絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出

2009-11-28 | 思い出
私がバスケットボールの思い出を語ったら、書き切れないほどあるだろうと思います。きっと、読む人が疲れます。

私は、なぜバスケットボール部に入ったかというと、小学校6年生のとき、ポートボールがありました。ソフトボールやサッカーは3年生くらいからやっていましたが、ポートボールは5~6年生にならないとやらないスポーツでした。だから、一つ上級のスポーツという印象があったのです。そして、その大会が児玉町の5つの小学校が集まって行われたので、それに勝つことがすごいことだと思われました。

また、児玉小学校は中学と同じ場所にあって、グランドを共有していました。今考えると面白いことです。こんな学校が他にもあるでしょうか?
グランドを共有しているため、中学のバスケット部が練習しているところをいつでも見学できるのです。私は、小学校5年生くらいから、そのバスケット部に遊びに行くようになりました。
その頃の、バスケット部は顧問があまり出てこないのか、理由はわかりませんが、私はよく中学生と遊びました。そしてバスケットを教えてもらいました。だから、ポートボールをやると、バスケットの動きができるので、他の子よりも上手に思われました。それが、きっかけだったと思います。
それで、バスケット部に入る状況が生まれたということです。

実は、私の父はその児玉中学の先生で、元はサッカー部の顧問でした。だから、もしかしたら父は私がサッカー部に入るといいと思っていたかもしれません。父の同僚の先生たちは、当然私がサッカー部に入るものと思っていた人もいたようです。

私はそんなことは、知りません。私はどちらかというと、サッカー部を敬遠していました。その理由は、同級生にサッカーが抜群に上手い子がいたのです。

サッカー兄弟で有名でした。男三人の兄弟がみんなサッカー部だというのです。その子のサッカーの上手さは、群を抜いていて、もうスタートから大変な差がありました。お兄さんたちに徹底的に教え込まれて上手になっていたのです。だから、私はそういう意味で面白くなかったこともあったと思います。

また私は、実はソフトボールが得意でした。だから、野球部でも良かったのです。ただし、野球ももう一人私と同じくらい上手な子がいました。だから、私は野球部に入っていたら、その友達と争っていただろうと思います。

結局、後に、私がバスケット部のキャプテンになり、その友達が野球部のキャプテンで、サッカー部の天才的な選手は、副キャプテンになりました。サッカー部は、サッカーがうまいだけではキャプテンにしなかったようです。

因みに、そのサッカーの上手い子は、高校に行ってからキャプテンになりましたし、大学でもキャプテンをやっていて、最後は三菱のサッカー選手になって、全日本の代表にも選ばれそうなところまでいったのでした。我々の同級生では、一番活躍して、有名になった人です。

話が大分、先まで行ってしまいましたが、そんな訳で、私はスタートラインが同じに始められるバスケットボールを選んだのでした。

と言っても、実はそこには、やはり少しハンデがありました。バスケットにもお兄さんがバスケット部だったという子がいて、やはり、その子は少し我々よりバスケットについては詳しいのでした。ただ、プレーはそれほどでもなく、背も小さかったので、大きく差を付けられていたわけではなかったので、ほっとしました。

私のバスケットを選んだ時の経緯は、そんな感じでした。

つづく






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ユニフォームの思い出

2009-11-28 | 思い出
今日、ヘルパーさんとの会話の中で、小学校の字別リレーの話になりました。

私は、4年生の時は、補欠で字別の選手になれませんでしたが、5年生と6年生は選手になって走りました。字別リレーは、午前の終わりに予選があり、午後の終わりに決勝が行われます。その時になると、出る前に自分の字のユニフォームに着替えるのですが、その時の興奮を思い出しました。確か字の人がユニフォームを持ってきてくれて、選手が一緒に着替えたような気がします。
さあ、今から出陣だというような気がしました。そして、代表だけが着られるユニフォームということに嬉しさがあり、なんとなく誇らしく感じだものでした。

全部で8チームあり、予選は4チームづつに分かれ、それぞれ1チームが落ちて、決勝は6チームで戦うのだったかなという気がしています。
午前の部の予選が終わると、お昼は教室に戻って給食を食べたのだと思いますが、そのときは、ユニフォームのまま食べました。同じクラスにやはり同じようにユニフォームを着た他の字の選手がいました。しかし、そのユニフォームを着た人が速い人だという気がして、そのときも誇らしく感じたものです。また、隣の席の女の子が別の字だったので、その時だけ敵だと思いながら給食を食べました。

字別リレーは、やはり運動会の花型でした。このときばかりは、大人も子供も興奮して、身を乗り出して応援していました。

私はどういうわけか、黄色のユニフォームに縁があるのでしょうか。私の字の本町は黄色でした。その後、私は学校代表のリレー選手になるのですが、学校対抗でも私の児玉小学校は黄色でした。
これは、余談ですが、中学になって、バスケット部に入りましたが、児玉中学のユニフォームが黄色でした。3年生が引退して、私は1年なのにレギュラーになって、3年生から大きな黄色のユニフォームを頂いたことを覚えています。

もっと、余談ですが、本庄第一高校の先生になって、与えられた美術室のエレベーターホールの色が黄色でした。それで、部活対抗リレーのためのユニフォームを黄色で作りました。作ってから、負け知らずで、体育祭のリレーで文化部では美術部が、6連覇を果たしました。最近もリレーの連勝を続けているらしく、もう8連覇かもしれません。しばらく体育祭がなかったので、何年も間隔が空いてしまったのですが、美術部はリレーも強いのです。
エレベーターホールと言いましたが、本庄第一は、8階建ての特別教室があって、それぞれ階毎に色が違うのです。美術室のある4階は黄色なのです。黄色に縁があるんですね。

しかし、ユニフォームというのは、いいものです。特に新しいものは、その色に興奮します。そのユニフォームを初めて着るときの気持ちを思い出しました。

ここまで、書くとバスケットの思い出を書きたくなります。それは、また、後で。






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11月の終わり

2009-11-28 | 日記
最近、よい天気が続きます。この時期の天気の良い日を小春日和というのでしょうか。午後は風が出て来ますが、午前中は穏やかで静かです。布団を干すのに丁度良いでしょう。土曜日は、ヘルパーさんが来てくれるので、とても有難いです。布団を干してもらいました。明日から、寒くなるようです。私は決まって冬になるとのどがからからになって、風邪を引きます。そのため加湿器を使っています。3日前から使い始めました。そのお陰で、危なかったのですが、のどが楽になりました。

枕元には、ペットボトルに水をいれて置いてあります。私は起きて水を飲むのはとても大変なので、これはいつでも手が届くように用意しています。

布団の下には、かいまきを入れています。かいまきとはどんな字を書くのでしょうか?首の周りが温かくて寝がえりを打っても大丈夫です。
それと、電気毛布を敷いていますが、まだ使っていません。これから必要になるので、もう入れてあります。

部屋の方は電気のカーペットがあり、その上に電気炬燵があります。今はまだ、炬燵をつけなくても、カーペットだけで済んでいます。

しかし、安住さんのようにはいきません。TBSラジオのアナウンサー安住さんは北海道出身ですが、東京へ来てから暖房器具を使ったことがないそうです。
北海道の寒さに比べたら、東京の寒さはへでもないと言っていました。そういう人もいるんだなと驚きました。



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