「蛍の光、窓の雪」とは、以前に卒業式などで謳われた別れの唄です。
私が函館港から青函連絡船(写真)に乗り、東京に向かう際に「蛍の光」が流れていました。青函連絡船が離岸する際には、この蛍の光のメロディーが流れ、色とりどりのテープを互いに握り合い、そのテープが切れるまで紙のテープを握り締めたものです。
蛍の光などは、光と云えない頼りない灯かりでしかありません。
その小さな灯かりに希望を繋いで生まれ故郷を後にしたのでした。
その希望を実現するため上京してからは「爪に火を灯す」ような、慎ましい生活をしながら現在の福地建装の礎を積み上げて来たのです。
人は誰もが楽をして、のんびりと優雅な暮らしをしたいと思うのでしょう。
戦後の日本は、焼け野原となった国家再建のため国民総意で勤勉実直に働きました。
私達の親の世代は、その黙々と生き方が国づくりに貢献したのでしょう。
このよう人々の尽力があり、戦後の貧困を脱し、経済大国へと成長させました。
21歳で上京してからは、軒並み鉄骨会社の建て込み工事の請負仕事を探し回りましたが、意外と早く元請けの会社が見つかりました。
仕事を終えてからその出来栄えで請負代金を支払って貰います。
元請け側には殆どリスクを与えないのですから、苦労する事もありません。
代金は、請け負った仕事を現場監督から工期内に完了検査の終了証の交付で頂きます。
北海道から一緒に行った5人の仲間達と4畳半アパート2間を借りての生活でした。
「生き馬の目を抜く」とも云われる東京でしたが、しっかりと仕事を行えば約束通りの代金を支払ってくれますし、北海道の仲間達はとても大切にして頂いたと感謝しています。
金銭的には貧しくとも、人情味に溢れた人々は北海道にも東京にも同等に存在します。
人情は仕事のエネルギーを生み出す源泉になったような気がします。
今日は函館市内でファースの地鎮祭を終え、夕方の飛行機で一気に東京入りしています。
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