今日は、ローマ人の物語12の120ページまで読みました。
カラカラ帝は、奴隷を除くすべての人々にローマ市民権を与えたと分かりました。
それは、本来は良いことでしょうね。しかし、とても大変なことでもあったのです。
これは、麓原会に例えると、全ての出品者を無条件に会員にしてしまったようなものですね。ということは、会員が少しがっかりしますね。麓原会では、会友になるまでに、一般で特選を二回以上取るという条件があります。そして、会友になって二回特選を取って、初めて会員に推挙される条件が整います。そして、みんなに絵の実力が認められると会員に推挙されるのです。
そうやって、やっとの思いで、会員になれるのです。また、その先も会員の中で特選になって、最高賞の古川賞を取ると、審査員になれるという階段があります。
そういう階段があるから、次の目標は?と自分で目指せるものがあるのです。
それが、無条件で会員となるなら、やっとの思いで、会員になれた人は面白くありません。
自分の身近な例えで言ってしまいましたが、全ての人にローマ市民権をあたえるということは、そういうことでもあるのですね。
ーーーーー
今日、読んで良かったのは、パルティアからササン朝ペルシャへの移行がわかったことでした。
---簡単にお話しします。ーーー
アレクサンダーの東方遠征によって、アケメネス朝ペルシャが滅亡しました。
しかし、アレクサンダーは、すぐに死んでしまいました。
その後、三人の部下がその土地を分けた形になりましたが、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンの地は放っておかれました。
このとき、エジプトに行ったのが、プトレマイオスで、後にクレオパトラ7世が出て来ます。プトレマイオスはアレクサンダーの遺骨をエジプトのアレクサンドリアに持っていき、お墓を作って納めました。
セレウコス朝シリアも地中海方面は治めましたが、それ以上東には興味をしめしませんでした。そこで、イラクより東に台頭してきたのが、パルティアだったそうです。
ローマは、カルタゴとのポエニ戦争で100年あまり忙しく、東方へ行くことはできませんでした。それで、この東方は500年間くらいパルティアが治めていたそうです。
その境界は、ユーフラテス川でローマとの国境として、均衡を保っていたのですが、3世紀にパルティアを滅ぼしたササン朝ペルシャは、かつてのアケメネス朝ペルシャの勢力範囲まで、取り戻そうとユーフラテス川を越えて西に動き出しました。それが、今、私が読んでいるところです。
だから、ローマ対ササン朝ペルシャの戦いになりそうです。
ーーーーーー
この辺の歴史は私は掴んでいません。パルティアが治めたと簡単に言いますが、500年ですから、いろんな事があったはずです。どうやって治めたのか、途中どんな事件や危機があったのかと調べたら、簡単ではないでしょう。
世界史ではポエニ戦争のことは詳しく述べられますが、このパルティアについては簡単に触れられるだけです。しかし、そのローマが大きくなっていく間に、東方ではパルティアという国があったことを知って、一つ知識が増えました。
読んでみると、ローマの皇帝も戦いに勝たないと民衆の支持が得られないし、下手をすると部下に殺されるという危険が常にあって大変だったのですね。兵隊を駐屯させるには、それなりの場所を作って、楽しませる娯楽もなければならなかったり、兵隊の不平不満との戦いもあったようです。
今回読んで知ったことは、ローマの皇帝というのは、ローマ出身者とは限らないということです。これは、面白いですね。そういえば、ローマは建国からそうですよね。サビニの女を略奪しましたが、その後サビニから王を出したり、エトルリアから王が出たりしていますね。また、有名なトラヤヌスもハドリアヌスも出身はスペインだし、カラカラも父親が北アフリカ出身だそうです。そして、今私が読んでいる皇帝はシリア出身なのです。これは、凄いことだと思いませんか。
日本の国で考えてみると、天皇がアメリカ人と結婚してできた子供が天皇になるようなものでしょうね。こんなことは、まず日本では考えられないでしょう。そう考えると、ローマの大きな特徴といっていいでしょうね。
カラカラ帝は、奴隷を除くすべての人々にローマ市民権を与えたと分かりました。
それは、本来は良いことでしょうね。しかし、とても大変なことでもあったのです。
これは、麓原会に例えると、全ての出品者を無条件に会員にしてしまったようなものですね。ということは、会員が少しがっかりしますね。麓原会では、会友になるまでに、一般で特選を二回以上取るという条件があります。そして、会友になって二回特選を取って、初めて会員に推挙される条件が整います。そして、みんなに絵の実力が認められると会員に推挙されるのです。
そうやって、やっとの思いで、会員になれるのです。また、その先も会員の中で特選になって、最高賞の古川賞を取ると、審査員になれるという階段があります。
そういう階段があるから、次の目標は?と自分で目指せるものがあるのです。
それが、無条件で会員となるなら、やっとの思いで、会員になれた人は面白くありません。
自分の身近な例えで言ってしまいましたが、全ての人にローマ市民権をあたえるということは、そういうことでもあるのですね。
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今日、読んで良かったのは、パルティアからササン朝ペルシャへの移行がわかったことでした。
---簡単にお話しします。ーーー
アレクサンダーの東方遠征によって、アケメネス朝ペルシャが滅亡しました。
しかし、アレクサンダーは、すぐに死んでしまいました。
その後、三人の部下がその土地を分けた形になりましたが、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンの地は放っておかれました。
このとき、エジプトに行ったのが、プトレマイオスで、後にクレオパトラ7世が出て来ます。プトレマイオスはアレクサンダーの遺骨をエジプトのアレクサンドリアに持っていき、お墓を作って納めました。
セレウコス朝シリアも地中海方面は治めましたが、それ以上東には興味をしめしませんでした。そこで、イラクより東に台頭してきたのが、パルティアだったそうです。
ローマは、カルタゴとのポエニ戦争で100年あまり忙しく、東方へ行くことはできませんでした。それで、この東方は500年間くらいパルティアが治めていたそうです。
その境界は、ユーフラテス川でローマとの国境として、均衡を保っていたのですが、3世紀にパルティアを滅ぼしたササン朝ペルシャは、かつてのアケメネス朝ペルシャの勢力範囲まで、取り戻そうとユーフラテス川を越えて西に動き出しました。それが、今、私が読んでいるところです。
だから、ローマ対ササン朝ペルシャの戦いになりそうです。
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この辺の歴史は私は掴んでいません。パルティアが治めたと簡単に言いますが、500年ですから、いろんな事があったはずです。どうやって治めたのか、途中どんな事件や危機があったのかと調べたら、簡単ではないでしょう。
世界史ではポエニ戦争のことは詳しく述べられますが、このパルティアについては簡単に触れられるだけです。しかし、そのローマが大きくなっていく間に、東方ではパルティアという国があったことを知って、一つ知識が増えました。
読んでみると、ローマの皇帝も戦いに勝たないと民衆の支持が得られないし、下手をすると部下に殺されるという危険が常にあって大変だったのですね。兵隊を駐屯させるには、それなりの場所を作って、楽しませる娯楽もなければならなかったり、兵隊の不平不満との戦いもあったようです。
今回読んで知ったことは、ローマの皇帝というのは、ローマ出身者とは限らないということです。これは、面白いですね。そういえば、ローマは建国からそうですよね。サビニの女を略奪しましたが、その後サビニから王を出したり、エトルリアから王が出たりしていますね。また、有名なトラヤヌスもハドリアヌスも出身はスペインだし、カラカラも父親が北アフリカ出身だそうです。そして、今私が読んでいる皇帝はシリア出身なのです。これは、凄いことだと思いませんか。
日本の国で考えてみると、天皇がアメリカ人と結婚してできた子供が天皇になるようなものでしょうね。こんなことは、まず日本では考えられないでしょう。そう考えると、ローマの大きな特徴といっていいでしょうね。