試合の話ばかりになりそうなので、少し横道にそれます。
私の子どもの時は、巨人の星で育ったと書きました。
それは、スポーツ根性ものでした。しかし、理由は分かりませんが、それは人の見ていないところで、地道な努力を続けるということを教えてくれました。どうなのでしょうか。そういう漫画でしたか?小さい時から父親の夢を子どもに託して、子どもは自分の意思にかかわらず、親の夢を叶えるために頑張るという話ですよね。どこに隠れたところで努力するという話があるのでしょうか。
しかし、私はそう受け取って、人が見ていなくても自分の夢のために頑張るという姿にあこがれていました。だから、私は本当に良く練習をしたと思います。現役当時も先生方が美談にするほど、私は見えないところで練習する人でした。いや、実際は見えるところです。学校のリングを使ってのシュート練習ですから。
そして、いつでも思っていたのは、どこかで誰かが見ていてくれるという気持ちでした。このことは、絵を始めてもずっと貫いている感覚です。絵も人が見ていないところで努力して、ある日突然パッと凄いところを見せるというものですから、バスケットの隠れた練習と似たところがありますね。
とにかく、練習の休みの日でも、私は一人で練習していました。だから、上手くなるはずですね。そして、いま思うのは、それを考えた時、結構練習の休みの日があったのだなということです。日曜日と言えば練習試合をするのが当たり前かと思いますが、結構日曜日をやすんでいたのかもしれないのです。
その自主練習に同級生を誘ったこともありましたが、なかなか乗ってこなくて、私は一人でやっていることが多かったです。ただ、少し救われたのは、サッカー部が私と同じように自主練習をやっている子が多かったことです。やはり、県大会で優勝するようなチームはその辺から違いますね。
その頃から、サッカー部は5年連続県大会優勝という成績を上げたのです。
私が先輩を追い抜いてレギュラーになったのは、言ってみれば、陰で練習したその練習量の差でもあったと思います。とにかく、言われてする練習ではなく、自分からやる練習が好きでした。それは、練習が終わってからの練習もそうでした。下級生にフォローをさせて、真っ暗になった外コートでシュート練習をしました。付き合わされる下級生もかわいそうでしたが、私はそういうことが好きでした。その頃のボールは外用で、ゴムボールでした。しかも白いボールでした。私は時には石灰を付けてやったこともありました。暗くなっても見えるかなと思ったのです。
私がレギュラーになって、先輩たちと一緒に試合に出るようになったころ、統合中学になったのですが、ある時期に先輩たちがみんな練習に出てこなくなった時期がありました。あれは、なんだったのでしょうか。よくわかりません。しかし、先生も忙しくて、なかなか出てこないので、不思議なことですが、私たちは新2年生だけで練習していました。その指示は私が出しました。練習メニューはほとんど私が決めていました。
そして、ある時期、私は先生に言いました。「先輩たちが練習に出てこないなら、試合は2年生だけで行きましょう」と言ったのです。その事を考えると、二年生の二人がレギュラーになるのもわかるでしょう。だから、最終的には共和の先輩二人と金屋の先輩と我々下級生の二人がレギュラーになったのだと思います。
その頃、先輩たちは何かあったのかなという気もしないではありません。それが何なのかは、全く分かりませんでした。
私は、真面目なバスケット選手だったなあと思います。一人で練習していてもきっと誰かが見ていてくれると思っていました。テレビじゃないですが、どこかで私を見ていてくれるという期待でしょうか。いつかはこの努力が実る時が来るということかもしれません。ヨーロッパなら、キリストか神様が見ていると思うかもしれませんね。
また、テレビの実況中継のような解説付きの場面を想定して、自分で実況しながら試合をシミュレーションしていたこともありました。もちろん声は出しませんが。そのような感じで一人練習をするのが好きでした。
私の子どもの時は、巨人の星で育ったと書きました。
それは、スポーツ根性ものでした。しかし、理由は分かりませんが、それは人の見ていないところで、地道な努力を続けるということを教えてくれました。どうなのでしょうか。そういう漫画でしたか?小さい時から父親の夢を子どもに託して、子どもは自分の意思にかかわらず、親の夢を叶えるために頑張るという話ですよね。どこに隠れたところで努力するという話があるのでしょうか。
しかし、私はそう受け取って、人が見ていなくても自分の夢のために頑張るという姿にあこがれていました。だから、私は本当に良く練習をしたと思います。現役当時も先生方が美談にするほど、私は見えないところで練習する人でした。いや、実際は見えるところです。学校のリングを使ってのシュート練習ですから。
そして、いつでも思っていたのは、どこかで誰かが見ていてくれるという気持ちでした。このことは、絵を始めてもずっと貫いている感覚です。絵も人が見ていないところで努力して、ある日突然パッと凄いところを見せるというものですから、バスケットの隠れた練習と似たところがありますね。
とにかく、練習の休みの日でも、私は一人で練習していました。だから、上手くなるはずですね。そして、いま思うのは、それを考えた時、結構練習の休みの日があったのだなということです。日曜日と言えば練習試合をするのが当たり前かと思いますが、結構日曜日をやすんでいたのかもしれないのです。
その自主練習に同級生を誘ったこともありましたが、なかなか乗ってこなくて、私は一人でやっていることが多かったです。ただ、少し救われたのは、サッカー部が私と同じように自主練習をやっている子が多かったことです。やはり、県大会で優勝するようなチームはその辺から違いますね。
その頃から、サッカー部は5年連続県大会優勝という成績を上げたのです。
私が先輩を追い抜いてレギュラーになったのは、言ってみれば、陰で練習したその練習量の差でもあったと思います。とにかく、言われてする練習ではなく、自分からやる練習が好きでした。それは、練習が終わってからの練習もそうでした。下級生にフォローをさせて、真っ暗になった外コートでシュート練習をしました。付き合わされる下級生もかわいそうでしたが、私はそういうことが好きでした。その頃のボールは外用で、ゴムボールでした。しかも白いボールでした。私は時には石灰を付けてやったこともありました。暗くなっても見えるかなと思ったのです。
私がレギュラーになって、先輩たちと一緒に試合に出るようになったころ、統合中学になったのですが、ある時期に先輩たちがみんな練習に出てこなくなった時期がありました。あれは、なんだったのでしょうか。よくわかりません。しかし、先生も忙しくて、なかなか出てこないので、不思議なことですが、私たちは新2年生だけで練習していました。その指示は私が出しました。練習メニューはほとんど私が決めていました。
そして、ある時期、私は先生に言いました。「先輩たちが練習に出てこないなら、試合は2年生だけで行きましょう」と言ったのです。その事を考えると、二年生の二人がレギュラーになるのもわかるでしょう。だから、最終的には共和の先輩二人と金屋の先輩と我々下級生の二人がレギュラーになったのだと思います。
その頃、先輩たちは何かあったのかなという気もしないではありません。それが何なのかは、全く分かりませんでした。
私は、真面目なバスケット選手だったなあと思います。一人で練習していてもきっと誰かが見ていてくれると思っていました。テレビじゃないですが、どこかで私を見ていてくれるという期待でしょうか。いつかはこの努力が実る時が来るということかもしれません。ヨーロッパなら、キリストか神様が見ていると思うかもしれませんね。
また、テレビの実況中継のような解説付きの場面を想定して、自分で実況しながら試合をシミュレーションしていたこともありました。もちろん声は出しませんが。そのような感じで一人練習をするのが好きでした。