絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

今夜のリアルクローズ

2009-11-17 | いろいろ
リアルクローズを見ました。
このドラマは、デパートがメインのドラマかなと思ったら、やはりそこを舞台とした恋愛ドラマなんでしょうか?

寿退社という言葉がありますが、彼氏の仕事の関係で、仕事を辞めなければならなくなるということは、現実にたくさんありますね。

そして、仕事を取るか、結婚を取るかという選択。多くは結婚を取ることになるのでしょう。

しかし、このドラマは仕事を選んだ。

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そして、別れた。

今夜は、別れてさびしくなった彼女が、彼に荷物を返すことを口実に彼氏のアパートを訪れる。そして、彼が幼馴染の女の子と帰ってくる場面に出くわしました。

彼は、自分が振られた訳だから、新しい彼女になる可能性がある女の子との関係が始まっていました。

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幼馴染の女の子が、「あの子が、元の彼女?」と尋ねました。そして、「今夜は、やさしさを発揮しないでね」と言い、「きちんと嫌われてほしい」と言いました。

へええ、そうか、そういう言い方もあるのかと思いました。

そして、部屋の中で、「私たち、もうダメかな?1パーセントも可能性はないかな?」と言われました。彼は、「俺たち、もう終わったんだ」と答えました。

この場面は、難しいなあと思いました。1パーセントもないかな?と言われたら、どうだろう。まだ、好きという気持ちがあるはずだから、そこで、葛藤があるはずなのですが。
「君が仕事を辞めて、僕について来てくれるなら、可能性はある。でも、ダメなんだろ?」というのかなと思いました。まだ、幼馴染の女の子を傷つけるほどの付き合いにはなっていないはずですから。
彼女が仕事を辞めてでも、僕についてきてくれるなら、そう心を決めてくれるならと期待する気持ちがあるはずなんです。

それを、言わずに、「もう終わったんだ」と言えるのかな?と思いました。

しかし、幼馴染の女の子がきちんと嫌われてほしいと言ったことに従った言葉です。それは、その幼馴染の女の子を選んだという意味でもあります。

そんなにきちんとできるかなあと、思いました。

そのときの、終わったんだという言葉で、彼女が自殺をしてしまうのではないかという心配はしないのでしょうか。中途半端に優しくしたりすれば、その後、彼女はもっと苦しむことになるのでしょうか。

この辺りは、学校では教えてくれない、難しい問題ですね。国語力のない私は、こんな時どうするだろう、何ていうだろうと解答が見つかりません。もう、そんな場面には出くわす心配もないですが。

恋愛ものは、一緒に考えられるから面白いですね。
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印象派前後2

2009-11-17 | 美術
昨日は、新古典主義の話になり、アングルを紹介しました。
19世紀の初めは、ダビッドとアングルの新古典主義を覚えていただきたいのですが、それに対抗するように出てきたのが、ロマン派です。

ロマン派の代表選手は、ジェリコとドラクロアです。

ジェリコの方が先輩なので、覚えてください。それが証拠に、ジェリコと言えば、難破船ですが、その難破船のテーマを真似したようなドラクロアの絵があります。だから、ジェリコが先輩だとわかります。
これが、そのドラクロワの絵です。


ロマン派と新古典主義の違いは、テーマです。ドラマチックな絵画として覚えると分かりやすいですよ。例えば、ジェリコのメデューズ号の筏ですが、これを難破船と呼んでいます。


メデューズ号が沈没して、筏で助けを求めて漂流した事件を描いています。最初は150人からの人がその筏に群がっていたようですが、段々と死んでいき、最後は生き残ったのが、15人だったという話です。

また、ドラクロアが描いた有名な絵は、民衆を率いる自由の女神です。上半身裸の女性がフランスの国旗を持って、人々を導いている様子が描かれています。


これは、世界史の教科書には必ず登場する絵なので、多くの人が知っています。しかし、私が勘違いしていたように、これがフランス革命の絵だと思っている人が多いのではないかと思います。実際は、7月革命のときの様子を描いたと後で知りました。この絵は、数年前、日本に来ましたね。日本のフランス年という年に飛行機でやってきました。飛行機の口がパックリ開いて、縦に絵が入っていたので、驚きました。結構大きい絵ですよね。でも、ジェリコの難破船の方が大きいのですよ。
その絵は、私が行った時は、ルーブル美術館の同じ部屋にありました。ナポレオンの戴冠も同じ部屋でした。ドノンです。モナリザ見学コースで、見られます。

新古典主義は、がちがちに固まった静かな世界を描いているのに対して、ロマン主義は、ドラマチックな場面を描いていると覚えてください。

誰かが、言った言葉に、「ロマン主義は、遅れてきたフランス革命だ」というのがありました。どういう意味なんでしょうか。私も、その意味を考えないで来ました。何かの解放なのかな?

とにかく、1789年がフランス革命ですから、その時が、ナポレオンが20歳、そのナポレオンと共に、ダビッドが活躍をして新古典主義を展開した。その後に対抗するように出てきたという順番で、ロマン主義が出て来ます。そのように覚えておくとよいでしょう。

ーーー
ついでの話ですが、この時代はサロンの時代になっていましたね。そのときに、イギリスからコンスタブルが馬草車という風景画を出しました。それを見たドラクロワが自分の絵の空を描き直したというエピソードを以前書きました。そのことも覚えてください。それによって、ドラクロワとコンスタブルが同じ時代の人だということが覚えられます。

  

左が、コンスタブルの馬草車で、右がドラクロワのキオス島の虐殺です。

コンスタブルの風景の空があまりに美しいので、キオス島の虐殺の絵の空を描き直したのだそうです。




コメント (2)
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ローマ人の物語12 

2009-11-17 | 読書
今日読んだところの感想。

250年辺りを読んでいます。それによると、キリスト教の迫害は、150年間くらいは、ほとんどなかったとありました。殉教した人が12人くらいだということです。これがローマ側の記録なら疑いますが、キリスト教会側の記録だということですから、信じられるのかなと思います。

ただ、例外は、ネロの時です。ローマの大火の原因はキリスト教信者だったということで大量に虐殺したことがあったからです。

それ以外は、ただキリスト教の信者だからということで、迫害を受けた訳ではなく、国家の危険を感じるような活動をした場合のみで、ローマは、元々多神教であったから、一々他の宗教を弾圧はしなかったというのです。

へええと思いました。私は、ペテロやパウロが殉教したとか、ドニが自分の首を持って歩いたとか、そういうことばかり頭にあったので、それ以外にもものすごい弾圧が常にあったのかと思っていました。

よく読むと、その弾圧は250年のデキウス辺りかららしいのです。
日本では、踏み絵が行なわれました。それと似たようなことですが、自分はキリスト教の信者ではないという証明書をもらうということをやったようです。

キリスト教徒は、ローマの言うことより、神の言うことに従うわけですから、ローマにとっては、不都合な存在になるわけです。

よく考えると、そうですよね。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というからには、人を傷つけるような戦争をするわけがないと思いますがどうでしょうか。

一応、その時は、ローマに従って、自分はキリスト教徒ではないという証明書を受け取って、その場を逃れるように指示が出されて、事なきを得た人々もたくさんいたようです。また、信者であることを辞める人もいたようです。
しかし、指導者的な立場に居た人はそうはいきません。それで、殺された人もたくさんいたでしょう。

ここで、思ったのは、カタコンベはいつから作られたのだろうということです。調べてみたくなりました。キリスト教を私が思っていたように常に弾圧していたのなら、キリストが亡くなってからの、300年間はずっと地下に隠れていたと思いこんでいたので、すこし、違うかなと思い始めました。
313年のミラノ勅令でコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認したので、それ以降キリスト教の教会が作られ始めたと生徒に教えて来ました。
確認してみます。

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百科事典で、調べると地下墳墓としか出て来ません。ただし、キリスト教徒だけのお墓ではありません。そして、別のものを見たら、今では、キリスト教徒が隠れて布教していた場所と考えている人はいないでしょうと書いてあるものもありました。
これは、ピラミッドがお墓ではないと聞いたときと同じくらいのビックリですが、どうなのでしょうか。

カタコンベがキリスト教徒の隠れ場であったと考えると、キリストの生まれた紀元元年から認められる313年までの迫害を受けていた時期に作られて、それまでは、表に出られなかったけれど、313年以降は堂々と外で活動ができて、キリスト教の教会も作られるようになったというのが、私が考えていたことでした。

しかし、そうではないとなると、カタコンベはいつから作られたのか、そして、313年以前からキリスト教の教会はあったのか、という問題の答えを探さなければなりません。だれか、ご存じの方は教えてください。







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コスモスの絵

2009-11-17 | 日記
高校時代の友達がなかまちに来てくれました。

麓原展を30年ぶりに見てくれて、なかまちに私が絵を飾っていると話したら、見に来てくれるようになりました。私のコスモスの絵を気に入ってくれて、友達にも紹介してくれたそうで、昨日は、それを見せたくて友達を連れて行ってくれたのでしょうか?その絵がなかったとメールが入りました。

すみません。そのコスモスの絵を県北展に持って行ってしまいました。

私は、審査員なので、大きい絵は出せません。それで、10号のコスモスを出したのです。大きい絵を出してもいいのですが、壁面を考えたら、一般の人たちにスペースを譲った方が良いのです。また、審査員の人たちがみんな10号位の大きさを出すのに、自分だけ大きいのを出すのも、浮いてしまうということがあります。みんなに合わせるのも協調性ということでしょうか。

そんなわけで、コスモスの絵が一週間ほど、秩父へ行っていますので、なかまちに戻ってくるのは、11月23日の県北展が終わった後になります。すみません。

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コスモスの絵の代わりに、吉井風景を飾りました。なかまちの壁の色が薄いオレンジ系なので、冬の枯れた風景では、色が同じになってしまう点が、自分では問題なのですが、壁の色を変えることはできませんから、ちょっと我慢です。
絵は、額も大切ですが、壁の色も重要なのです。










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