだけど。

学生たちが卒業して、実際に業務を始めたとしてぶつかる現実の大きな問題には解答を与えることが少ないのではないかとちょっと危惧している。

アーティスト・イニシアティブ

2005年09月28日 10時04分49秒 | 芸術・文化
2006年01月14日 
ヨーロッパで流行っているからって、アーティスト・イニシアティブを日本にも持ち込もうとするアーティストたちが多いけど、
そんなに簡単?

例えば現代美術でパドルスという企画がある。いくつかの国の作家たちが集まって、ワークショップや展覧会を開いている。日本でも行われているし、それがオランダやドイツにも回っている。
でも日本ではこれをプロの企画者が受けている。
日本ではアーティストが簡単にそれを受け、アーティスト・イニシアチブとしてやれない環境にあると思う。

ヨーロッパでは誰かが企画を立てると財団やメセナなどの助成金を出す環境や風土がある、会場の手配も日本と比べると比較にならないくらいに簡単にできる。企画を立てるアーティストたちにとって一番問題なのはアーティスト同士のコミュニケーションでしかない。
だから共通の土台が多いアーティスト同士が企画を立て、参加していくほうがよりスムーズに運営できるし、企画者のビジネスにまみれた目線よりももっと純粋なポリシーが保てる。

でも日本では助成金もない、会場もなかなか見つからないし、見つかってもさまざまな条件を付けられて、その対応に終われてしまう。企画の内容を詰める時間もなくなってしまうし、そこへ展示する自分の作品を作ることもままならなくなることも多い。

アーティスト・イニシアティブはアーティストにとっても貴重な経験と今までとは違うものを見る目を与えてくれるかもしれないけど、ある部分諸刃の刃、自分をすり減らすことにもなりかねない。
それもその企画だけで苦労し、自分の信条とは違う行動をとるならまだしも、企画がうんよく成功したりすると、自分の作品や人生への目線がビジネスっぽくなっていったりする人もいる。
ちょっとした企画で成功したアーティストが作家としての自分を取り戻せなくて、半企画屋さんに成り果てているのを何人か知っている。

やるときにはちゃんとその辺を計算してね。

願わくば、花の下にて春死なん

2005年09月27日 17時56分41秒 |  岬な日々
この家を手当てし、契約を済ませ、補修し、荷物を入れ、足りない家具を購入しといった引越しが全て終わり、最初にこの家に泊まったのは数年前の4月の中旬だった。

岬は東京に比べると、花がちょっと遅れる。
家の入り口にある3本の大き目の桜は満開を過ぎていて、庭の小さな桜はもう葉桜になろうとしていた。

岬での始めての花見は諦めて、部屋の住み心地を楽しみながら、さて目玉の檜風呂はって風呂場に来て驚いた。
風呂場の窓ガラス一杯に八重桜が咲いていて、窓を開けると風呂の上まで枝が着そうなくらい。

ここにしてよかった。
うん、これぞ求めていた終の棲家だって実感が湧いた。

でしょう、「願わくば、花の下にて春死なん、、、」って実践できそう。


でもこのあたりからいろいろとおかしくなってきた。
今思うと、このときが最高だったんだと思う。

企画の売り込み

2005年09月27日 15時30分59秒 | 芸術・文化
09/27/2005 21:06:39
あるインスタレーションの作家から「今まで自分は求められて、その場で自分を表現できる作品を作ってきたけど、今、自分で発想したアイデアがある。これをどう、どこにもっていけばいいのか教えて欲しい」って言われた。
これは企画者にとっては、作家に「どうしたら作品が作れる?」って聞くのと同じ事なんだけど。一つ一つが皆違い、何をどう説明するのか、戸惑ってしまう。

相手のことを考えることはその作家にとってもう一つの進歩になる、目を広げることになると思ったので、「自分で考えれば」って冷たく突き放した。
彼がそのまま私から見える範囲に留まっていれば、彼がこれかあらやるやるさまざまな局面でアドバイスをしようと思っていたのだけど、結局彼は私のもとから離れていったので、最後のプレゼントに根本的なことだけ、(多分これはちょっと考えればわかることだけだけど、本当は実際面でこまごましたことが湧き上がってきて、そんなに単純ではないのは解っている。だから自分で考えをスタートしなければ、アドバイスの仕様もないってことなんだけど)書いてみようと思う。

委嘱を受けて作る場合と違い、作家が自分の作品、あるいは企画(前に書いたアーティスト・イニシアティブでもいいけど)をどこかへ持ち込むときには、自分の渾身の作品、自分が本当に人に見てもらい評価して欲しい作品や企画であるべきだけど、(だから自分は疑問を持ってても恋人の企画だからって押し付けないでよね)、これは筋の通った企画屋であれば基本は同じ事。
自分が納得できる作品や企画を、相手の利益(?)となる形でプレゼンする。それができなければ、いくら作品が良くても、通じない。
ある程度経験を通じた企画屋なら、それでも強引に企画を入れることもできるけど、それをやるとそのチャネルは2度と使えなくなることもある。
企画屋にとって作家も受入先も財産なのだから、それはできない。

相手先はさまざま。
プロの名のあるプロデューサーであることもあるし、
会場を持つハウスエージェントであるかもしれない、
あるいはお金を持ってくれる役所の企画部の人かもしれない、
企画が大きくなれば新聞社などの文化事業部への持ち込みもありうるけど、
でもいずれにしろ相手にメリットにならなければ、相談もできない。

企画の原案の段階で、相手を入れての話し合いはどうしても必要になるだろう。
そのことを作者は嫌うことが多いけど、自分の作品や企画へのイメージがはっきりしていれば、相手の事情を見ながら、レベルを落とさないで相手に合わせることも決して無理なことではないと思う。場合によっては相手のもっている可能性で企画そのものが膨らんだり、新しい発展さえ望めるかもしれない。

ある作家は雪をイメージしたインスタレーションを考えていた。
どこへ持ち込む?
なら雪を逆手に村おこしをしているところに持っていけば?
でも産業的なプロモーションとして扱われるのは嫌。
それは間に入る人しだいでしょう。
例えば役場の企画担当者や、美術館を持っていればその学芸員などに自分のイメージをはっきり伝えれば、お祭りパンダにはならないのでは?

もちろん企画が大きくなれば、それなりの決定権を持つ相手でないと、相手が可愛そう。そのような相手はもっと大きな立場で物を見れるから、決定も速いし、細かい条件もなしになるかもしれない。

でもそんな相手と普段から人脈を持っていれば、私なんかに聞いてこないよね。
やはりちゃんとした目を持った経験のある企画屋さんが必要なのかも。
そうしなければ、最後まで事務的な話に追いまくられることになる。

前にも書いたけど、アーティスト・イニシアティブってそんなに簡単じゃない。
事務に負われて、作品が中途半端に終わるなら、最初からやらないほうがいいのかもしれないでしょ。
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野にあるごとく

2005年09月03日 21時23分20秒 | 芸術・文化
DATE: 09/03/2005 08:28:01

時々思うことがある。
美を追求し、作り出すことは、虚構を作り出すことだろうかって。

作家にとって、イメージしている美とは、真実と見えるのかもしれないし、あるいは実在を超えたものであるのかもしれないけど。
見る側にとってはそれは作者のイメージでしかない。

侘び、寂びを追求し、もてる感性とお金、そして手に入れられる全ての可能性をつぎ込んで茶室や庭を造ってもそれは虚構。
野にあるごとくと、活けられる花は、その虚構の中で、自然の匂いをつけるための虚。
美、そのものを追求すると虚構になるのだろうか。
その結果生まれる美は、真実なのだろうか、それともそれも嘘?

ところが若いアーティストたちと話していると、自分たちの作品、イメージが虚構であることに気がつかない人が多い。
虚構、嘘という言葉に反応しているだけだと思うけど、
嘘がなぜ悪い?

洋の東西を問わず、文化として根付いてきたものの全ては虚構の上に立っている、嘘っぽいもの。でもそれが本当の文化、芸術であれば、嘘を超えられるもの。

廓の文化にあこがれる人は多い。見る側ではそのきらびやかな文化に目を奪われるけど。それはドールハウス。客には一時の観劇であるけど、太夫たちにとっては、自分の一生を送る真実の世界。決して幕の降りることのない、自分の一生そのもの。
バーチャルな遊びといわれるけど、廓はバーチャルなものではなく、虚構の上に立つ真実の世界。そのようなものが沢山この世には存在する。

それがいけない?
自分をそのままさらけ出すことが他人に感激を与えるだろうか。
もしそうしたいのなら、よほどしっかりと自分を見据えて、他人をも揺り動かせるほどの真実をさらけ出さねば。「今日お風呂に入りました」程度では、誰もが気にもしなくなる。
なら虚構を築き上げるほうがもっと楽かも。
そして作る側にも、それがもっと楽に見る人を誘いこめる、感激を与えられるものかもしれない。

自然は美しい、美しすぎる。
だからそれを真似ること、それを土台にすることは、嘘の始まり。
でもそれが何が悪い?

人間が考えて、美しさを追求する。それは虚構かもしれない。でもそれが何が悪い?
嘘のない世の中。虚構のない社会、そんなものでは人間は生きられない。
それが解かるからこそ、人間がもっと愛しくなるし、自然がもっと大切になる。