絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

大学時代

2009-11-14 | 思い出
私は埼玉大学の学生でした。

同級生は13名、中学校課程の美術専攻でした。これは、中学と高校の教員免許が取れます。だから、一応美術の先生を目指す人たちの学課でした。

入ってみると、みんな或る程度優秀な高校から来ていて、私などはランクの低い高校出身という感じでした。同級生の面々は、浦和高校、春日部高校、浦和一女、熊谷女子、などから来ています。こう考えると、私の本庄高校はその下のランクです。さずがに、国立大学だなと思いました。

そして、みんな真面目な大学生で、よく単位を取って、勉強しています。しかし、絵の力をみると大したことはありません。やはり、絵の力では、美術大学には敵わないということが、はっきりわかります。

私は、単位も取るつもりでしたが、ただ、平均的に学んでもしかたがないと思って自分の勝手な勉強をしていました。

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そんな中で、知り合ったのは、単位とは全く関係なく一生懸命に絵を描く先輩でした。各学年に目をやると、そのような人が二人づつくらいいることが分かりました。そういう人たちは、単位などは必要なものしか取りません。そして、何でもかんでもたくさんの授業を取っている真面目な学生を馬鹿にしていました。

そして、「いろいろ知識を得るのはいいけれど、絵の力があの程度で、本当に先生になるんかな?生徒がかわいそうだよな」というのが、いつも話題に上ることでした。

私もそう思いました。私は、高校時代から既に県展に三回入選していたので、或る程度絵の力はありました。そして、浪人もしましたから、デッサンの力もある程度はあると思っていましたが、その自分から見るとやはり先輩のいうことがその通りだと思いました。それで、これじゃいけないんじゃないかと、何人かの先輩たちと立ち上がることにしたのです。それが、埼玉会館を借りて、自分たちの展覧会をやろうという企画でした。

描いた絵を発表するということは、いい加減な絵は出せません。だから、人に見てもらえる絵を描こうという気持ちになるわけです。そうすれば、今までよりも真剣に絵を描くのではないかというのが、狙いです。また、授業の絵だけではなく、自分独自のテーマで絵に取り組むということもするだろうと思ったのです。それで、実施しました。これは自由参加のようですが、全員が出さなければ意味がないということで、各学年の代表的な人たちに集まってもらって、全員参加を呼びかけました。
今考えると、すごいことですが、みんな真面目な学生だったからかもしれませんが、全員参加が実現しました。
それで、美術科なんだから、美科展でいいんじゃないかとなりました。これは、私が大学2年生の時でした。そして、次の年に、私は三年生で、その展覧会のリーダーになって、第二回展をおこないました。その時は、私は、自分の絵を13点出品したことを覚えています。

実施する前に、私は、みんなが本気でやるきになってやらないなら、やっても意味がないと話しました。それで、同級生にそのようになげかけました。みんなが本気でやるなら、俺がリーダーでやるという言い方でした。

この時の、リーダーをどのように決めたのか、果たしてリーダーなどという係があったのか曖昧でしたが、私は初めから自分がリーダーのつもりになっていました。
これは、同級生に聞いてみたいですね。ただ、展覧会のノウハウを高校時代から知っていたことは大きな強みでした。本庄高校の美術部は毎年6月展という展覧会を校外で開催していたので、その経験があるからでした。
だから、展覧会の準備の時に、わからないことがあると、みんなが私に質問しました。あまりに菅野君菅野君と呼ばれるので、私は目が回るくらいでした。

これが、大学時代の私の学生運動でした。

もう、学生運動が下火になってきていた時代ですから、角材とヘルメットではありません。とても平和的な運動でした。美術の先生になる人間がろくな絵も描けないで、先生になるな!という投げかけでした。せめて県展に入選するくらいの力をつけてから先生になれ!ということです。

思いだして書いてみました。








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幸せな空間

2009-11-14 | 絵画指導
昨日、見学にいらした先生から、お礼のメールをいただきました。
その感想に、生徒たちを見て、美術室がとても幸せな空間に感じたとのことでした。
大学の講師をされていたときに、その空間をとても幸せに感じて、もう二度とこのような世界にはいられないだろうと感想を述べて大学を去られたというお話を聞きましたが、その大学で感じられたことと同じような温かい空間を感じたのだそうです。

それは、生徒たちがかもしだす美術室の雰囲気だったのでしょう。

それを聞いて思いだしたのは、「世界をつくる」という言葉です。私は、自分で気持ちの良い世界を作りたいと考えてやってきました。そこには、私の聖域というものができたのだと思います。或る方から頂いた言葉の中に、この聖域という言葉がありました。それを聞いた時に、そう思いました。

それは、私だけが気持ち良い世界ではだめなのです。生徒と一緒に気持ちの良い空間です。

しかし、生徒たちは、いつでも気持ちよく部活に取り組んではいません。だめ男子のお話をしましたが、常に、さぼって先輩に叱られている部員がいます。班長は朝連をさぼった生徒のクロッキーのモデルをしながら、苛々しています。
制作態度が悪かったり、人間関係でもめたり、態度がわるかったりと大変です。
先生に逆らう生徒はほとんどいませんが、それでも不満は常にあって、それを先輩に反発する形で表したり、いろいろ大変なのです。

だから、できれば美術の先生になりたいという希望を持つ生徒でも、やる気のある生徒たちだけの学校で指導したいなどと言った子がいました。

じゃあ、美術大学の先生になるしかないねと話したこともあります。

大学なら、さぼっている学生を叱るなどという必要もなく、気持ちよく教えられると思うからでしょう。

だから、私のように、やる気が失せている生徒のやる気を引き出したり、サボっている生徒に気合をいれたりするのは、とてもできないと嘆いていました。

絵を教えるのは、誰でもある程度はできるのですね。しかし、やる気のない生徒のやる気を育てることからできないと教育ではないのです。

また、やる気のないと言っても、初めはやる気で来るのですから、その気持ちをいかに継続させるか、失ったやる気をいかに取り戻すかということが先生の仕事なんですね。

私は、一番だめな生徒がどの程度の意識かで、その集団のレベルがわかると思っていましたから、いくらだめでも、ここまでは連れて行くという最低ラインを上げることを頭に置いていました。それが、作品で言えば、県展に50号から60号の作品を出品させるということでした。

もちろん、日々の活動の中で、クロッキーは最低でも一学期に何枚とか、美術史の勉強で、暗記テストは、最低どこまでとか、一つ一つのクリアーラインを設定してのことです。それをクリアーしなければ、単位はやらないという形です。

その辺の工夫は、いろいろやりましたので、だめ男子などといいながら、絶対連れて行くという気持ちは常にありました。おそらく、私の言う最低ラインというのは、他の高校の美術部なら一番頑張っている子よりもやっていることになるだろうとは思っていました。

また、生徒たちのハートのレベルも同様に、育てたつもりです。単なる見せかけの軍隊みたいな服従ではありません。お互いに気持のよい関係です。だから、難しいのです。

それでも、やっと気がついたのが、3年の二学期なんて子もいるので、普段いかに私が我慢しているかがお分かりかと思います。

それでも、大半は気持ちの良い生徒たちでした。だから、今回いらした先生が感じられたことは、とても温かく、幸せな空間だと思われたのでしょう。

生徒をイタリアへ連れて言った時に、添乗員さんから「高校生の引率と聞いた時、大変だなと思って、少し覚悟して来たのに、いまどきこんなにキュートな素直な高校生がいたなんて驚ろきました」と言われました。

同じようなことを、今日の先生も感じられたのだと思います。





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