常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

類は友を呼ぶ

2010年08月18日 | 人生

仕事仲間とは、実にいろいろな話をします。

ビジネスはもちろんのこと、政治、科学、宇宙、教育、宗教、国家、歴史、文化、芸能、スポーツ・・・。そして、そうした多岐に渡る分野についての意見交換ができると、「これは、生涯の仲間になる!」と勝手に思うようにしています。

先日、そうした仲間の一人と、日本の古代史についての話をしました。ここ数年、その彼とは、実にいろいろな話をしてきたはずなのに、日本の古代史についての意見交換は、まったくの初めでした。そして、とてもビックリしました。

何から何まで、古代史に対する自分の見解と一致するのです。

記紀の位置づけ、蘇我氏と藤原氏の関係、邪馬台国の場所、台与と豊受の解釈、神武・崇神・応神・神功等の捉え方、大国主大神と天照大神の国譲りの見方、そして私のアカウントでもある「竹内宿禰」の正体、等々々・・・。

これらのポイントに関して、古代史の解釈には諸説あり、それらがことごとく一致するというのは、尋常ならざることだと言えるでしょう。それが、見事に一致するというのは、ちょっと奇跡的なことだと思うのです。

諸説あるなかで、何故、そういう見解になるのか、私が尋ねてみたところ、いろいろ調べていくと、それが最も納得性があるというような話をしていました。とても分かる気がしました。

-これぞ、「類は友を呼ぶ」というものなのだろう-

「類は友を呼ぶ」という時の「類」というのは、目には見えなくても、きちんと根っこで繋がっているものなでしょう。そして、それが「友」として集まってくるのは、至極当たり前のことなのだと思います。「類は友を呼ぶ」という言葉は、まさにそうした事の必然性を表しているのだろうということです。

仕事仲間でビジネスを共にするとか、ビジネスの話をするというのは、とても大切なことです。ただ一方で、ビジネス等というのは、ある意味で枝葉末節に過ぎません。本当の仲間というのは、枝葉末節だけで繋がっているわけではなく、その元となる幹、あるいは根っこが繋がっているのでしょう。だからこそ、ビジネスという枝葉末節だけではなく、政治、科学、宇宙、歴史、文化、芸能、スポーツ等の各枝葉末節でも、心地よい会話が成立するのだと思うのです。それは、それらの根底にある思想や哲学の一致なのかもしれません。

一方で、「類は友を呼ぶ」という言葉を、ネガティブな意味での「群れる」と捉える人もいるようです。つまり、「群れたがる人間同士が群れる」だけという解釈です。もちろん、そういう側面があることは否定しませんし、実際にそのようにして群れる人々がいることも事実でしょう。しかし、他人は自分の鏡であり、ネガティブに「群れる」人々が周囲にいるのは、自分自身にそうした弱さがあるからかもしれません。

少なくとも、私の周りにある「類は友を呼ぶ」は、それとはもっと違った次元で起こっているような気がしてなりません。即ち、同じ思想や哲学、感性を持つ者同士が、自ずと呼び合い、引き寄せられていくような感覚です。

そして最近、この「類は友を呼ぶ」力は、次第に増しているような気がします。引力が互いを結びつけ合い、それによって大きくなってくるグループ同士が、さらに大きな引力で結びつくような連鎖が起こりつつあるように思うのです。時が進むにつれて、そうしたなかなか楽しい感覚が増幅されていくような気がして、とても面白いように思います。

コメント
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