常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

交差点としてのこの宇宙

2010年07月09日 | 科学

最先端の科学で言われるように、世界が10次元とか、11次元といった高い次元まで存在するとして、この宇宙をどのように解釈すべきかという問題があります。

それについては、いろいろな表現ができるかと思います(「揺らめく現実世界」等参照)が、私なりには、この宇宙が無数の高次元世界が交わるところに存在するのではないかと考えます。次元を跨いだ世界同士が交わるという表現については、少々、分かりにくい部分があることでしょう。私たちは、自らの肉体が構成されている三次元空間のなかで、物をはっきりと認識することができるので、ここでは、それ以下の次元を使った例え話として、簡単に整理してみたいと思います。

-線と線が交わると点が生まれる-

-面と面が交わると線が生まれる-

-立体と立体が交わると面が生まれる-

ここに疑念の余地はないと思います。互いに交わらない線もあるでしょうが、それがどこかで交われば、必ず点が生まれるわけです。それは面と線、立体と面の関係においても、まったく同じです。そして、そのことは次のように言い換えることができます(点は、空間が存在しない、即ち空間の次元が存在しないという意味で、「零次元世界」としています)。

-2つの一次元世界同士の交わりで、1つの零次元世界が生まれる-

-2つの二次元世界同士の交わりで、1つの一次元世界が生まれる-

-2つの三次元世界同士の交わりで、1つの二次元世界が生まれる-

つまり、低い次元の世界というのは、高い次元の世界同士の交点と捉えることができるわけです。さらにその次元間の関係は、例えば、次のように語ることもできます。

-3つ以上の面同士が交わることで1つの点が生まれ得る-

-3つ以上の異なる二次元世界の交わりで1つの零次元世界が生まれ得る-

これが起きる確率は、少し低くなります。単純に3つの面が交わっただけでは、まったく交わらない複数の線が生まれるだけになる可能性があります。3つ以上の面が交わってできた線同士が、さらに交わって点を生むというのは、「その可能性がある」という話なので、上記のように「点が生まれ得る」という言い方になります。加えて、面の数が3つではなく、4つ、5つと増えていき、それらの面が全て1つの点で交わるとしたら、その確率はますますと低くなることでしょう。

しかしそれでも、その可能性があることは確かであり、零次元世界は複数の(あるいは無数の)二次元世界の交点たり得るということです。

ここで、次元を上げて話を戻すと、私たちが視認しているこの三次元世界、この宇宙というのは、そのような高次元世界の交点として存在しているかもしれないということです。そこで言われる高次元世界が一体何かについては、既に本ブログにおいて、何度か触れているところでもあるので省きます(四次元については「「四次元の目」で見えるもの」や「確からしい四次元の存在」、五次元については「五次元世界へのヒント」等参照)。

私たちが住んでいるこの宇宙は、そうした四次元世界同士の交点、あるいは五次元世界同士の無数の交点が偶然に一致するような(面同士が交わってできた無数の線が偶然一点で交わるような)、四次元世界同士の交点ではないかということです。そして、私が考える四次元世界、または五次元世界に照らし合わせて、これを解釈すると、この宇宙はあらゆる生命体の精神世界が交わるところで成立しているのであり、そのなかの事象は、彼ら全体の最大公約数的なものであることになります。

これが意味するところは、つまり、この宇宙があらゆる生命体のために存在しているのであり、彼らが望むかたちとしてできあがっているということです。これは例えば、宗教的な表現として「天上天下唯我独尊」だったり、日常的な言葉として「夢は実現する」という言葉に繋がってくるのでしょう。

ただし、大切なことは、それがあくまでも最大公約数的であるということです。つまり、ある個体の度を越したイメージ(精神レベルにおけるひとつの世界形成)は、別の個体の世界観では受け入れられず、その結果、それがこの宇宙では実現しないということです。

若干、話が横道に逸れますが、私は錬金術なるものを完全に否定するつもりはありません。物質の最小単位が、必ずしも元素でなくもっと細かい素粒子であるならば、複合粒子の束縛状態をどう解くかという確率の問題はさておき、そのレベルでの組み替えを行うことで、元素としての金を生成することは、絶対にできないとは言い切れないだろうと思うのです。ただし、錬金術をある特定の人が使えるようになって、好き放題されてしまったら、世界の秩序は大きく崩れることになります。つまり、無数の人々が困るのです。錬金術が不可能ではないにせよ、それが大っぴらに認められず、人々の目に晒されることがないのは、全体の最大公約数的範疇に収まらないからであろうと考えるわけです(そういう意味で、「鋼の錬金術師」の終わり方は、誠に良かったと思っています)。

いずれにしても、私としてはそんなことを考えつつ、この宇宙があらゆる生命体の最大公約数的な、ある意味、無数にあるかもしれない三次元宇宙のなかで、最も美しい姿を保っているのではないかと思うのでした。

コメント
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