『日本の戦後補償問題』、1996年執筆
ドイツの戦争責任の追及は、1945年11月に開廷したニュルンベルク裁判に始まった。
ニュルンベルク裁判では、従来の戦時国際法に規定されていた「通例の戦争犯罪」に、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」が追加され、とくに「人道に対する罪」は戦後のナチス犯罪追及の最大の根拠であり、ナチズムの残虐性ゆえに生まれた概念であった(7)。
1945年8月8日に定められた国際軍事裁判所(IMT)条例第6条C項は、「人道に対する罪」を「戦前もしくは戦時中にすべての民間人に対して行われた殺人、せん滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為、また犯行地の国内法違反たると否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行われた政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為」と規定している。
またニュルンベルク裁判に大いに影響を及ぼした1945年12月20日制定の管理理事会法律第10号2条C項では、「殺人、せん滅、奴隷化、強制拉致、監禁、拷問、暴行を含むかあるいはそれに限定されない残虐行為および犯罪、もしくはすべての民間人に対してなされた非人間的行為、もしくはその行為が実行された国の法に抵触すると否とに関わらない政治的、人種的、宗教的理由に基づく犯罪行為」と規定されている(8)。両項いずれにおいても、残虐行為および非人間的行為は「実行された国の法に抵触すると否とにかかわら」ず、犯罪行為として裁かれることが規定されている。つまり残虐行為、非人道的行為と認定されれば、自動的に処罰の対象として扱われるとされたのである。ナチズムに対する裁きは人道的見地からなされ、そこに「ナチズムを正当化する法は法でない」という原則を成立させ、適用したのである。
このような基本原則に則った、似たような例として、東ドイツ国境守備兵の発砲行為をめぐる議論がある。ドイツ分裂時代になされた東ドイツ国境守備兵の発砲・殺人行為が有罪であるか否かをめぐり、被告側は、守備兵の行為は国境法により正当化されるべきであると主張した。これに対し、1992年1月にベルリン地方裁判所が下した判決は、国境法は人道に反する法であり、発砲行為を正当化するために援用されるものではないといものだった(9)。
同様にナチスの責任追及においても、こうした「不法な法は法にあらず」といった原則が存在したのである。この点はナチスに対する責任追及過程をみていくうえで、しっかりと認識しておく必要があるだろう。ナチズムは、それが違法であったのか合法であったのかが問題なのではなく、ナチズムそのものが人道的立場から許されるものではなく、むしろそれがどう裁かれるべきかが問題であったということである。1979年のナチスによる冊時印材の時効廃止も、そうした人道的立場からのナチズム糾弾のための環境整備の一環であったと理解するべきである。
またふたつの規定を比較してみると、管理理事会法の「人道に対する罪」の規定は、IMT条例にある「戦前もしくは戦時中に」という文言が削除されていることに気付く。ナチズムは、戦争および戦争犯罪から切り離し、戦争とは関係ない絶対悪としてとらえ裁かれるべきであるとされたのである(10)。
補償については、1951年9月27日にドイツ政府は「ドイツ民族の名において、言葉では言い尽くせぬほどの犯罪がなされ、その犯罪には、道徳的、物的補償が義務づけられている」との声明を発表している(11)。ドイツ政府は、ナチスの犯罪責任が物的損害の側面からのみ追及されるのではなく、道徳的側面からも同時に検討され、それに対する補償がなされなければならないという基本的立場を表明したのである。こうしてドイツ政府はナチスの犯罪行為に対し、人道的立場から道徳的、物的補償をおこなうとし、1956年の連邦補償法の制定などをはじめとした法整備を進めていく。
第二次大戦後のドイツのナチス犯罪に対する補償は、それがもつ非人道的性格ゆえにドイツの戦後処理のなかで重要な地位を占め、ドイツ政府はこれに対する積極的処置を強く求められたのである。
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