鈴木すみよしブログ

身近な県政にするために。

富士市の歴史を知る経済人が逝く

2017年06月05日 | 議会活動

平成29年6月5日(月)

 

 富士市の高度成長期に、市外から進出し本市の発展を支えた大手食品メーカーの元役員が逝去されました。私にとっては20年来の恩師であり、現役を退いた後も、企業経営者としての、また、新天地へ進出した企業のパイオニアとしての経験を元に、市民活動などでもご尽力いただきました。心からご冥福を申し上げます。

 

 富士市は昨年で市制施行50周年を迎えました。「紙のまち」として全国に名を馳せ、そのほかにも輸送機械製造業や化学薬品関連など、工業の町として発展してきました。現富士市が旧富士市と旧吉原市、旧鷹岡町の2市1町で合併した半世紀以上前に整備された田子の浦港は、富士山南西麓の岳南地域や山梨県南部、静岡県東部地域の海の玄関として、その物流を担ってきました。また港湾整備に伴い、その周辺地域には地域外部から多くの大手企業の誘致が始まり、世界的にも名を馳せた企業も進出を果たしました。

 

 彼は、その進出企業の一つである食品会社の現地立ち上げを担う責任者として本市に赴任し、工場の立ち上げをはじめ本市民の雇用などに携わり、その企業は彼が退職した後も、本市を支える企業として成長しています。

 彼は、福岡県の出身で政治家の麻生太郎氏と同郷ということでした。何年か前には、NHKの朝ドラで彼の出身地が舞台となったときには、自分の故郷を誇らしく語っていたのを思い出します。出身大学は熊本市内にあり、私が視察などで彼の出身地や所縁の地域を訪問した後の地元の懇親会では、最近の現地の様子を伝えると懐かしそうに耳を傾け、また、ご自分が若い頃過ごした経験を聞かせていただくことが多々ありました。

 年に一度ほど、最近はもう少し回数が増えたようにも感じますが、その度にご実家に帰郷したことを聞く機会がありました。終の棲家を富士市内に決めたこととは別に、故郷への哀愁がいつも心から離れなかったのかも知れません。

 

 彼と最初に出会ってからしばらくして、富士市の前市長から「補助金の見直し」についての議論を、ある市民団体に委託されました。そこでメンバーとして参加していたのが彼でした。企業経営に関わり「自主自立」を旨とする立場から、市民活動に鋭い意見をお持ちだったことが印象深く残っています。しかし、その会合を進めるなかで、彼自身も市民活動の大切さに理解を深めていったことに、また、企業人から退職して新しい生き方に一石を投じる機会を得たことに、満足しているようでした。私は市民活動側に立っていましたので、彼とぶつかり合うことは良くありましたが、その委託事業が終わった後は、会うたびに私との出会いを喜んでいただき、また、私自身も彼の企業経営の貴重なお話を聞かせていただいたご縁に感謝し続けていました。

 

 年に数回の彼と彼の仲間達を交えた懇親会は、何よりも楽しみの一つでした。彼から多くを学び、これからもまだ続くと信じていたのに残念でたまりません。

 

 私一人の感傷にとどまらず、富士市発展の功労者が逝ったことは、地域全体の喪失感と言わざるを得ません。改めて、ご冥福を申し上げます。

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