絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出5

2009-11-29 | 思い出
私が2年生の試合に出させてもらった時は、先輩たちに混ざってのことなので、ボールをカットした後、シュートまでのドリブルはとても緊張していました。失敗したらどうしようという気持ちもなかったわけではありません。それと、先輩たちの試合なのに、私が今シュートを決めてしまうという興奮もあったと思います。
初出場で、ホームランを打った野球選手くらいの興奮でしょうか。ちょっとオーバーかな?しかし、この時の緊張感はよく覚えています。本当にドキドキしていました。
だから、シュートを決めてほっとしたことと、大喜びの3年生の反応と、ちょっと照れる私の気持ちと、いろいろなことが重なっていました。ただ、私が配慮が足りないのは、同級生がどういう目で見ていたかという点に気が配れなかったことです。
そのことは、後で先輩たちから叱られることになります。

一応、初めてのシュートを決めた後、私はその後、どのくらいシュートを決めたのか記憶にありません。そのくらい最初のシュートというのは、印象に残りました。

それと、同時に1年生の試合でも、最初に決めたシュートは覚えています。1年生はまだ、バスケットの何たるかを全くわからず、ディフェンスさえできません。だから、ポートボール感覚でやっていたと思います。そのため、私は、センター辺りからボールを受け取ると、人ごみの中をドリブルで抜いて行き、一人でシュートまで持っていき、ドリブルの流れのままシュートを決めました。これは、そのパスを受けてからシュートまでを鮮明に覚えています。今でも、まだ昨日のことのようです。

その後、2本のシュートもほとんど同じように決めて、3連続ポイントを挙げて、すぐに下げられたので、子供の試合に大人が出て点を取るだけとって、下がったような感じでした。私も2年生の試合ではないので、緊張することなく、俺に任せろという感じでプレーをしたため、とても気持ちよく活躍してしまいました。

ーーーー
秋になりました。1年生の秋です。この時期は3年生が引退して新チームで試合に臨みます。私は、2年生と一緒にレギュラーで試合に出ました。

しかし、このチームは2年生がみんな背が低くて、私が一番大きいのです。おかしなことですが、私が試合初めのセンタージャンプをすることになりました。
戦った相手は、美里中学でそのチームのジャンパーは180センチもありました。
私は大きいと言っても1年生です。158くらいだったと思います。

試合は、負けてしまいました。3年生の先輩は、県大会まで出場した凄い成績だったのに、この新チームは負けてしまったのです。

ーーーーーー

しかし、この後、意外なことが起こります。
実は、私が二年生になるときは、統合中学になることが決まっていました。そのため、そのときの優勝した共和中学と合同のチームになることでした。だから、我々は負けてしまったのに、県大会に出場できることになったのです。それは、意外でした。統合になるのは、4月からです。新人戦はその前です。なのに、もう合同で出て良いというのです。ラッキーと思いました。

面白い時期にいましたね。

しかし、です。よく考えたらそれは、大変なことでもありました。5つの中学が統合するということは、それだけのバスケット部が合同になることでもあるのです。そうか、1年生で試合に出ている私は、今度はとてもレギュラーなんかになれないなあという現実が襲ってくるのでした。

なぜなら、優勝した共和中学が上手な先輩がたくさんいるのです。その上、私の児玉中学の先輩です。また、金屋や秋平の先輩たちもいるはずです。チームが強くなくても一人や二人上手な人はいるでしょう。そう考えたら、とても1年生の私なんか出る幕はありません。そう思いました。

ーーーーーーー

新人戦の県大会は出られることが決まりましたが、その前に、県北大会がありました。そのときは、県大会の前ですが、もう合同チームで行こうと練習も合同でやり始めていました。しかし、強いのは共和中ですから、ほとんど共和を中心のチームになりました。そして、力の差を考えて、児玉と共和の2年生を連れて行こうということになったのです。

結構たくさんのメンバーになりました。その時に、この際だから勉強のために1年生も誰かを連れて行った方がいいだろうという話になったらしく、児玉中では私が選ばれ、共和中からも一人選ばれました。名目はボール持ちということでした。

ーーーー

場所は、深谷だったと思うのですが、相手がどこだったのかも覚えていません。私はただのボール持ちのつもりでしたから。しかし、試合が進むに従って、共和の先輩が5ファールで退場しました。そして、我々の先輩が交代で試合に出ました。するとまた一人、また一人と退場して行きました。
そして、出る先輩がいなくなったのか、理由がはっきりしませんが、「菅野出ろ!」と言われたのです。私は「ええーー」と思いました。まさかの出番です。
そんな馬鹿なという感じでした。もう試合が終わりごろでした。残り1分くらいだったと思います。私は言われるまま、試合に出ました。そしたら、なんとなくいいタイミングでパスが来たので、ドリブルで持ち込んでシュートをしました。それが入ってしまったのです。左から持ち込んでのシュートでした。相手のディフェンスが飛びかかってくるのが、分かりました。しかし私は恐れず、ぶつかれば相手のファールだからという感覚できちんとシュートを決めました。相手も脅かすだけで、体をぶつけては来ませんでした。そのため、シュートが入ったのです。先輩たちは驚いていました。そして、先生が恐れずにシュートに行けたから入ったんだと説明しました。

私は、とてもうれしい経験をしました。出られるはずもない試合で、ボール持ちで行ったのに、思わぬ出番がきて、しかもシュートを決めたのです。

ーーーーーー

帰ってから、同級生にその様子を聞かれました。私は黙っていればよかったのですが、どうだったといろいろ聞かれる内に自分の活躍したことを言いたくてついうっかり話してしまいました。試合に出たことだけでなく、シュートを決めたことまでです。そうしたら、先輩から酷く叱られました。

行けなかった1年生のことをお前は何も考えてないと叱られたのです。私はそのときは、そんなに叱られることだとは思っていなかったので、そこで、初めて同級生の気持ちを考えてなかったなあと教えられました。

私は、同級生をなめていたのかもしれません。相手にしているのは常に先輩でした。競争相手が同級生ではなかったのです。

ーーーー
しかし、自分では思いもしないことは、この後もどんどん続きました。
その県北大会での1本のシュートが切っ掛けだったのでしょうか。私は次の県大会のスタートメンバーで使われたのです。まさかのレギュラーです。試合の初めに出る選手は、スタートメンバーという言い方をしますが、それは、ある意味で、ベストメンバーでもあるのです。だから、私は驚きました。

なぜなら、共和中の先輩たちがいて、児玉中の先輩たちがいて、他の中学の先輩たちもいる中で、1年生の私がベストメンバーなのです。こんなことってありますか?私だけでなくみんなが驚いたと思います。たまたままぐれというか、先生のきまぐれだと思えば、その方が気が楽なのですが、それが、試合を重ねるごとに定着していきました。

さあ、どうでしょう。結局本当にレギュラーとして定着したのは、共和の先輩二人と金屋の先輩一人と、1年生の私と、共和から行ったボール持ちの1年生の計5人が最終的にはベストメンバーになりました。

結局、私は児玉中の4人の先輩たちを全員抜いてしまったことになりました。
共和の二人の先輩は上手なので、キャプテンと副キャプテンになりました。

私たちが1年生のときにしごいてくれたあの鬼の先輩たちが、みんな試合に出られなくなりました。そして、同時に先輩風も吹かせなくなりました。本来なら、卒業するまで威張っていたはずの先輩たちが、小さくなってしまったのです。少し残念な気持ちもしないではなかったですが、やはり、プレーでの力の差は大きいです。

ーーーーーー

統合中学でのバスケット部は、共和と児玉があまりに強いので、他の中学の先輩たちはとても試合には出られないと思ったからか、部活をやめてしまいました。児玉中学の先輩たちもいるようないないようなという状況になってしまいました。しかし、我々は、最後の送別会には児玉の先輩たちも呼びました。



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バスケットの思い出4

2009-11-29 | 思い出
ここからは、試合の話をしましょう。

私が試合の思い出で、最初に覚えているのは、3年生と一緒に出た試合でした。本庄東高校の招待バスケという大会があって、その1回戦でした。先輩たちは決勝以外は楽勝なので、大差がつくと、一年生でも試合に出られました。そのときに、私はとんでもない体験をします。先輩のパスが速くて掴めなかったことです。3年生の先輩が私にパスしたボールの勢いがあまりに強くて、私は受け取ろうとしたら、その前に自分の眼の前をボールが通り過ぎてしまいました。なんだ??と思いました。
先生は、「馬鹿!加減してパスをしろ!」と怒っていました。受け取れない私が叱られるのではなく、先輩が怒られていました。しかし、3年生と1年生ではそのくらい力に差があるのです。これが、最初の思い出でした。

次の思い出は、秋平中学との練習試合でしたが、私は2年生の試合に出ました。3年生の試合が終わった後、2年生の試合、1年生の試合という具合に学年毎の試合をさせてくれましたが、私は1年生なのに先輩の中に加えてもらったのです。

それは、私が2年生チームのレギュラーになったことを意味しました。

もっとも、2年生は4人しかいなくて、1年生の誰かが入らないと5人そろわなかったのです。私が一番背が高かったことと、1年生の中では一番上手かったのだと思います。
しかし、まだ1年の夏です。先輩たちとは力に差があります。とても活躍なんてできるわけもないのですが、それでも私がシュートを決めたのです。それを3年生の先輩たちはとても喜んでくれました。
私はゾーンディフェンスの2-3の2に当たる部分、すなわち前で守るのですが、そのポジションからボールを奪うと、いきなりシュートまで持っていけます。それを狙っていました。相手の秋平中学はあまり強くないので、そのパスカットが的中して、私はドリブルシュートを正面から決めました。3年生の先輩たちは大喜びでした。1年生が活躍するというのは、嬉しいのでしょうね。新人が大活躍すると驚きと同時に頼もしく感じるものですからね。

そして、2年生の試合も楽勝で終わり、1年生の試合になりました。私は2年生の試合に出たので、1年生の試合には出ないで、見ていました。しかし、私が出ないでいると、試合はどちらもほとんど点が入りませんでした。まだ、1年生ですから、シュートが下手なのです。行ったり来たりの攻防がありましたが、0-0でした。それで、先生が「菅野出ろ!」と言いました。私は、出るとすぐにパスをもらって、ドリブルシュートで点を取りました。そして、立て続けに3ゴール合計6点を取りました。すると、先生は「もういい」と言って、また、ベンチに下げられました。
そして、6-0で勝ちました。もちろん正式な試合ではないので、時間も短く設定してのことでした。しかし、そこで、私は他の1年生とは格段に力が違うことを見せつけました。3年生の先輩たちは、「1年のキャプテンは決まったなあ」と言っていました。

これが、1年の夏の試合の思い出でした。
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バスケットの思い出3

2009-11-29 | 思い出
ピカソがライバルでは、友達が先輩たちに対して有難いと言っていることをすごいなと書きました。鬼の先輩たちに対して、そう思えるのはすごいことです。

ただ、よく考えると、私の判断の中で、おもしろい教訓があります。

山をうさぎ跳びで上がらされた話をしました。それは、だらだらの坂ですが、距離にして100メートルくらいでしょうか。もっとあるような気がするのですが、はっきり言えません。しかし、我々は巨人の星を見て育ちました。星と伴のグランドを何周もするうさぎ飛びを見ています。漫画の中のことですから、いくらでもできますが、あれを現実の世界でやらされたらたまりません。しかし、それに近いことをさせられました。
そして、その時に、先輩たちは歩いていて、我々1年生は最後までうさぎ飛びなのです。そして、途中で言われることは、「お前は一番にならなかったら、ぶっ飛ばすぞ!」でした。なぜ、私だけ?と思います。それは、いじめです。そして、もう一人、先ほど先輩に感謝していると言っていた彼は、「お前は、一番にならなければ、最初からやり直しだからな!」でした。

それが、どちらもみんなに聞こえているのです。だから、二人とも必死です。私は、みんなより成長が早かったので、体力がありました。だから、大抵は負けないのです。しかし、もう一人の彼は、割と小さくて、やや小太りでした。だから、一番になるのは大変です。私を負かさなければなりません。それで、必死でやりました。そして、私が負けたと本に書きました。
しかし、その裏には、私は負けてやったという気持ちもありました。それは、私が、負けても先輩たちは私をぶっ飛ばさないと思ったからです。彼が負けたらきっと最初からやり直しをさせたでしょう。
たぶん、先輩たちは私たちを発奮させるために、言っているのだとわかりました。そうしたことは、先輩たちの性格や、それまでの行動で、どうなるかを読むという訓練になりました。いろいろ考えると、そんなことまで学んでいたんですね。

先輩の中には、きついことを言う先輩と、優しい先輩がいます。厳しいことを言って、行ってしまう先輩の後で、途中から先輩が変わると、それじゃあ可哀そうだと思う先輩がいて、10回やれと言ったことを、8回でいいよと割り引いてくれる先輩もいるのです。そんなときに、先輩の性格を読んで、こんな時はどうすると楽に済むなどということも会得するのです。

いろいろ考えると、部活とはいろいろなことが学べる場なのですね。

ーーーーーー
結局、うさぎ飛びの勝負は、私が負けて二番でしたが、私が考えたことは、私が負けた方が、無難に済むということでした。その代わり、私は彼に一番を譲ったという感じを与えてはなりません。だから、私も必死で頑張ってやったのだという顔はしました。全力でやったのに、負けたのだと先輩たちに思わせなければなりません。そこは、役者でした。先輩たちもぶっ飛ばしたくはないのです。必死で頑張ったから許してやるという状況を作ることが必要でした。
この勝負は、必死でやったら、私ももう少しいい勝負ができたかもしれません。でも負けていた可能性は高いです。彼の方が先輩を信じてついて行くという姿勢があったからです。
私は、心のどこかで、馬鹿にしていました。こんなことで勝ったところで何になるということが、あったのです。もっと、本気になるべきところがあるじゃないかと。
だから、最終的には、私は先輩たちを全員抜いてしまうことになるのです。その話は、もう少し先です。

つづく
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バスケットの思い出2

2009-11-29 | 思い出
バスケットの思い出を語りたいと思った時、つい自分が活躍した試合のことを書きたくなりますが、その前にきちんと思い出して置きたいことがあります。

それは、先輩たちが教えてくれた内容です。

私のいたバスケット部は、他の運動部に比べてとりわけ礼儀作法に厳しい部活でした。バスケット部は挨拶がきちんとしているとよく言われたものです。それは、異常な程でした。

例えば、長い廊下の遥か彼方に先輩の姿が見えれば、先輩がこちらに気づいても気付かなくても、とにかく「先輩、こんにちは」と言わなければならないということでした。また、ただそれだけではなく、仲間が傍に居たら仲間にも知らせて、挨拶するのです。「おい、~先輩がいるぞ!」と言って仲間を廊下まで呼んで、みんなで一緒に挨拶をするというものでした。

冬などは、一年生はコートを箒で掃いて道具を片付けて教室に戻り、ものすごいスピードで着換えて、部室の前に集合です。手がかじかんで、制服のボタンが締められないのをそのまま部室前に行って、整列した状態で、ボタンを締めていました。

まるで、軍隊です。先輩たちはゆっくり部室で着換えて、1年生が揃うのを待つのです。そして、帰る方向に従って、先輩と一緒に帰るのでした。

とにかく先輩は神様のようでした。

しかし、そのお陰でバスケット部は礼儀がすごいという評判でした。

そんな中で育ったから、私は美術部の指導で、挨拶にうるさい顧問になったのだと思います。しかし、先輩後輩のそのような関係には批判的でした。軍隊のように先輩を神様のように扱うことは、させられていましたが、良いとは思っていませんでした。だから、自分たちが先輩になった時はそのようなことはしないようにしていましたし、自分が教員になってからも美術部では、それをさせませんでした。

また、忘れてならないのは、先輩たちはそれなりに面倒をよく見てくれたということです。ドリブルシュート、ランニングシュート、ボールの持ち方、本当に素人の私たちに丁寧によく教えてくれました。その時のことを考えると、いい先輩たちだったなあと思います。

私は、部活の時間になるのが嬉しくて、毎日体育ができる幸せを感じていました。小学校の後半から一番好きな授業は体育だったのです。しかし、その内、しぼられて苦しくなると、部活が苦痛になってくるのですが、それでもレベルが上がるにつれて、体育の授業は遊びにしか思えず、部活こそ本当の勝負という感じになっていきました。

部活が苦痛に感じたのは、理不尽な先輩たちのしごきでした。意味のないいじめみたいな練習です。二つ上の先輩は親切で優しいという段階で過ぎてしまったので、良い印象ばかりが残っているのですが、一つ上の先輩たちは鬼でした。三年生というのは、最後の大会にかけていて、一年生をしごいている暇などないのです。だから、必然的にしごきを楽しむのは、二年生になる訳です。

山をうさぎ跳びで上がらされました。足上げ泣くまでというのもありました。
電気椅子とか、つまらない過酷な筋トレばかりです。おそらく根性をつけているのだろうと思いますが、振り返ってみると意味のないことばかりでした。

こういうのは、後になって、あれが何だったのかと分かって来ると、先輩の印象はさらに悪くなりますね。その時の権力を利用して、面白がっていただけのように思います。まあ、それによって先輩を見返してやろうとか、越えてやるとか思う気持ちは強まりましたが。

ーーーー
一年生の思い出で、面白いのは、バスケット部の声の出し方です。中腰で手を膝に置いて、前屈みで先輩たちの練習を応援しながら、声を出します。それが、「ファイトー」ではなく、「頑張れよー」なのです。誰が考えたのでしょうね。常に「頑張れよー」と声を出すのです。
野球部は、「来い来い来い」と言っていました。外野に居て、ボールが飛んでくるのを待っているのです。だから、自分の所へ飛んで来いということなのでしょうか。それを誰一人反発もせず、言われるままやっているのです。

スポーツの良さは、理由もわからず、言われるままやるということから始めるという点が良いのかもしれません。それから、普通なら恥ずかしいと思えるような単純な繰り返しを何度でもやらされる。相手もいないのに、相手がいるつもりになって、カニカニ歩きをしたりするのは、ディフェンスの練習なのですが、結構恥ずかしいものです。

次に思いだすのは、水を飲むなということです。今では反対ですね。水を飲んだ方が良いでしょう。それを我慢させられるのです。休憩時間に隠れて水を飲んだりすると大変です。トイレに行って来たときは、戻ってから先輩に口を開けさせられて、ベロを調べられるのです。
夏は、一年生が氷を買いに行く当番になります。そのときも同様に調べられます。
その氷は、練習の或る時間になると、水を入れて先輩から順番に飲むことになります。もちろん一年生は最後です。やかんの蓋を使って、みんなで回し飲みです。
その氷水の美味しいことと言ったらもうたまりません。水を我慢してからからになった喉に入るのですから、これこそ幸せという感じでした。やかんの蓋に穴が空いていることを知ったのもそれがあったからでしょうか。穴を抑えて飲むのです。そうしないとこぼれてしまいます。

喉をからからにさせられて、ベロを調べられたりという異常なこともありましたが、そのお陰で水の有難さを教えられました。

いろいろな場面で、先輩を立てるということがありましたね。
唯一先輩を立てなくて良いのは、プレーの中だったでしょうか。
いや、失敗をするとグランド一周という罰が待っていましたから、やたらシュートなどはできなかったですね。入れば問題がありませんが、シュートを落としたら罰が待っているとなると、できればシュートを打たない方が良いという感じになってしまいますね。

つづく




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バスケットの思い出

2009-11-28 | 思い出
私がバスケットボールの思い出を語ったら、書き切れないほどあるだろうと思います。きっと、読む人が疲れます。

私は、なぜバスケットボール部に入ったかというと、小学校6年生のとき、ポートボールがありました。ソフトボールやサッカーは3年生くらいからやっていましたが、ポートボールは5~6年生にならないとやらないスポーツでした。だから、一つ上級のスポーツという印象があったのです。そして、その大会が児玉町の5つの小学校が集まって行われたので、それに勝つことがすごいことだと思われました。

また、児玉小学校は中学と同じ場所にあって、グランドを共有していました。今考えると面白いことです。こんな学校が他にもあるでしょうか?
グランドを共有しているため、中学のバスケット部が練習しているところをいつでも見学できるのです。私は、小学校5年生くらいから、そのバスケット部に遊びに行くようになりました。
その頃の、バスケット部は顧問があまり出てこないのか、理由はわかりませんが、私はよく中学生と遊びました。そしてバスケットを教えてもらいました。だから、ポートボールをやると、バスケットの動きができるので、他の子よりも上手に思われました。それが、きっかけだったと思います。
それで、バスケット部に入る状況が生まれたということです。

実は、私の父はその児玉中学の先生で、元はサッカー部の顧問でした。だから、もしかしたら父は私がサッカー部に入るといいと思っていたかもしれません。父の同僚の先生たちは、当然私がサッカー部に入るものと思っていた人もいたようです。

私はそんなことは、知りません。私はどちらかというと、サッカー部を敬遠していました。その理由は、同級生にサッカーが抜群に上手い子がいたのです。

サッカー兄弟で有名でした。男三人の兄弟がみんなサッカー部だというのです。その子のサッカーの上手さは、群を抜いていて、もうスタートから大変な差がありました。お兄さんたちに徹底的に教え込まれて上手になっていたのです。だから、私はそういう意味で面白くなかったこともあったと思います。

また私は、実はソフトボールが得意でした。だから、野球部でも良かったのです。ただし、野球ももう一人私と同じくらい上手な子がいました。だから、私は野球部に入っていたら、その友達と争っていただろうと思います。

結局、後に、私がバスケット部のキャプテンになり、その友達が野球部のキャプテンで、サッカー部の天才的な選手は、副キャプテンになりました。サッカー部は、サッカーがうまいだけではキャプテンにしなかったようです。

因みに、そのサッカーの上手い子は、高校に行ってからキャプテンになりましたし、大学でもキャプテンをやっていて、最後は三菱のサッカー選手になって、全日本の代表にも選ばれそうなところまでいったのでした。我々の同級生では、一番活躍して、有名になった人です。

話が大分、先まで行ってしまいましたが、そんな訳で、私はスタートラインが同じに始められるバスケットボールを選んだのでした。

と言っても、実はそこには、やはり少しハンデがありました。バスケットにもお兄さんがバスケット部だったという子がいて、やはり、その子は少し我々よりバスケットについては詳しいのでした。ただ、プレーはそれほどでもなく、背も小さかったので、大きく差を付けられていたわけではなかったので、ほっとしました。

私のバスケットを選んだ時の経緯は、そんな感じでした。

つづく






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