上越・町家暮らし

主に新潟県・上越市の自然、文化、風土、そして町家暮らしについて書いていきます

中頸城方面,里廻り、12月の旅

2013-01-21 11:32:02 | インポート

 11月~12月末の旅は中頸城方面、里廻りである。この時期,妙高山麓では既に雪のたよりが見られ,妙高山の頂きには白い物が被っている。3年前,上信越道の妙高エリアで11月3日の深夜の雪に会い,上越に行くべきか迷った記憶がある.この時は,冬タイヤでもなく,チェーンを携帯していなかったので,往生したものだ.中野辺りから雪になり,20センチほどの積雪であったが,なんとか妙高からの長い下り坂を,スリップすることなく,通過したのだった.この時はクロスカントリー車,本格的四駆であったので,問題はなかったのだが,この教訓を生かし,冬タイヤは,11月の始めには履き替えるのが習慣となった。

 瞽女達は11月末か12月にかけて,中頸城の平野部の里を歩いたらしいが,その時期の里は雪が舞い,道もぬかるんで,往生したことが想像できる.そしてその厳しさを推し量るように,12月に入ると,信越国境,関田山脈を横断する道路は,R292を除いて全て冬期通行止めになる.しかも,通常11月半ばには閉鎖されるであろうこれらの県境の道も,積雪の多い年には,下手すれば11月の鼻には,閉鎖の憂き目に会ったりする.この時期,山里は言うに及ばず,里にも根雪がやって来るのである.

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高田東本町からすぐ,関川の橋,稲田橋を渡る.瞽女達が渡った橋はこの下流にあった橋らしい

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    上越市浄水場から手前.南葉山,左奥に妙高,火打 右に権現岳,鉾ガ岳,

 高田から国道R18号線の高架橋をくぐり,県道を北上する.延々と続く東頸城の水田の中を,関田山脈を右手に見て,走る.やがて小さな集落大日.いつの間にか通り過ぎる,中村,そして田んぼのまっただ中の三田.

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                  大日

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                  三田

 このあたりの瞽女宿はもう残っていないか,戦前の宿であるようであっても代替わりで体験がないか,不明である.横曽根から,東中島へ.東中島は瞽女の親方,杉本キクエさんお出身地である.何軒か宿は残っていたが,杉本キクエさんの出身地にしては,戦前より前らしく,70歳代の方に尋ねても,知っている方はいなかった.

 東中島から百々に向かう.実に変わった名前である.頸城平野の真ん中,真っ平ら集落,そんな印象を持ちながら,車を走らせていると,先ほど迄のいかずちの音が止み,暗雲が裂けたとおもったら,見事な虹が雷雲と青空の狭間に橋をかけた.

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                   百々付近

 百々から錦.錦から島倉へ.辺りは頸城平野の真ん中.行く手に関田山脈,左手に飯綱,黒姫,妙高,火打,焼山と,頸城の山々が囲む.稲の取り入れが終わった水田には水が張られ,白鳥が羽を休めている.

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                  島倉辺り

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 島倉から井の口,井口も家は残ってはいたが,空き家であった.今保宿.「茶屋」がある.茶屋では話を聞くことが出来た.

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         新保,瞽女宿.「茶屋」 左のくず屋が瞽女が泊まっていた家とのこと

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               瞽女宿「茶屋」渡辺さん

 今保から上田村へ.地図上では上田村ではでてないから,何度きても分からなくなる.3年余,頸城平野に点在する多くの集落を訪ね歩き,水田に中を彷徨していると,全てが同じような,それでいて全く違っているような不思議な感覚に時々襲われ,方向が定まらなくなるのである.
 斉藤が書いているように,上田村の瞽女宿,宮崎家には,瞽女が消えていった象徴のような物語がある.大地主の没落,それは,瞽女を支えた時代の終焉を物語ってもいるのである.

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       上田集落付近(12月中旬、里も根雪になる)

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 杉本キクエさんに,希代の大地主と言わせた宮崎家も戦後の農地解放で今はここにない.その屋敷跡があり,この屋敷跡に,瞽女宿宮崎家の碑が建っていた.