「今が幸せだと思った時が幸せなのだ」
このように幸せを定義するするヒトもいるのでしょう。
自分の幸せだと思っている時に関わった人々も一緒に幸せになっているのでしょうか。
そもそも「幸せ」とは、どの部分を切り取っているのだろう。
生きていることを確認できたことで幸せだと感じるヒトもいるのです。
ご飯を食べられることで幸せだと感じる人も実際にいます。
私は、幸せは辛苦の後に来る一瞬の解放感、満足感だと思っています。
私達が家づくりを仕事にしてお施主さまの「笑顔」を見た時に幸せを感じます。
人様に喜んで戴くと言うことは、その人様の幸せづくりに尽力したことになります。
つまりは、関わる人の幸せこそ自分の幸せなのだと云う事です。
私は、調停員の時、事業が成功して大金持ちで亡くなり、相続問題で親族が骨肉の紛争となり、憎しみ合っているヒトを家庭裁判所の調停室で見てきました。
一方で鉄骨トビ職の先輩は、慎ましくとも優しい奥さんと大勢の孫達に看取られ、惜しまれながら逝ったヒトもみて来ました。
「幸せって?」の問いには、自分の幸せを意識しないでいるヒトの事なのかも知れません。
猫ちゃんがウサギの頭をなぜる光景には、幸福感を感じますね。
さて今日から市長選挙の舌戦を繰り広げています。
市民の幸せのためか、はたまた自分の幸せづくりためなのかを精査する必要はありそうです。
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