上越・町家暮らし

主に新潟県・上越市の自然、文化、風土、そして町家暮らしについて書いていきます

東頸城,梅雨の旅2

2012-07-04 12:45:26 | 日記・エッセイ・コラム

 高津の交差点を東に曲がると,間もなく森田,妙油集落の標識.この道路際に瞽女宿「畳屋」がある.苗代ユキさんは92歳は,お元気でお話をうかがえた.何世代か前は畳屋だったので,この屋号が着いたらしいのだが,先代にはすでに畳屋ではなかったそうだ.

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 瞽女宿「畳屋」を過ぎると,大きな丁字路がありこの辺りが十二の木と呼ばれる集落.その丁字路の南側に位置して瞽女宿「池田」がある.100年は経つであろう木立の中に,きれいに改装された大きなくず屋が広い敷地に立っている.この屋の主は池田姓,その姓のままに屋号となっている.

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                瞽女宿地図に見入る,池田夫妻

十二の木をすぎて間もなく,北方集落となる.現在このあたりはワインの里となっていて,休日ともなれば観光客が大勢押しかけている。ここにも「川上」という瞽女宿があったと斉藤のg瞽女宿地図にはあるが探しあてられなかった.北方を過ぎR405に沿って飯田川がながれ,その雪代に染まった濁流を眺めながら走ると,落田の集落である.

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 落田の集落に入って間もなく,この集落の中心部と思われる場所に,瞽女宿「提灯屋」はあったが,家は当時のままに残っていたものの,無住となっていた.この落田から牧区になる.牧区の大きな集落を形成するこの落田を跡にすると,信越の山々が眼前に迫って来る.この時期,牧峠は残雪が多くとても長野に抜けられる状態ではないので,上牧方面には足を向けず,小川,岩神,高尾へと向かった.小川,岩神にも斉藤の瞽女地図によればおのおの2軒づつあったらしいが,いずれも無くなっていた.この時期瞽女たちは残雪の残るつづらおりの小道を抜け,歩いたのだろうが,車で行ける道ではなかったのだろうと,思われる.

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高尾への道は急こう配の九十九折でこの時期残雪が残り,汗がひく.高尾にも瞽女宿が一軒あったらしいが,他の集落同様,無くなってしまった.板倉区,牧区は山深く,とりわけ豪雪地帯だから故郷を捨て町にでる人が多い.草刈り準備中の70代と思われる男性に朴の木への道を尋ねるが,昔は通れたが最近行ったことがないとのこと.途中までは水田があっていげるが,その先は行けないだろうとのこと.車がやっと一台の細い道を危なげないところ迄走り,回転できそうな場所に置き,そこから歩く.高尾から2,3kmほどの距離の隣の集落だが,地元の方も何年も通ってない,というのはいささか,寂しい限りである.20分ほどの登りを終え,まだ車で走れそうな林道,そして水田が続く.追分でもない開かれた場所に石造りの道標が忘れ去られたように置かれている.車で走っていたら気がつかなかったであろう。左,高尾,右,朴の木とある.裏には高谷青年団と刻まれる.雨に煙って遠望は効かないが,わずかに国道らしき道が雨に濡れ手光って見える.その道標から5分ほど,峠とおぼしきところに南無阿弥陀仏の石碑,裏の年代は良く読めないが,宝暦11年?だろうか.

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                戦前のものだろうか,道標がひっそりと

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         朴の木峠?の石碑(南無阿弥陀仏)宝暦11年

 朴の木峠とでも呼べばいいのだのだろうかと,考えながらぬかった林道を水溜りを避けながら下っていく.線の張られていない電信柱や今にも崩れそうな路肩、こうして林道を歩きながら思うのは小さな車でないと新潟の山間部は不便だということを痛感させられる.車で走れないことはないが,狭小でガードレールもない山間部の未整備の林道は,まさに地元の人ならではの限定された道だとの感を,新たににするのである.しばらく下ると朴の木集落が見えて来るが,車で何とか走れることがわかり、車に戻り,再度通る私には,余談は許されないほど険しい道だった.

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                                 この項続く