上越・町家暮らし

主に新潟県・上越市の自然、文化、風土、そして町家暮らしについて書いていきます

公害の原点 谷中村に近い道祖神

2022-12-27 21:36:16 | 石仏

        赤麻遊水池から望む冨士

 藤岡町(現栃木市)は赤麻遊水地に隣接する町。赤麻遊水池は首都圏の水瓶として機能する広大な遊水池。この遊水池は栃木県、埼玉県、茨城県、群馬県の4県に跨っている。かってこの村、谷中村は足尾銅山からの鉱毒を貯留するため、国が無理矢理取り上げた土地なのである。ここ赤麻が日本の公害の原点とされ、かの田中正造と村民が共闘し、国と戦った歴史が日本最大のこの遊水池に眠っている。

 西高東低で強風のなか、道祖神探しで散々辛酸を舐めて学習しているから、まずは地元の資料館に足を運ぶ。しかし当の資料館での成果は私の資料と大差のないものだった。「道祖神があったなんて」という言葉が返ってきても粘りに粘って、なんとか新しい資料を見つけることができた。しかも資料館に来る前にあるブログで画像を確認していたので、資料館での画像とも一致し、意気揚々と現場に足を運んだのだが。藤岡町部屋のあちこち聞いて回るが、石仏はあるにはあるが双体道祖神を知る人はいない。見ていても指摘するほど確識できないのだろう。大字部屋を三カ所歩き回り、小字で道陸神(どうろくじん)という集落でようやく見つけることができた。

 藤岡部屋八幡宮   右側に並ぶ石は力石とある

 この大字部屋という地域は江戸の世では栃木市中から流れる巴波川が思川、利根川、そして江戸川と続く商船往来の大きな河岸があり、この辺りまで50俵船、思川からは200俵船と河川規模に応じて、商船が代わり、往来していたようだ。

 如意輪観音 青面観音   建立時期は元禄年間(1688〜1704年)  寛政年間(1789〜1801年)

馬頭観音

 路傍に

畑脇に   背後にある堤防が巴波川  その後ろにある山は大平山  堤防左端にある山は万葉集にも歌われた、三毳山

家先に 如意輪観音だろうか

十三夜塔

十九夜供養塔

道陸神を歩くと興隆の名残か、この小さな集落の辻、家先、敷地に石仏、石碑が顕著に見られ豊な時代があったことが想起される。

そして旧家とおぼしき、なまこ壁の家の前の三叉路の辻を上がると、ありました。

しっかりとした木造の祠に。この家の老婆に伺ったところ、この双体道祖神はこの家で立てたものでなくいつの間にかあったのだという。

「しかし大事にしとかんと」と話してくれました。

資料では 新波部屋(上) 碑型(打切型) 姿態(手握)碑高74cm×碑幅31cm×像高43cm)

建立年はわからないがおそらく元禄年間〜寛政年間にかけてと思われる

さて、藤岡には資料によるとあと二体あるとのことだから探してみようとおもう。


佐野市・栃木市双体道祖神

2022-12-25 09:53:42 | 石仏

 粕尾、足尾に向かう道すがらにある佐野、栃木市。その二つの町にもかろうじて一体づつ道祖神がある。田沼町から佐野市になった戸奈良西原の道祖神。背後には墓地がある。この道祖神への目標は上西原バス停である。

立派な祠に鎮座ましておりました。

 

戸奈良西原双体道祖神 明和5年(1768年) 碑型(舟型)姿態(肩組手握)碑高45cm×碑幅27cm×像高37cm)

 

 

栃木市方面の天気は危なそうである。その上、散々迷い3人の方に伺い、3人目の方に正解を教えていただいた。昔は都賀町であったが町村合併にて栃木市になった都賀町の大柿十文字交差点を、東北道方面に。高速道の高架橋前の材木工場の裏手に道祖神はあるという。道祖神は光栄寺という下野観音堂霊場三十一番所のある丘裾の簡易な祠の中にあった。

左手は材木工場の敷地、その裏手の丘裾の落ち葉の中に埋れてあった。

丘の頂上にある光栄寺。

 

栃木市冨張元脇谷双体道祖神 建立年月日は不明 碑型(舟型)姿態(手握)碑高40cm×碑幅32cm×像高34cm

 


鹿沼市粕尾・双体道祖神 3

2022-12-24 15:34:45 | 石仏

栃木県の西南に位置する粕尾地区に、集中して見られる双体道祖神。栃木市から粟野を抜け粕尾峠に至り、その終点が足尾町となるこの街道に多くの双体道祖神が見られるわけは奈良時代から続く、修験道の通路になっていたということが、その要因のようである。

 修験道の通路には尾が付く地名が多く、栃木市に残る寺尾や粟野に残る細尾、そして粕尾、足尾などと尾の付く地名は、修験道の通路に付けられた証なのだと言われている。

足尾銅山 ←  クリックは江戸初期に発見され、戦後の1973年に閉山されたが、当時は日本一の銅の鉱山だった。

 

 

 

発光路フィッシングセンターとの二叉路。右の県道の土留の上に大きな栂の木。この木の周辺に田ノ端の道祖神が数基の庚申塔と立っている。

多くの庚申塔と道祖神

 

田の端の双体道祖神 明和元年(1764)碑型(駒型)姿態(手握) 碑高63cm×碑幅40cm×像高41cm

この田の端の道祖神は粕尾の道祖神では最も古い道祖神であり、260年あまりの風雪に耐えた割には、所在場所が良かったのか保存状態が良いように見受けられた。

 

帰路にあった日光神社。

日光神社の神木 豊年杉 ←クリック、樹齢650年といわれている。


鹿沼市粕尾・双体道祖神 2

2022-12-23 20:20:16 | 石仏

 2007年発行の「双体道祖神調査資料大成」では日本全体で8505体の道祖神が記録され、その道祖神のほとんどが関東、甲信越にあるとわかったが、それら23都府県以外の道祖神の存在が確認されなかった、24道県に建立されなかった要素とは何なのか、建立されなかったとしたら何故なのかと、ますます謎を深めて迫ってくるのである。

馬置道祖神は馬置バス停100m先にあるポケットパーキング(画像奥)右手の小さな沢沿いにあると、地元の方に教えていただいた。

ポケットパーキングには新しく作られた道祖神があり、その背後に自然に同化した状態で、馬置道祖神はあった。右手にある小さな沢が、馬置漆沢というらしい

教えていただかなかったら、見つからなかったろう。

馬置漆沢道祖神 寛政10 年(1798年)碑型(起舟型)姿態(祝言)碑高(51cm)

双体とも頭部破損 左の神は酒器のようなものを持っているようだが、苔に覆われて細かい部分が窺い知れない。

馬置道祖神の所在を尋ねた地元の方に教えていただいた、馬置の断崖にあるという男根型の金精様があるという場所も尋ねたが、空振りだった。

この斜面の頂上にあるほこらにあるというが、祠は空だった。

祠には空だった。小さな祠に小さな金精様、持ち去られたか。

 

栃原の道祖神は星宮神社裏手にあるという。思川流れの側ということである。奥に道祖神の白い案内杭が見えた。

 

栃原の道祖神 文化4年(1807年)碑型(舟型)姿態(肩組手握)碑高(67cm×碑幅35cm×像高45cm)

猪よけのフェンスが張り巡らされてよくわからず、この道祖神も地元の方に案内していただいた。

 

 

  


鹿沼市粕尾・双体道祖神

2022-12-22 22:17:31 | 石仏

鹿沼市粕尾地区を道祖神で活性化させようと、二箇所の駐車帯には新しい双体道祖神が置かれていた。

栃木県の双体道祖神の数が28体ということだが、2007年の段階ではそのうちの11体が粟野町にあるらしい。ということは栃木県の4割はこの町にあるということになる。現在鹿沼市に合併されて鹿沼市粟野になっている。いろいろ調べていくと、栃木県の双体道祖神がこの地域に特化してあるのは、実に面白く興味深いことである。

また、新たにこの地域の道祖神について調べてみると、資料集では2007年には11体とあった道祖神は、現在では9体ということがわかった。

 

鹿沼市地区で一番南にある道祖神は宮端地区にある。個人の敷地内にあるため入るわけにいかないが、石塀の隙間から見ることができた。

宮端集落 奥の赤い屋根の敷地内にある。

 碑型(舟型)  姿態(不明)  碑高(高さ53cm×幅18cm×像高36cm)

次に訪れた鬼平では、道祖神があった場所は土砂崩れがあり、行方不明になっているとのことだった。奥の白い土留部分あたり。

鬼平道祖神が不明ということは9体から一つ減り、この地域の道祖神は8体ということになる。

北に向かって進むと次に現れるのは赤石川原の道祖神である。バス停から200mあまりの駐車帯にある。

落石防止のフェンス越に岩盤の中に。

赤石川原の道祖神。製作年 (1791年)碑型(打切型)姿態(手握)  碑高(高55cm×幅35cm×像高40cm)

双体道祖神の殆どが1800年代以降の建立が多い中で、痛みが激しいが1700年代は建立は少ないと思われるので貴重である。