常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

坊ちゃんな狸爺

2009年03月10日 | 自分

私は、実年齢より若く見える外見のようで、「苦労知らずの坊ちゃん」と思われる方が多いようです。そういうご指摘については、素直に聞くようにしています。たしかに老け込んでしまったような人に対して、「あの人は苦労しているから」等と言ったりするので、その逆は「あの人は苦労していないから」という表現になり得ることも、十分に理解できるのです。

ただ一方で、若々しくしていられるための秘訣というものがあるのも事実ではないかと思います。それを端的に言ってしまえば、きちんと生きがいを見つけておくことだろうと考えます。生きがいを持っている人は、なかなか老けないでしょうし、ある意味では「若返り」という現象まで起こり得るのではないかと思うのです。

その生きがいを、極限まで大きくしたとき、人はどんな状況に陥ろうとも「こんなのに負けていられない(正確には、私の場合こういう心境とも少し違いますが)」という精神状態になり、「歳なんてとっていられない」と思わざるを得ないでしょう。こうなると、あらゆるネガティブなエネルギーは、自分自身を突き動かすポジティブなエネルギーに変わっていきます。これを換言すると、苦労を乗り越えるということにもなります(「「大人」の責任」、「生きがいと幸せ」参照)。

ただし、そうした苦労を苦労と思って、辛い気持ちで乗り越えると、老けてしまうのではないかというのが、私の思うところです。やせ我慢をしなければいけないことはあるでしょうし、堪えることの大切さを否定するわけではありません。しかし同時に、もっと根本における自問自答の作業が欠けている可能性も否定できないと思うのです(「打ち克つべき相手」参照)。

ここまでのことに気付いてしまうと、外見が若い人に対して、安易に「苦労知らずの坊ちゃん」等と言うことは、できないのではないかと考えます。もちろん、上記のような論法で言えば、「苦労を苦労と思わない」以上、「苦労知らずの坊ちゃん」という言は、的を射ていることになります。しかし、その場合には、「苦労知らずの坊ちゃん」が、いかに大きなネガティブなエネルギーであっても、瞬時にポジティブなエネルギーに変えてしまう「達人」である可能性があるということまでを、きちんと理解していることが大切ではないかと思うのです(「達人が見せる早業」参照)。

しかし一方で、私は自分自身、その外見とは裏腹に、とんでもない狸爺だとも思っています。それは、こうしたブログならばともかく、実生活のなかで、人と対面しているときに、あまり本音を言わずにいるためです。

本当に思っていることを言うというのは、なかなか難しいことです。人とのコミュニケーションをするなかでは、非常に多くの場面において、互いの意見交換が行われます。異なる人間が意見を交換する以上、その意見が合わないということは、ごく自然なことでしょう。

そういうなかで、私は自分自身が感じたり、思ったりしていることに絶対的な自信があったとしても、コミュニケーションをしている相手が、違った意見を持っており、それを主張したり、発言したいと思っていることが分かった場合、きまって聞く側に徹することにしているのです((「「No」と言えないことへの誇り」参照)。

このように、私が自分の意見を言わないことには、以下の理由があります。

 -相手の意見を否定したくないため
 -相手に発言の責任や重みを感じてもらいたいため
 -相手に聞く姿勢がない限り、自分の発言が軽んじられるため

いずれにせよ、そんなことから自分自身、本当に信じていることや思っていることを、なかなか口外しないといったことが多々あるように思います。こうした感覚を、「狸爺」と表現するのが、適切かどうかは分かりませんが、ただ何となく、「狸爺」という言葉を使う人たちの気持ちが、よく分かるような気がするのです。

あなたの周りにいる「苦労知らずの坊ちゃん」は、実はとんでもない「狸爺」なのかもしれません。坊ちゃんな狸爺には、要注意です。

コメント (2)
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