夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

東風吹かば

2020年01月17日 22時31分02秒 | 私も作ってみました

 

 

東風吹かばにほひおこせよ燗冷まし

  あるじとうたい 生きる術なし

        風車

 

  とうたい(凍餒)=寒さに苦しむこと

      おいちゃん、博学でしょう、、、なんて、誰も思ってくれないよね。

 


おいちゃんの独りよがり

2017年10月11日 09時46分48秒 | 私も作ってみました


昔はよく、おいちゃんの独りよがりってことで訳の分からない写真をアップしておりました。
その後、そんな写真はアップしなくなりましたけど、撮らなくなったわけじゃないんですね。
ただ、アップしてないだけ。
いまでも、続いておりますよ。


でも、どこがいいのでしょう。
そりゃ、蓼食う虫も好き好きなのだし、チビ太の蓼(つまりイヌタデね)はそこかしこに花をつけていますけど、
チビ太だって、イヌタデなんか好きじゃない。
好き好きがみんな違って当たり前。
じゃなきゃ、誰か一人の女優さんの周りに世界中の男が集まっているなんてことになって、人間だって滅びてしまいますからね。


まあ、変人のおいちゃんが、訳の分からないものを、「いいな~」って思ったって、不思議じゃないし、
そうでなければならないし、そりゃ、頭では理解できるんですけど、、
でもやっぱり、ただの虫食いの葉っぱのどこがいいのでしょうね~~~~~




そのきさらきの 望月の比

2015年04月03日 08時32分20秒 | 私も作ってみました


人生の秋をあれほど豪華に飾れるものなら
残される春が哀しくては申し訳ないでしょう
















今日は旧暦の如月の十五日、望月ですね。
西行は十六日に亡くなったそうですけど。

ねかはくは はなのもとにて 春しなん
  そのきさらきの 望月の比
     続古今和歌集 17-1535
 
     国文学研究資料館の二十一代集データベースより

春雨に 鶯を訪ねて 来てみれど

2015年03月21日 07時10分55秒 | 私も作ってみました


春雨に 
 鶯を訪ねて
  来てみれど
    風車



声はすれども
 姿は見えず



それにつけても 
 金の欲しさよ



ほんに煩いほど鳴いているのですけど、、



どこを探しても、姿が見えない



あぁ、腹減ったな~
  鶯の焼き鳥、食べてみたかったのに~






追記
春雨と鶯。生まれはこの歌からなんですけど、、、、
この歌は、このブログで何度か紹介していますよね。


春雨

春雨に しっぽり濡るる 鶯の羽風に匂う梅が香や
花に戯れ しおらしや 小鳥でさえも一筋に 
ねぐら定めぬ 気はひとつ 私しゃ鶯 主は梅 
やがて 身まま気ままになるならば
サア 鶯宿梅じゃないかいなー 
サアサ 何でもよいわいなー

長崎の丸山で歌われ始めたって言われています。


 

また、独りよがりの、、、、

2013年11月14日 20時22分34秒 | 私も作ってみました


チビ太には馬鹿にされるんです。
おいちゃんの独りよがり、文字通り、だれもいいなんて思わないからなんてね。

でも、チビ散歩だの、ベランダからの定点観測だのって、どちらも記録としての写真でしょう。たまにはなんかそれじゃないものも撮りたいんですよ。
なんて、こっちの分野のはだいぶ撮っているんです。
チビ太みたいに、馬鹿にする人ばかりだろうからって、外に出さないだけなんですけどね。

右か左か  天狗の団扇

2013年06月08日 07時02分46秒 | 私も作ってみました


紅茶をサーブするとき、カップの持ち手やスプーンは右とか、お箸を置く時も持ち手は右でしょうとか、、一匹の魚を皿に載せて出す時には頭が左、、
お茶碗や、汁椀、皿の配置なんてのもなんとなく決まって来る、、、
でも、これは考えなくても理由は分かりますよね。
だから、レストランなんかでめちゃめちゃに配置した食卓を見せられると、イラってくる。きっと、それで金もらっているんだから、客の目線に立ちなさいよなんてどっかで思うんですよね。

お茶碗にも主になる面があるのもなんとなくわかる、、分かんないのもあるけど。
でも、袱紗のわさを右にするのか左にするのか、使い勝手や、客の目線からみた形でもどうもわかりづらいのもある。
客にサーブするときの右から、左からも、、これは他でも同じだけど、客の利き手とか、刀の持ち手とかで説明されるけど、それだけじゃないみたい。だって、刀を持たなくってもよくなっても、利き手を塞がれても不安にならなくてもよくなっても、やはり利き手を塞がれるような相手の動きにはしっくりしないものを感じるんですよね。

生きるか死ぬかじゃないけど、右か左か、、、それが問題なのも多いですよね。

なんて、何を悩んでいるかと言うと、どうも写真を撮っていると自分の脳の中の理屈じゃないへんてこな癖に気がつかされることが多いのですよ。

この天狗の団扇みたいな写真、葉柄が右の方がいいのか、左の方がいいのか。
私の頭の中では右が収まりがいいのですね。
それはなんとなく道具のおき方の影響なんでしょうか。
全体の構図で考える時、左下から右上に上がる直線や波形は好き。逆のパターンはなんとなくしっくりこない。
でも明るさは左から右下に流れるような光が落ち着く。
演出家は、舞台の上手、下手の差にすごく敏感。上手から入って来るのと、下手から入るのではその人に対する先入観が違う。

王様とか、貴族とか、正統性を訴えるものがある時期には絵画や音楽だけでなく、建築も、造園もきっちりと端正なんですよね。バロックとか、ロマン派前期であれば、この落ち着く感じが美であって、それ以外はそれに対するアンチテーゼ、、、なんて言うのは言い過ぎでしょうけど。
でも時代がさがって来て、それがもう少し世俗的になって来ると、それだけじゃつまんない、もっと新しい感覚が欲しくなって来るのかな?
現代ものは落ち着かない部分を強調してきているでしょう。

けど、私は古代人だから、やはり落ち着き感、しっくり感がいい。美しいものがいい。だから私の写真はしっくりする、落ち着く感じがいいのかと言うと、自分の撮った物を見ていると、敢えてそんな風な形にしないようなフレーミングをしているものも多い、、、


真ん中に中心を持ってくるのは落ち着き過ぎだから、ちょっとずらす。
鳥さんたちだったら進行方向へ多くスペースをとる。でもこのくらいならずれているのが逆にバランスがいいなんて。
バロックはバロック。正統的なバランス感というものはやはり変って来ているのですよね。それは中世以前の遺物だもん。(なんてまた言いすぎだよ)

絵画や彫刻なら考え抜いた揚句に構図を決めて行くから、その理由などもはっきりと自覚できるのでしょうけど、写真は一瞬。特に飛び物なんかは
考えもしないでフレームに入れてシャッターを切る。
それでもそんな癖が如実に結果に出てくるんですよね。

さてと、この天狗の団扇。なぜ落ち着かないはずの葉柄を左にするパターンをとったのかな。落ち着くはずの左が、気に入らないのはなぜでしょうね。
自分の気持ちが、現状に甘んじていない? それとも先行き不安? それとも??
なんて要素もあるんですよね。


良き時代とは

2012年10月25日 21時43分57秒 | 私も作ってみました


良き時代とはなんでしょうね。
普通に考えれば、体も、頭も、衰えるってことを知らないで、ベストな状態にあることを、当たり前のように思える時代。
というより、そんなことを考えもしない時代。
女の子を追っかけて、追っかけられて、、、、
そんな時代。



でも、残念なことに私には、甘いそんな記憶もほとんどありません。



今の、この岬の生活。
胸に爆弾を抱え、判断も、記憶も薄れ、乏しい年金の生活。
でも、これが私にとってはそんなに悪くない時代なのかもしれません。



昔々の思いでも薄れてしまって、、、



この、今しかない生活




それも、悪くないかも。