夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

シンクロニゼーション スイスの作曲家のケース

2006年07月31日 11時44分53秒 | 芸術・文化





]関係がものすごく複雑怪奇です。
頭の体操にどうぞ。

昨日Mixiのほうの知人からメールが来た。
オランダにいるダンサーが帰国して彼女のうちに2,3日泊まるのでパーティをしたいから出てきたらというもの。
彼女のお父さんが寂しがっているので連絡してやって欲しいとも書いてあった。
先日Mixiのほうには岬からの秋の便りとして、栗の実の写真をアップしたのだけど、そのときに一昨年彼が栗を拾いに訪ねてきたことを思い出していたばかり。
今朝彼女に返事をして、ふと見ると別なメールが来ている。

これはオランダのグローニンゲンに住んで活動しているスイス人の作曲家からで(Cという名前にしておきましょう)、アメリカで活動して、結構注目されていた日本人のダンサーとコラボレーションなどをやっていた人。
日本でアーティストインレジデンスの可能性を聞いてきて、一昨年の暮れくらいからメールのやり取りをやっていたのだけど、一度「ユニーク」という言葉を使ったために、Cとのメールが爆発的に増えてしまった。(このことは以前のブログに書いていたので、下にコピーしておきます)
助成金がついたので、今年の11月ころに3週間ほど下調べに来たいからとまるところを紹介して欲しいし、滞在中のヘルプを頼んできた。

最初のメールの彼女は弟の出た音大でフルートを勉強した人で、私の笛の先生の大、大後輩にあたる。
オランダで舞台の演出などをやりたいというので、私の友人(Bにします)でやはりグローニンゲンの劇場を起点にしてヨーロッパのいろんなところでダンスをやっているのに紹介した。このダンサーのBはもともとバレエから、ダンス、そして今はコレオグラフをやっているアーティストで、武満賞の審査員長もやったオランダの音楽家のイメージPRのダンスを振り付け、踊り、それをビデオに作ったり、今年もイギリスの大学で教えたりしていた。

日本の彼女は昨日のメールではオランダ留学は取りやめたみたい。でも音楽家としての素養があって、今は演出、企画などに興味があるのであれば、Cを手伝ってくれればいろいろ勉強になることがあるだろうと、手伝ってくれるって聞いたら、即OKの返事。

おまけにCに紹介しようとしている滞在先も、実は彼女の家。彼女のお父さんに連絡を取ったらこれも即OKで、今すぐにCが知りたいことはメールを受け取る前にすでにOKになってしまったような按配。

ただ、アーティスト・イン・レジデンスの紹介はちょっと困っている。
もともと私は70年のあたまから現代美術の企画をやってきて年間に30-40の企画を実現してきた。そしてそれが80年前後にレジデンス企画へと興味の対象を移し、レジデンスという形そのものをPRしていくことをやってきた。私のやった佐渡でのレジデンスは、その意味では日本で始めてのレジデンスだと自分では自負しているけど、その後も場所を熊本の三角とか、秋田の角館、岩手の山田、愛知の島とさまざまに移し、地元の人にこのような発表形態があり、地元の活性化、現代アートの啓蒙にはこちらのほうがベターだというような活動をしてきたのだけど、昨年日本のレジデンスのキュレーターやキーパーソンたちをオランダのレジデンスに招待して、彼らの考え方、行動に、完全に嫌気がさしてしまい決別の言葉を投げてしまっている。
だからいまさら彼らの助けを借りたくないし。私は後ろに隠れて、Cをプッシュしていくしかないのだろうと思っているけど。

Cはビデオアーティストを連れてきたいといっているけど、このホストファミリーになる人はもともと映画出身の音響技術者で、夫人はお琴の出身で今はギャラリーのオーナー。Cとその友人が滞在するにはベストな環境なんだろうと思う。
またアメリカで活躍していたダンサーという人の情報を得るために問い合わせたダンスの企画をやっている友人は、「あっ、彼女はすごくいいダンサーで、私も何度か企画をしたわ」ってことで、これも赤い糸がつながった。

変な言い方だけど、うまくいく企画、願いというのは最初から、すでにすべてが準備済みみたいな感じがするときがある。
よく例にとるのだけど、あるときに、展覧会をもう一つどうしてもまわしたいということで泣きつかれたことがあった。時期的に切羽詰っていて難しいと思ったけど、たまたま電話をしていたところに、「ところで今泣きつかれている企画があるのだけど」って話したら、相手はちょうどその時期の企画がキャンセルになって、穴埋めを探していたからって、即OKの返事が来た。

Cの企画もなんとなく最初からイケイケになっている。
このような偶然って、本当に面白いと思う。


日本も捨てたものじゃないかも 今井友輝君お帰りなさい

2006年07月31日 08時59分44秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本





今日のテレビで今井友輝君が心臓移植手術を終え、日本の自宅に帰ってきたことを伝えていた。
友輝君のことは手術費用をカンパするキャンペーンのときに以前のブログ(5年11月)とそのまえのブログで書かせてもらった。

>>

千葉から岬町へ行く途中に茂原という町がある。
この町に住む今井友輝君という6歳の少年が心臓に欠陥があり、心臓を移植しなければならないことが判った。
日本では子供に対する臓器移植が認められていないので、アメリカに行って手術を受けるしかないのだけど、8000万円という個人では到底無理な金額が必要になる。
両親がやっとの思いで2000万円を工面したが、6000万円が不足している。
そこで千葉や茂原の人々が立ち上がり、その手術費を集めていた。
このことは久米仙人氏のブログでも紹介されていたけど、支援者によるカンパが8400万も集まり、友輝君は3日にアメリカに旅立った。
友輝君にとっては、これからドナーを見つけ、手術をすることになり、その第一歩を踏み出しただけ。術後のこともあり、まだまだ大変なことを乗り越えていかなければならないのだけど、でもみんなの力でその一歩が踏み出せたという段階。でもよかった。

自分のことだけで精一杯という今の世間の風潮の中で、こんなにも短い時間に彼を救うためにたくさんの人が立ち上がり、援助も当初の目標であった6000万以上が集まるということは、世間もまんざら捨てたもんじゃないと、ちょっと嬉しくなるニュースではあった。
>>

このすぐ後に、また別な子供が二人ほど外国へ移植手術を受けに旅立ったと記憶している。一人は1億2000万というお金を数ヶ月の間にネットなどのキャンペーンで集めている。(確か残念なことに一人は術後、死亡したと思う)

子供への移植手術が日本では禁止されているということは、それがさまざまな問題を引き起こすことも考えられるためなのだろうが、他に生きる可能性のない子供たち、そしてその親の立場に立ってもっと考えて欲しいと思う。

法的な部門の整備は早急な問題としても、このような事件が起こると、差し伸べられる手が思いもかけず多いことを知ると本当に日本もまだ捨てたものじゃないと嬉しくなる。
一人一人の手助け(私の寄付なんて、恥ずかしい限りだし、ブログでの紹介もどれだけ役に立ったのかはわからないけど)は限られているし、小さなものかもしれないが、逆にだからこそ、それが今のネット社会、メディアの発達が持っている、善意を集約できるという可能性はものすごく大きな力になると思う。

技術的な可能性が広がっていることも必要だけど、たくさんの善意の人々が存在するということは必須な条件。この他人のことなどどうでもいいというような社会にあっても、まだこのように善意にあふれた人々がたくさん存在しているということがこの上のいくつかのケースで証明されているのが嬉しい。

「法は法」「悪法も法」ですか?

2006年07月22日 16時35分45秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本
先ほどの「認知症の親を殺す」を書いてから、あちこちでこの裁判への反応を見ていた。


多くはこの息子に対して同情的であり、判決を支持するものだったけど、中にはこれに対しての反論や、クールな意見もあった。


その一つは、認知症の母親が殺されることを認識できたのだろうかということ。
でも、これは認知症というものが、完全に脳が働かない状況にあるということではなく、行きつ戻りつしながらその症状を重く、広くしていくということを知っていれば、その時点で母親が、どんな状況にあって、何が起こるのか認識できたのだろうと思う。
もちろん警察も、検察も、裁判所もその辺が一番の鍵になるところだから、きちんと調べた上での罪状になったのだと思う。
そこで異論を唱えることも可能ではあろうが、私は関係者の判断を信じたいと思う。


もう一つは、事情はどうあれ、殺人は殺人。それに対しての判決が法をないがしろにするものだというもの。
でもはたしてそうだろうか。どのような罪であれ、そのときの状況をかんがみて、情状を酌量する余地は与えられている。目をつぶしたから目を、手をつぶしたから手を、といった報復的な罪罰を科すというのは今の世の中には存在しない。
もし法の執行に情状酌量の余地がなければ、報復的な刑罰しかないとすればそれこそ問題だと思う。

自分の娘が暴行されそうになり、相手に傷を負わせた親が過剰防衛で起訴された。
この親と誰でもいいから暴力をふるいたい犯罪人と同列に扱えるのだろうか。

末期癌で苦しみ、自殺したいと願う我が子、親を見るに見かねて、殺してしまう。確かにこれは殺人だろう。自殺幇助にもあたらないかもしれない。
でもその人と、楽しみで人を殺す人間を同列に扱えるだろうか。

単に私利私欲、楽しみのために犯罪を犯す人と、罪は犯したけども、その理由がどうしても止むに止まれぬ行為であったものと同列にしか扱えないとしたら、法としては欠陥だと思う。

日本の法律でも、同じ殺人であっても、そこには状況に応じられるようなさまざまな酌量の余地が残されていることを知っていて欲しい。


ある人は、殺人者が執行猶予で社会に出てくることを、法がないがしろにされたと嘆いていた。法は法なのだと。
でも、法はないがしろにはされていない。裁判所も、現在ある法令の下であの判決を下したのだ。
現在の日本の裁判機能では、超法規的な解釈、判決は絶対にありえない。
自然法的な法の精神というような解釈も非常に困難な状況にある。
あの判決も現行の法の体系の中での判決なのだ。決して法がないがしろにされたわけではないと思う。


はっきり言って私はある場面では裁判所や役所の現場などにもっと法の柔軟な解釈が許されてもいいとさえ思っている。
法律はさまざまな条件を勘案しながら作られる。でもどんなにそれらの条件について研究しても、現実には法が意図していない状況というのが起こりうる。
私がよく例に出すのが、関西淡路地震の時の救助犬が検疫をパスできなかったこと。
検疫の制度を作ったときには、輸入される動物が日本で新たな病気を蔓延させないために作られた。そのおりにはさまざまな事項は検討されていたと思うけど、地震が起こったとき救助犬が送られてくることまでは考えていなかったのだと思う。
法は法という考え方からすれば、あのときの検疫官が入国を止めたことは正しい。でもそれによって助けられたかもしれない何十、何百の命が絶えたことはどう考えればいい?それでも法は法ですか。目の前のたくさんの人を見殺しにしても、法の条文にしがみつくことが正しいと思われますか?
これはそのときスタンバイしながら、出動できなかった自衛隊。あるいはその後の北海道でのトンネル事故などでの消防や警察、自衛隊が顔を合わせながらも、意思決定が現場ではできなかったことなども、これも法律なのだ。
むしろヨーロッパやアメリカなどでは現場の意思が最優先される。現場に決定権の多くが自動的に与えられる。あるいは現場の担当責任者が逢えて法を犯したとしても、その理由が理解できるものであれば、それは支持されるし、もし救助犬のようなケースがあれば、現場の責任者が責任を問われることになる。

「法は法」でもその法律は人々の命と安全を守るためのもの。
司法でも行政でも、人はよく「悪法も法」という考え方をするけど、これは自分が置かれていて、期待されている、本当の意味での責任を回避していることに過ぎない。司法も行政も突き詰めれば人の命、安全を守るためのものだから。


もしここに死ぬかもしれないというような人がいて、私が手を差し伸べるのが法に触れるとする。でももし私が人としてそうすべきであると思えば、私は法を破るほうをとりたいと思う。そして罪に服したとしてもそれを誇りに思える人間でありたいと思う。

認知症の親を殺す

2006年07月21日 16時38分39秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本
このニュースは公判の段階からテレビでも取り上げられていた。
はっきりした状況はわからないのだけど、人事ではないニュースで、もし今後もこのような悲劇が続くようなら本当に日本という国がだめになった、弱者を守れない国になったって感じがする。

年老いた母が一人郷里にいます。
ずいぶん前から上京して一緒に住もうと提案しているのですけど、子供の負担になりたくないと、「この歳で知らない町で暮らしたくない」と断りづつけてきました。
その母も、よる年波には勝てず、気丈でそんなことはおくびにも出したことがなかったのに、今では体のあちこちの不調を訴えだし、田舎で一人で死んだら、あなたたちがもっと大変になると、上京を決意したみたいです。

先日来、東京に来て家を見たりして少しづつ、自分の気持ちの整理と、田舎の家の整理を始めていますけど、でもいまだに「あなたたちに負担をかける」という言葉が口を出たりします。

京都のケースほどにはひどくはないと思いますが、はっきり言って上京して、寝たきりとか、認知症になられたら、私にだって、この京都のケースと同じことが起こるかもしれない、そんな恐れはどこかにあります。

狐 その4

2006年07月05日 13時11分36秒 |  河童、狸、狐
「ところで、お前は本気でテレパシーを開発したいのか」と狐が聞くから、ハイと答えると、狐はがっかりしたような顔をして、
「メッセージを受けたり、伝えるだけなら、俺たちがどこにいても繋がるからいいんだけど、新しい能力を開発しようとすると、そばにいなきゃならないしな。美登里がやってくれればいいんだけど、どこへ行ったか梨のつぶてだし。
これが他の時期ならいいんだけど、今の時期はタイミングが悪すぎるよ」と雌狐の盛大に張り出した腹を見ながらいう。
「どこかに産婆代わりに使える雌狐がいないのかな」って聞くと、狸はこの辺にもいるけど、狐は少ないよなとのこと。
美登里も、変に人間に感化されたもんだとふて腐っている。

少なくともしばらく前まで恋人だった人のことを狐風情に文句を言われる筋合いはないとちょっとむっとした顔をすると、
「いや気を悪くしないでくれ」って慌てて、答える。
「河童は、雑婚だというのは聞いたことがあるだろう。河童にとってセックスはスポーツや遊びと同列みたいなものなんだ。
だから彼ら、彼女らは心変わりをして他の相手に走っても、何の罪悪感を持たないんだな。だれもがやっていることだからってね。
そのときに好きな相手なら誰でもいいじゃない。それで熱が冷めればまた次を見つければいいのだから。どうせならなるべくたくさんの相手と知り合って、それが自分の一生の財産だし、それで最高の相手にめぐり合えばいいって感じだな。
美登里がお前に連絡を取らなくなって、お前から見えないように一生懸命自分を隠しているのは、人間の倫理観を美登里が理解したからだと思うよ。お前との生活で人間の友達も増えただろうし、でもそんな相手には本当の話はできないじゃない。当たり障りのない話をしているから、友達が何を言っても、それが的外れなのは彼女にもわかっているだろうし、人間にアドバイスを頼めないんだな。
他の友達は、おそらく何故美登里が家出しちゃったか理解できないと思うよ。
自分が何者で、何をやったのか判っているのは美登里一人だからね」
「でも、おかしいじゃない。河童が恋とか愛情とかを信じないんだったら、美登里さんだって、自分が何か悪いことをしたとは思わないでしょう」
「それが人間の社会にでて、人間の倫理観みたいなものに感化されたんだろう。自分を愛してくれている人の信頼を裏切ることがどれだけ人間としては蔑まされていることかを理解したんじゃないかな。でも河童の習性で行動してしまう。
だから口では何を言っても実際は、表に顔を出せないってことじゃないかと思うよ。
お前をこれ以上傷つけたくないためにお前から隠れているということはないと思うけど、自分自身への罪悪感なんてものかもしれないよ。
もっとも気が付いていればの話だけどな。
俺たち狐は人間に近いからお前の気持ちのほうがわかるけど。
可哀想といえば可哀想だよな。それまでの自分たちとしてはなんでもないことがある日、自分で許せなくなってしまったのだから。
これが美登里の仲間同士なら、「あぁ、あれ、もう嫌いになって」ってけらけら笑って終りなだけだもんな」
「それって変じゃない。それでそれほど好きでもない相手との間に子供でも出来たらどうするのよ。恋とか愛っていうのはそんなに薄っぺらいものじゃないはずよ」と雌狐が不満そうに聞く。
「お前は河童に知り合いがいないから、知らいだろうけど、河童は雌の方が受胎をコントロールできるんだ。だから普通は受胎しないようにしているのさ。それにコントロールしなくても、受胎する可能性はほとんどないしな。
河童にはそれで自分たちの生き様が自由なんだって、いかにも進歩したような、フリーセックスが出来るということで他の動物とは違うという優越感さえもつんだ」
「河童の雌が受胎をコントロールできるとはしらなかった。美登里がいろいろ過去の関係を話してくれたけど、本当に好きな相手となら寝て何が悪いって言っていたものな。
でもこの十年だけでみても、凄い数の相手と経験していたようだし、本当に好きな相手という、その本当が、私からいえばちょっとしたことで大好きになってしまうような、うすっぺらい感情みたいにしか見えなかったのは確かだね。
単に淫乱な性格を、好きになったから寝て何がわるいって自分に言い聞かせているだけじゃないかって思って聞いていたこともあったな。
でももういなくなった美登里を援護するわけじゃないけど、人間の女でも、避妊がコントロールできるようになったらいきなり、セックスが遊び感覚になってきているものな。
男たちも責任を取らなくてもよくなったし、女がより簡単に男を受け入れられるようになって、むしろ男のほうが喜んでいるかもね。
でも自分の恋人に対して今の男だって、ちょっと違う考えをするだろうな。遊びの相手と、真剣に付き合う相手。それを分けて考えるようになっているのだろうけど。」自分の周りの女性たちの行動を思い出しながら、ちょっと酸っぱい意見も口をつく。
「ただ、人間の場合には避妊が出来るようになってきたのはそれほど前じゃないから、社会の倫理がまだ追いついていないところがあるんだ。
まだ過渡期かもしれない。
完全にフリーセックスになれば、女は子供に特別な相手との間の宝物というような感情も持たなくなるかもしれない。
国が子供を引き取って育てる仕組みを作るのをよしとするかもしれない。
それこそ期待される人間像によるプログラムでね。
よく遠洋に出るヨットがクリューに女性を求めるよね。クリューとしての役割は7割こなせれば後、別な用途があるから。だから契約も高いし、避妊をすることが条件だったりして。まあ、生物だったら子孫を残すことが気持ちの奥底にプログラムされているから仕方ないんだろうけどね。これだって避妊が確実になってきてるからできるんだよね。互いに割り切ることね。
でも、まだ一部の女性は子供には特別な感情を持っているし、その父親は自分が選んだ特別な人であって欲しいと思っている。
社会もそれを望ましい関係としている。
だから女たちは、自分たちの普段の行動はどうあれ、本当に好きな相手としか寝ないしというような、昔風の倫理観で自分の心にも言い訳をしている。
そのくせ、どうかすると好きじゃない相手にも「チャンスをくれし、私のためにいろいろやってくれていうからって、求められれば断れない」なんて思って寝たりもする。本当はそうでも、決して自分ではそれを認めようとはしないけどね。
酷い例では、そのチャンスをくれる相手と一年暮らすから、待っていて欲しいと恋人にお願いしているケースもあったよな。そのときは流石に、そんなの人間 じゃないから蹴飛ばしてしまえって言ったけど、男は泣いていた。つくづく男も弱くなってしまったんだか、それとも本気で惚れた弱みかね」

「人間の社会ってわからないわ」って雌狐がつぶやいた。
「自由になることで、なにか本当に大切なものをなくしたみたいね」
「うん、それは若い連中の行動を見ていて、そう感じることが多いけど、でもそれが時代から取り残されてきた年寄りの考えなのかどうなのかわからない。それを言うと世代が違うって鼻の先で笑われるからね。
それにこれからの社会や規範を作るのは若い連中だから、年寄りが何を言っても始まらないと思われてるんだよ」
「自分で言っているほど枯れていないのを知っているくせに」
何か、小さな雌狐に諭されているようで、変な気がしてならなかった。

夏の日はじりじりと草原に照りつけ、木陰にいる私たちにも熱波がまとわりつく。
「まあ、今日は自己紹介程度で、訓練はぼちぼちやろう。相方もこんなに暑いと疲れるから」愛妻家の若狐の言葉で今日は解散。

家に帰って、お気に入りの椅子で今日の言葉を反芻しよう。

狐 その3

2006年07月04日 12時53分19秒 |  河童、狸、狐
岬の平安は破られた。
翌日、早朝から狐の声が頭の中で響く。
「まだ寝ているのか」
狸親父のときも、まだ日が開け切れないうちから起こされていたことを思い出した。
「うぅ~」と唸りながらも、こいつらと付き合うのは朝型じゃなきゃ駄目だな、また生活パターンを変えなきゃと心に刻む。
「今、起きていく」って答えて、顔を洗い外にでた。
昨日の狐が二匹家の前に座っている。
「人間は電気だなんだって、いろんなものを作り出して、夜も生活できるっていいながら、その分朝が遅くなってしまった。ただ一日のスケジュールを遅らせただけじゃないか。
昔の人間は空が白む前から起きだしていたぞ。朝をやめて、わざわざ電気までともして夜型になるのなら、電気なんか発明しないで、朝型のままいればいいじゃないか」と狐は文句を言う。
「たしかに、昔の人間の朝は早かったと聞いたことがあるけど、今の生活に慣れてしまうとだんだん夜型になるんだよ」と言い訳をしながら、
「ところで、お前さんたちが私の師匠になるのなら、お前さんたちのことを少し教えておいてほしいな。だいたいお前さんたちに命じたという私の背後霊っていうのは誰なんだ。それにお前さんたちの名前はなんていう」
「名前。俺たちにはそんなものはない。戸籍みたいなものがあるわけじゃないんだからそんなもの必要ないよ。名前なんて、政府がお前たちを縛るためにあるんだろう。そのうち納税者番号なんてもので、お前たちの名前もなくなるよ。
俺たちは必要なら岬の古狐とかなんとかいって区別するくらいだな。夫婦でもおれ、お前だし。
俺たちにも名前はないが、神様も神様だ。それ以上の名前なんかしらないよ。
大体そんなものは人間が勝手につけたものだろう。
人間の存在以上のものに、人間が名前をつけるなんて人間がいかに不遜かという証拠だな」
「でもさ、同じお稲荷さんだって、仏教系の、ほら豊川稲荷みたいな、お狐さんもいれば、神道系のお狐様もいるんじゃない」
「知っているよ。仏教のお狐さんはジャッカルが日本に来て変ったものだっていうんだろう。神道系には飯縄なんかの管狐もいるっていうじゃないか。
でもそれは人間が勝手に作ったことで、俺たちには関係がない。俺たちにはご主人様とそれを伝える相手で充分。
大体神だの仏だのが誰であろうと神は神じゃないか。それが鰯の頭でもそれを神だと思う心が神にするんだ。名前なんかに意味はないよ」
「ふ~ん。昔の小説家が、名前に何があるのって書いていたけど、そんなもんかな」
「そうだよ。荼吉尼天(だきにてん)と呼ばれようと、宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)と呼ばれようと、信じている人には神だよ。ご利益に変りはない。
その小説家に言わせれば同じように芳しいって言うんだろう」
おや、この狐、日本のことだけじゃなくてシェークスピアまで知っている。

そのとき雌狐が、ちょっとお腹をさする。若狐はおろおろして、「大丈夫かって聞く」お前さんは今までの祖先の知恵が頭に入っているのだろうって聞くと、若狐は、知識はあるけど、実践はないんだと情けない顔をしている。生まれたときからいろんなことは知っているけど、成長の過程でそれを習っていくんだ、一つ 一つ確認して身につけて行くんだという。 
そうか論語の学而の一だな。学んで時にこれを習うまた愉しからずやだよな。と変に納得する。

それにしてもそれだけの知識が最初から頭にあると、習うこともまた大変な作業だよなと心配になってくる。
「おれの親父が、人間がやっている映画をどっかの川原でいくつも見たらしい。昔は田舎でそんなことをやったらしいんだけど、その中にSFがあってな、人間の子供がコンピュータで教育されるというんだ。
俺たちの知識は、親の知識、そしてそのまた親の知識が生まれたときから頭に入っている。つまりお前たちが最近わかってきたDNAというやつだな。その遺伝子の中に後天的な知識まで刷り込まれるんだ。
お前たちがそれをやろうとするとその映画のようにコンピュータでデータを集めて頭の中に転送していくしかないだろうけどな。
でも、そうなるとそれが出来る組織が必要なデータだけが選ばれて入るようになる。
思想をコントロールできるような社会になるな」
「まさか、そんなことが出来るとは思わないけど」
「そうかな、だいぶ前にお前たちの組織が、期待される人間像なんて、国が求める人間像を出してきて、それを教育の現場に押し付けようとしたじゃないか。
もっとも、押し付けるほうは、これは一つの指針ですとか説明するだろうけど、現場じゃそれしか選びようがないような状況が作られるんだよね。
親もそれに 従っていれば、点数は上がるし子供の将来のためになるって、文句は言わないだろう」
「そういえば、そんなこともあったかな」
「俺たちにとっての知識の元、教育の責任者は両親なんだ。良くも悪くもそうなんだ。だから俺も俺の連れ合いも考え方がさまざまさ。それが社会というものじゃないかな」
「お前と話していると、子供の狐と話しているって感じじゃないな」
「当たり前だろう。知識的には何百歳なんだぞ」
若狐も、雌狐も胸を張っている。

はいはい、お師匠様。
これからもよろしくご指導のほどを。


2006年07月03日 / 岬な日々 「番外編」

狐 その2

2006年07月03日 00時34分37秒 |  河童、狸、狐
いくら頭の中で外の2匹の狐のイメージが湧いているとはいっても、やはりそこはしがない人間にしか過ぎない私は、自分の目で確かめなければというので、突っ掛けを履いて外にでてみた。
いるいる。以前狸が住んでいたところに、2匹の若い狐がいた。
一匹はもう一匹の首を甘噛みしながらこちらを不敵な目で見ている。
もう一匹はそれよりちょっと小柄な狐で、多分これが雌狐なんだろう、トロンとした目で上の空という感じ。
まったく最近の若い奴らは人目を気にするってことを知らない。
いつ産まれるんだって聞くと、来月くらいにはとの答え。
まあ、狐がいようが、狸がいようが、こちらは関係がないので、好きにすればっていうと、ちょっと怒ったような顔をして、こんなところに好きで来ようとは思っていないんだという。
じゃ、何故来るんだと聞くと、何となく言葉を濁しながらも、私の背後霊に関係があるようなことを言う。
私のテレパシーの能力がどうも背後霊の注目を浴びているようで、この狐はその状況を背後霊に伝えたり、背後霊のメッセージをこちらに流したりすることを言い付かったようだ。
流すってと聞くと、狐が神のメッセージを聞いて、こちらに伝えるということはなくて、狐は一種のリレーステーションで、背後霊のシグナルをこちら向けに増幅して発信するだけなんだそうだ。
じゃ、神のお使いなんて大したことないじゃないか、何故神様は直接シグナルをこちらに流し込まないのだろうというと、いろいろと複雑な訳があるからと歯切れ悪く答えた。
それにお前がテレパシーをさらに開発しようとするのなら、狸の後を私が補完することを頼まれているとも言っていた。
でも、それ以前にテレパシーそのものの事もきちんと知らないと、とんでもないことになるから、その辺を背後霊が心配しているのだとのこと。
なら、この若いのは俺の先生じゃないか、と改めて二匹を見直した。

河童や狸たちは私にこれ以上テレパシーの能力を与えないようにしようとは決めたのだけど、背後霊はそれとはちょっと違う考えを持っているようだ。
それにしても若いな。狸はもう古狸で、どこからみても妖怪みたいな存在だったけど。この狐はまだ子供、子供しているようだ。
狸は年を取っていくうちにだんだんとその妖怪の力を身ににつけていくらしいけど、こんなに若くてこいつら大丈夫なんだろうか。
そんなことを思っていると、狐は、狸なんかと一緒にするなという。狸は物凄く古くなるとたまたま妖術が身についてくる。付喪神みたいなもの。
付喪神というのは、道具なんかでも百年も二百年もたつと、人間の怨念が道具に移って、命が生まれるのだそうだ。だから妖怪狸のように長く生きてくると始めてこの種の神の力がついてくる。
でも狐は最初から神の使いとしての役割を担った選ばれた家系があって、その家系の狐は生まれたときから妖力をもっているのだそうだ。
おまけに、この種の狐は、それまでの先祖が身につけた知識や能力が最初から全部引き継いで生まれるらしい。だから子狐でも知識は大人以上だからということだった。
この二匹はそのエリート家系の狐らしい。両方の言葉も、考えている事もこちらに伝わってくるし、こちらの思っている事も両方に伝わっているみたい。

雌狐が自分のお腹をみて、雄をみた。
雄はちょっと慌てたように、お腹の子供が動いているんだ、巣穴もちゃんとしなきゃならないし、お産の準備もしなければいけないんだ。
人間だって出産の休暇が男にもあるのに、よりによって何でこんな時期にお前の面倒を見るように言われなきゃいけないんだってぼやいている。
河童は最初から妖力を持っているので、不老不死の力を持っているし、狸は妖怪狸になるとやはりその力を持つらしい。でも狐は、そのエリート家系に生まれても寿命普通の狐を変わらないのだそうだ。
ただ、妖力を持ったものはどの種類でも出産することが大変珍しいらしい。
不老不死だと死なないのだからむやみやたらに子供ができればあっと言う間に増えすぎてしまうからそれが自然なんだろうけど、狐もなぜか子供ができにくいのだという。だから彼女の出産はとても大変なことなんだと話をして、巣穴にもぐりこんでいった。
また、新しい経験の日が巡ってきた。

狐 1

2006年07月02日 00時10分10秒 |  河童、狸、狐
東の空がようやく白みかかるころ森からは鳥が鳴き交わす声が聞こえてくる。
さえずりがひときわ高くなるころ太陽が輝きとともに海から駆け上がる。
海からの風は異国の言葉で木々に囁きかける。
梢は太陽の光を真横に受け、反射させながら風に答える。

春夏秋冬、早朝からから深夜まで、さまざまな色、さまざまな形で目前で繰り広げられる自然のステージを、お気に入りの椅子に腰をかけて見ていると、これ以 上何を望むことがあるのだろうという気になる。その気持ちを壊したくなくて、例え空腹を感じようと、なんであろうと、そこから立ち上がって、何かしようと する気持ちさえなくなってしまう。

でもそれを話した友人は、私にとってそれが人生の最大の満足であると思ったらしい。
果たしてそうなのだろうか。
確かに、それはこれ以上ありえないくらいに満足のいく状況なのだけど、それは自分に与えられた状況の中での評価。その状況、環境自体が自分の本当に望んでいるものかどうかは別なのだと思う。
なせならそれは人生にもはや何の目的も、満足も求められなくなった私が持てる幸福だから。
満たされない欲望を知り、ふつふつと湧き上がる夢や、希望を力ずくで蓋をし、やっと得られた心の平安のなかにある世界。現実ではあるけど、心の底が求めているものとは違う世界での平穏。
でも全てを自ら放棄し、何も残されていない今の私に何を求められる。
そういう人生を選んだのだから、後悔はしたくない。 今の私に残されているのは、そのときにはそれが最良そして最善の選択肢であったのだからという自分の行為に対しての確信と、そのために自分を追い立て、たどり着いたこの無為に流れる時間と無駄な私の人生に波風を立てたくない、それだけの毎日。
恐らく私の友人にもこの私の気持ちはわからないだろう。また、それを判らせたい人にはこの気持ちは伝えたくない。
人生は夢。夢で一生を終えられるものなら、そうありたい。自分が偽りの平穏で一生を終わることが、これ以上人を傷つけないでいられるのなら。

目の前の自然の移り変わり、鳥の声、風の動きに身を任せて、ただ平安な時間の流れを願っている。それがこのお気に入りの椅子の生活。


そして今日もまた、そのような至上の朝を迎えている。
この町に来て知り合い、同棲していた河童の美登里はあれほど憧れていた人間の社会を一通り見てしまうと、もう興味を失ってしまい、それと同時に私への興味もなくなったようだ。連絡を絶って久しい。河童は雑婚だと聞いた。だから一人の相手だけでは駄目なのだろう。
私のテレパシー能力を開発してくれた狸の親父は一応南海の海に沈んだということになっているし、メス狸は子供を連れて山奥のどこかへ行ってしまった。妖力を身につけ、それと同時に不老不死の力まで身につけた狸の親父にとって、愛するものが年老い、死んでいくのを見るのが辛かったのだろうとは、女房狸の言葉 だった。
この数年、私の身の回りに起こっていた怪奇現象はなくなってしまった。
岬は全てが始まる前の、訪れる人も無い静かな朝を迎えている、はずであった。

異変はそのときに起こった。
「おっさん、なんかぐちゃぐちゃといろいろと煩いわ。眠れんから、もう少しパワーを絞ってくれないか」って声が頭の中に響いてきた。
「なんだ、誰なんだ、お前は」驚いて、周りを見渡すと、頭の中に二匹の犬のような動物のイメージが湧きあがってきた。犬は元の狸の巣のところにいる。
「もしかして狐か」って聞くと、二匹はうなずき、そうだと答える。
「何しに来たんだ」
「来ていけないか。河童だって、狸だってきたじゃないか。狐の俺たちがここにいても何の不思議もないだろう」
「まあ、そうだけど」
「とにかく、相方が子供を産むんだ。しばらく、この狸の巣を使わせてもらうからな。それで相方は初産だから、いろいろ神経的にも参っているんだ、お前さんみたいにテレパシーでがばがば怒鳴りたてると、この辺のどこにいても、相方が参ってしまう。なんとかしてくれ」
「おう、それは知らなかった。テレパシーには蓋をするから、相方にはよろしく言ってくれ」