私が2年生の試合に出させてもらった時は、先輩たちに混ざってのことなので、ボールをカットした後、シュートまでのドリブルはとても緊張していました。失敗したらどうしようという気持ちもなかったわけではありません。それと、先輩たちの試合なのに、私が今シュートを決めてしまうという興奮もあったと思います。
初出場で、ホームランを打った野球選手くらいの興奮でしょうか。ちょっとオーバーかな?しかし、この時の緊張感はよく覚えています。本当にドキドキしていました。
だから、シュートを決めてほっとしたことと、大喜びの3年生の反応と、ちょっと照れる私の気持ちと、いろいろなことが重なっていました。ただ、私が配慮が足りないのは、同級生がどういう目で見ていたかという点に気が配れなかったことです。
そのことは、後で先輩たちから叱られることになります。
一応、初めてのシュートを決めた後、私はその後、どのくらいシュートを決めたのか記憶にありません。そのくらい最初のシュートというのは、印象に残りました。
それと、同時に1年生の試合でも、最初に決めたシュートは覚えています。1年生はまだ、バスケットの何たるかを全くわからず、ディフェンスさえできません。だから、ポートボール感覚でやっていたと思います。そのため、私は、センター辺りからボールを受け取ると、人ごみの中をドリブルで抜いて行き、一人でシュートまで持っていき、ドリブルの流れのままシュートを決めました。これは、そのパスを受けてからシュートまでを鮮明に覚えています。今でも、まだ昨日のことのようです。
その後、2本のシュートもほとんど同じように決めて、3連続ポイントを挙げて、すぐに下げられたので、子供の試合に大人が出て点を取るだけとって、下がったような感じでした。私も2年生の試合ではないので、緊張することなく、俺に任せろという感じでプレーをしたため、とても気持ちよく活躍してしまいました。
ーーーー
秋になりました。1年生の秋です。この時期は3年生が引退して新チームで試合に臨みます。私は、2年生と一緒にレギュラーで試合に出ました。
しかし、このチームは2年生がみんな背が低くて、私が一番大きいのです。おかしなことですが、私が試合初めのセンタージャンプをすることになりました。
戦った相手は、美里中学でそのチームのジャンパーは180センチもありました。
私は大きいと言っても1年生です。158くらいだったと思います。
試合は、負けてしまいました。3年生の先輩は、県大会まで出場した凄い成績だったのに、この新チームは負けてしまったのです。
ーーーーーー
しかし、この後、意外なことが起こります。
実は、私が二年生になるときは、統合中学になることが決まっていました。そのため、そのときの優勝した共和中学と合同のチームになることでした。だから、我々は負けてしまったのに、県大会に出場できることになったのです。それは、意外でした。統合になるのは、4月からです。新人戦はその前です。なのに、もう合同で出て良いというのです。ラッキーと思いました。
面白い時期にいましたね。
しかし、です。よく考えたらそれは、大変なことでもありました。5つの中学が統合するということは、それだけのバスケット部が合同になることでもあるのです。そうか、1年生で試合に出ている私は、今度はとてもレギュラーなんかになれないなあという現実が襲ってくるのでした。
なぜなら、優勝した共和中学が上手な先輩がたくさんいるのです。その上、私の児玉中学の先輩です。また、金屋や秋平の先輩たちもいるはずです。チームが強くなくても一人や二人上手な人はいるでしょう。そう考えたら、とても1年生の私なんか出る幕はありません。そう思いました。
ーーーーーーー
新人戦の県大会は出られることが決まりましたが、その前に、県北大会がありました。そのときは、県大会の前ですが、もう合同チームで行こうと練習も合同でやり始めていました。しかし、強いのは共和中ですから、ほとんど共和を中心のチームになりました。そして、力の差を考えて、児玉と共和の2年生を連れて行こうということになったのです。
結構たくさんのメンバーになりました。その時に、この際だから勉強のために1年生も誰かを連れて行った方がいいだろうという話になったらしく、児玉中では私が選ばれ、共和中からも一人選ばれました。名目はボール持ちということでした。
ーーーー
場所は、深谷だったと思うのですが、相手がどこだったのかも覚えていません。私はただのボール持ちのつもりでしたから。しかし、試合が進むに従って、共和の先輩が5ファールで退場しました。そして、我々の先輩が交代で試合に出ました。するとまた一人、また一人と退場して行きました。
そして、出る先輩がいなくなったのか、理由がはっきりしませんが、「菅野出ろ!」と言われたのです。私は「ええーー」と思いました。まさかの出番です。
そんな馬鹿なという感じでした。もう試合が終わりごろでした。残り1分くらいだったと思います。私は言われるまま、試合に出ました。そしたら、なんとなくいいタイミングでパスが来たので、ドリブルで持ち込んでシュートをしました。それが入ってしまったのです。左から持ち込んでのシュートでした。相手のディフェンスが飛びかかってくるのが、分かりました。しかし私は恐れず、ぶつかれば相手のファールだからという感覚できちんとシュートを決めました。相手も脅かすだけで、体をぶつけては来ませんでした。そのため、シュートが入ったのです。先輩たちは驚いていました。そして、先生が恐れずにシュートに行けたから入ったんだと説明しました。
私は、とてもうれしい経験をしました。出られるはずもない試合で、ボール持ちで行ったのに、思わぬ出番がきて、しかもシュートを決めたのです。
ーーーーーー
帰ってから、同級生にその様子を聞かれました。私は黙っていればよかったのですが、どうだったといろいろ聞かれる内に自分の活躍したことを言いたくてついうっかり話してしまいました。試合に出たことだけでなく、シュートを決めたことまでです。そうしたら、先輩から酷く叱られました。
行けなかった1年生のことをお前は何も考えてないと叱られたのです。私はそのときは、そんなに叱られることだとは思っていなかったので、そこで、初めて同級生の気持ちを考えてなかったなあと教えられました。
私は、同級生をなめていたのかもしれません。相手にしているのは常に先輩でした。競争相手が同級生ではなかったのです。
ーーーー
しかし、自分では思いもしないことは、この後もどんどん続きました。
その県北大会での1本のシュートが切っ掛けだったのでしょうか。私は次の県大会のスタートメンバーで使われたのです。まさかのレギュラーです。試合の初めに出る選手は、スタートメンバーという言い方をしますが、それは、ある意味で、ベストメンバーでもあるのです。だから、私は驚きました。
なぜなら、共和中の先輩たちがいて、児玉中の先輩たちがいて、他の中学の先輩たちもいる中で、1年生の私がベストメンバーなのです。こんなことってありますか?私だけでなくみんなが驚いたと思います。たまたままぐれというか、先生のきまぐれだと思えば、その方が気が楽なのですが、それが、試合を重ねるごとに定着していきました。
さあ、どうでしょう。結局本当にレギュラーとして定着したのは、共和の先輩二人と金屋の先輩一人と、1年生の私と、共和から行ったボール持ちの1年生の計5人が最終的にはベストメンバーになりました。
結局、私は児玉中の4人の先輩たちを全員抜いてしまったことになりました。
共和の二人の先輩は上手なので、キャプテンと副キャプテンになりました。
私たちが1年生のときにしごいてくれたあの鬼の先輩たちが、みんな試合に出られなくなりました。そして、同時に先輩風も吹かせなくなりました。本来なら、卒業するまで威張っていたはずの先輩たちが、小さくなってしまったのです。少し残念な気持ちもしないではなかったですが、やはり、プレーでの力の差は大きいです。
ーーーーーー
統合中学でのバスケット部は、共和と児玉があまりに強いので、他の中学の先輩たちはとても試合には出られないと思ったからか、部活をやめてしまいました。児玉中学の先輩たちもいるようないないようなという状況になってしまいました。しかし、我々は、最後の送別会には児玉の先輩たちも呼びました。
初出場で、ホームランを打った野球選手くらいの興奮でしょうか。ちょっとオーバーかな?しかし、この時の緊張感はよく覚えています。本当にドキドキしていました。
だから、シュートを決めてほっとしたことと、大喜びの3年生の反応と、ちょっと照れる私の気持ちと、いろいろなことが重なっていました。ただ、私が配慮が足りないのは、同級生がどういう目で見ていたかという点に気が配れなかったことです。
そのことは、後で先輩たちから叱られることになります。
一応、初めてのシュートを決めた後、私はその後、どのくらいシュートを決めたのか記憶にありません。そのくらい最初のシュートというのは、印象に残りました。
それと、同時に1年生の試合でも、最初に決めたシュートは覚えています。1年生はまだ、バスケットの何たるかを全くわからず、ディフェンスさえできません。だから、ポートボール感覚でやっていたと思います。そのため、私は、センター辺りからボールを受け取ると、人ごみの中をドリブルで抜いて行き、一人でシュートまで持っていき、ドリブルの流れのままシュートを決めました。これは、そのパスを受けてからシュートまでを鮮明に覚えています。今でも、まだ昨日のことのようです。
その後、2本のシュートもほとんど同じように決めて、3連続ポイントを挙げて、すぐに下げられたので、子供の試合に大人が出て点を取るだけとって、下がったような感じでした。私も2年生の試合ではないので、緊張することなく、俺に任せろという感じでプレーをしたため、とても気持ちよく活躍してしまいました。
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秋になりました。1年生の秋です。この時期は3年生が引退して新チームで試合に臨みます。私は、2年生と一緒にレギュラーで試合に出ました。
しかし、このチームは2年生がみんな背が低くて、私が一番大きいのです。おかしなことですが、私が試合初めのセンタージャンプをすることになりました。
戦った相手は、美里中学でそのチームのジャンパーは180センチもありました。
私は大きいと言っても1年生です。158くらいだったと思います。
試合は、負けてしまいました。3年生の先輩は、県大会まで出場した凄い成績だったのに、この新チームは負けてしまったのです。
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しかし、この後、意外なことが起こります。
実は、私が二年生になるときは、統合中学になることが決まっていました。そのため、そのときの優勝した共和中学と合同のチームになることでした。だから、我々は負けてしまったのに、県大会に出場できることになったのです。それは、意外でした。統合になるのは、4月からです。新人戦はその前です。なのに、もう合同で出て良いというのです。ラッキーと思いました。
面白い時期にいましたね。
しかし、です。よく考えたらそれは、大変なことでもありました。5つの中学が統合するということは、それだけのバスケット部が合同になることでもあるのです。そうか、1年生で試合に出ている私は、今度はとてもレギュラーなんかになれないなあという現実が襲ってくるのでした。
なぜなら、優勝した共和中学が上手な先輩がたくさんいるのです。その上、私の児玉中学の先輩です。また、金屋や秋平の先輩たちもいるはずです。チームが強くなくても一人や二人上手な人はいるでしょう。そう考えたら、とても1年生の私なんか出る幕はありません。そう思いました。
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新人戦の県大会は出られることが決まりましたが、その前に、県北大会がありました。そのときは、県大会の前ですが、もう合同チームで行こうと練習も合同でやり始めていました。しかし、強いのは共和中ですから、ほとんど共和を中心のチームになりました。そして、力の差を考えて、児玉と共和の2年生を連れて行こうということになったのです。
結構たくさんのメンバーになりました。その時に、この際だから勉強のために1年生も誰かを連れて行った方がいいだろうという話になったらしく、児玉中では私が選ばれ、共和中からも一人選ばれました。名目はボール持ちということでした。
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場所は、深谷だったと思うのですが、相手がどこだったのかも覚えていません。私はただのボール持ちのつもりでしたから。しかし、試合が進むに従って、共和の先輩が5ファールで退場しました。そして、我々の先輩が交代で試合に出ました。するとまた一人、また一人と退場して行きました。
そして、出る先輩がいなくなったのか、理由がはっきりしませんが、「菅野出ろ!」と言われたのです。私は「ええーー」と思いました。まさかの出番です。
そんな馬鹿なという感じでした。もう試合が終わりごろでした。残り1分くらいだったと思います。私は言われるまま、試合に出ました。そしたら、なんとなくいいタイミングでパスが来たので、ドリブルで持ち込んでシュートをしました。それが入ってしまったのです。左から持ち込んでのシュートでした。相手のディフェンスが飛びかかってくるのが、分かりました。しかし私は恐れず、ぶつかれば相手のファールだからという感覚できちんとシュートを決めました。相手も脅かすだけで、体をぶつけては来ませんでした。そのため、シュートが入ったのです。先輩たちは驚いていました。そして、先生が恐れずにシュートに行けたから入ったんだと説明しました。
私は、とてもうれしい経験をしました。出られるはずもない試合で、ボール持ちで行ったのに、思わぬ出番がきて、しかもシュートを決めたのです。
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帰ってから、同級生にその様子を聞かれました。私は黙っていればよかったのですが、どうだったといろいろ聞かれる内に自分の活躍したことを言いたくてついうっかり話してしまいました。試合に出たことだけでなく、シュートを決めたことまでです。そうしたら、先輩から酷く叱られました。
行けなかった1年生のことをお前は何も考えてないと叱られたのです。私はそのときは、そんなに叱られることだとは思っていなかったので、そこで、初めて同級生の気持ちを考えてなかったなあと教えられました。
私は、同級生をなめていたのかもしれません。相手にしているのは常に先輩でした。競争相手が同級生ではなかったのです。
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しかし、自分では思いもしないことは、この後もどんどん続きました。
その県北大会での1本のシュートが切っ掛けだったのでしょうか。私は次の県大会のスタートメンバーで使われたのです。まさかのレギュラーです。試合の初めに出る選手は、スタートメンバーという言い方をしますが、それは、ある意味で、ベストメンバーでもあるのです。だから、私は驚きました。
なぜなら、共和中の先輩たちがいて、児玉中の先輩たちがいて、他の中学の先輩たちもいる中で、1年生の私がベストメンバーなのです。こんなことってありますか?私だけでなくみんなが驚いたと思います。たまたままぐれというか、先生のきまぐれだと思えば、その方が気が楽なのですが、それが、試合を重ねるごとに定着していきました。
さあ、どうでしょう。結局本当にレギュラーとして定着したのは、共和の先輩二人と金屋の先輩一人と、1年生の私と、共和から行ったボール持ちの1年生の計5人が最終的にはベストメンバーになりました。
結局、私は児玉中の4人の先輩たちを全員抜いてしまったことになりました。
共和の二人の先輩は上手なので、キャプテンと副キャプテンになりました。
私たちが1年生のときにしごいてくれたあの鬼の先輩たちが、みんな試合に出られなくなりました。そして、同時に先輩風も吹かせなくなりました。本来なら、卒業するまで威張っていたはずの先輩たちが、小さくなってしまったのです。少し残念な気持ちもしないではなかったですが、やはり、プレーでの力の差は大きいです。
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統合中学でのバスケット部は、共和と児玉があまりに強いので、他の中学の先輩たちはとても試合には出られないと思ったからか、部活をやめてしまいました。児玉中学の先輩たちもいるようないないようなという状況になってしまいました。しかし、我々は、最後の送別会には児玉の先輩たちも呼びました。