常識について思うこと

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闇を受け入れる勇気

2008年12月28日 | 社会

きれい事や理想論を口にすることは、大いに結構なことだと思います。私自身、このブログで伝えようとしていることは、組織、社会、環境のせいにせず、人間ひとりひとりが、自分の力を信じ、それを行使していくことで、地球や宇宙の姿すらも変えることができるという理想論です。

きれい事や理想論は、人々に夢や希望を与えてくれるし、前向きに生きるための力となってくれます。事の大小を問わず、きれい事や理想論を口にしたり、それにプラスのエネルギーを得て、今日、明日を生きていくということは、人間にとって、とても大切なことです。

ただ一方で、きれい事や理想論を口にする以上、その裏側に潜む醜い部分を受け入れるという度量や勇気も必要であることを忘れてはなりません。世界は、表と裏で成り立っています。表のきれい事や理想論を口にする以上は、裏側に潜む醜く汚れた世界についても、きちんと知っておく必要があると思うのです。

先日、非常に著名な女性タレントが亡くなられたという報道がありました。人が亡くなっているのですから、その方を悪く言う必要はありません。素直にお悔やみを述べるということは、ごく当たり前のことだろうと思います。

しかしながら、簡潔にお悔やみを申し述べる以上に、その方の人生を美化するような言葉を並び立てるというのであれば、その方の死の真相についても、もっと真面目に探求していく必要があるのではないかとも考えます。今回の死因について、単に「謎」として片付けるのは、あまりにも都合が良すぎるのではないかと思うのです。

その方については、生前からとても有名で凄惨な事件との関係性について、いろいろな噂があったようです。その事件については、あまりにも酷かったためか、それを再現した映画までありました。以前、私は、その映画をレンタルで見たことがありましたが、あまりにも惨たらしい内容であったため、途中で視聴を止めてしまったことを覚えています。

その方が、この事件にどれほど関与されていたのかは分かりませんし、今後、その真偽を含めて、きちんと検証していく必要があると思います。ただ少なくとも、その方の死を考える際に、この事件との関係について、一切触れないという報道は、あまりにも偏りがあると考えます。亡くなった方の死を悼む言葉を述べること以上に、その方の人生を語ろうと言うのならば、その方が抱えていた闇の部分にも、きちんと触れいかなければなりません。

生前、その方を苦しめる人々がいたのかもしれませんし、そういう人々が、その方を死に追いやったとしたら、それは許されるべきではないでしょう。しかし、もしその方が、あの事件に関与していたとしたら、その方のせいで、大変な死に方をしてしまった人がいたということになるのです。これは、とんでもないことですし、それこそ許されるべきことではありません。現時点では、あくまでも可能性の話ですが、そうした闇の部分に全く目を向けず、単なる「きれい事」ばかりを並べ立てて、お悔やみを述べるというのは、偽善の謗りを免れないと思うのです。

見たいものだけに目を向けて、見たくないものに蓋をしたままでは、社会は一向に良くなりません。今日、解決できない問題があることは事実ですが、それらから目を背けるだけでは、何の解決にもならないのです。きれい事や理想論を語るのは、大いに結構なことですが、その裏側にある闇の部分までを受け入れる勇気を持たずに、軽はずみなことを言うべきではありません。

冒頭に述べたとおり、きれい事や理想論は、人間が生きていくために必要な夢や希望を与えてくれます。そうした意味で、人はこれからもきれい事や理想論を口にしながら、生きていくことは必然だと考えます。だからこそ私は、それらと表裏一体の関係にある、醜く汚れた世界に対しても、目を背けずに、きちんと向き合っていく必要があると思うのです。

闇から目を背けない勇気、それらを受け入れる強い心が、これからの社会を大きく変えていくのではないかと思います。

《おまけ》
時折、私のことを「単なる理想論者」と思われる方々がいらっしゃるようです。そうした見方を、いちいち否定するつもりはありません。ただ私は、上記のようなものを含めて、世界にはとんでもない闇が存在していることを知り、それらを受け入れた上で、それに見合った理想論を述べているつもりです。

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