絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ローマ人の物語15 終了

2009-12-31 | 日記
12月31日、9時57分、読み終わりました。

とりあえず、区切りをつけたくて、読み終えました。
最後は、イタリア半島は大変な苦しみになりました。

ユスティニアヌスは、とても有名で、ビザンチン帝国を大きくして、昔の西ローマのかなりの部分を取り戻した皇帝と思っていましたが、その実際はベリサリウスという凄い将軍がいたからだと言うことが分かりました。ユスティニアヌスは、ほとんどコンスタンチノープルを出ていないのですから。
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紅白も見ないで、読書をしてこの夜を過ごすのは珍しいです。

後、10巻と11巻が読んでないので、正月からはそれを読むつもりです。

2009年の後半戦はブログとローマ人の物語を読むことで、過ぎました。

無事、2010年が迎えられそうです。


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エジプトをつかもう7

2009-12-31 | 美術
モーゼの十戒のお話は、定かではありませんが、ラムセス二世の時ではないかと言われています。

また、トロイ戦争もこの時代であったのではないかと言われています。
テレビでは、トロイ戦争で勝ったアガメムノンは、スパルタに帰る途中でエジプトに立ち寄ったという話が出されました。これは、あまりにこじつけのような気がしますが、時代的には近いのだそうです。
だから、立ち寄った時にラムセス二世がまだ子どもで、父親のセティ1世に聞かないと分からないと答えたら、俺を誰だと思っているんだと凄んだというのです。

本当なら面白い話です。

モーゼは、エジプトにいたヘブライ人を解放して、カナンの地まで大移動をした人で、その途中で神から十戒を受けたと言われています。旧約聖書の物語ですね。それが、BC1250年くらいの話として残っています。

海が割れる話ですね。

因みに、ミケランジェロがこのモーゼ像を彫っていますが、その両脇にいるラケルとレアはヘブライ人をエジプトに渡らせる切っ掛けになった人です。
イスラエル12部族と言われるそうですが、その親に当たる人だと聞きました。

ラムセス二世の子どもにメルエンプタハという人がいます。その人が次のファラオになったようですが、その人のミイラを見ると白いのです。他のミイラはみんなこげ茶色をしているのに、それだけ白い。
吉村先生は、それは海で溺れて死んだからではないかという説を出しました。モーゼを追いかけて行った時に海が割れたところへ入り込んで、海が閉じたために溺れたというのです。エジプト考古学庁のザヒ博士は、興味深い説だと言っていました。

ラムセス二世は、カルナック神殿を作った人と言われますが、その他にもたくさんの建築をしています。

余談ですが、ラムセス二世は身長が190センチあり、90歳まで生きました。
たくさんの奥さんと子供がいて、ラムセス二世が長生きしたため、子どもたちが先に死んでしまい、後を継いだのは、13番目の王子メルエンプタハだったという話です。吉村先生の説が正しければ、モーゼがエジプトを出たのは、ラムセス二世が亡くなってからと言うことになりますね。

ラムセス二世の奥さんは30人くらいで、子どもは120人いたそうです。

モーゼが連れて出た人の数は、どのくらいだと思いますか?
その数を聞いて驚きました。200万人だというのです。本当でしょうか?本当ならゲルマン人の大移動のようですね。
しかも、移動した年数も半端ではなく40年くらいとか聞きました。これもどう考えたらよいでしょうか?


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美術部卒業生忘年会

2009-12-30 | 美術部情報
今夜は、美術部の卒業生で忘年会をやりました。
場所はなかまちでした。
20名集まりました。

東北芸術工科大学の4年吉田さんと大学院1年の荻野さんが中心になって、開いてくれました。

棚沢先生が今年の美術部の実績を発表してくれました。

今年も全国代表に選ばれて、7年連続になったそうです。

また、佐藤太清展で、太清賞を取ったこと、群馬県展で特選者が出たことなどが、大きなニュースでした。
私学文化祭の一位はいつものことなので、あまりニュースになりませんが、それでも続けているのは、すごいです。県北展も特選を二人が取りました。

なんだかすごいことなのに、毎年のことになって、麻痺してしまいそうですね。
しかし、部員は30名になってしまいました。そのことが気がかりですね。

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エジプトをつかもう 6

2009-12-30 | 美術
パラムセスがラムセス1世になって、第19王朝を開きました。

その息子が、セティ1世で、孫がラムセス2世です。

セティ1世は、お墓が立派なので有名ですが、それは、ラムセス2世が凄かったからだという気がします。自分が凄くても、その後がダメでは、自分の墓は立派になりませんから。

そう考えると、ツタンカーメンのお墓はなぜあんなに立派だったのでしょうか?
ちょっと不思議ではありませんか。もし、殺されたり、王名表から外されたりしたのなら尚更おかしいですよね。単に財宝を隠すための材料に使われたということなのでしょうか。

とにかく、ラムセス2世が凄かったので、セティ1世のお墓は凄いものになっています。

ラムセス2世は、建築王とも言われて、今、エジプトに残る建築物の半分くらいは、ラムセス2世か作ったと言われるほどです。

特に有名なのは、アブシンベル神殿です。
世界遺産の第一号ですね。

これは、ナイル川にアスワンダムを作るという計画の時、ダム湖の底に沈んでしまう運命にあったものを、世界の宝だから救おうという運動が起こって、移動させたものです。
この工事は大変なことでした。石の山のようになっている所に作られていたものを、山ごと移動しようという計画で、石を切り取って、たくさんのパーツに分け、それをまるで積み木を運ぶように移動させたのです。
そして、上流の川の端に再現しました。凄い工事でした。そのときに、日本は何も貢献できなくてすみませんでしたと、吉村先生が言ったところ、いえ、日本はすごい貢献をしているのですよと答えが返ってきたそうです。なぜかと言うと、その石をくっつけたのは、日本製の接着剤だったのだそうです。
へええーーーですね。

このアブシンベル神殿は、大神殿と小神殿があって、小神殿は奥さんの神殿だそうです。奥さんの名前は、ネフェルタリと言って、ラムセス2世にとっては、とても大切な存在だったようです。ファラオの奥さんで、神殿を持っているのは、エジプトの長い歴史の中でも、この人だけだそうです。

ラムセス2世の像の足元や後ろなどに小さく立っている女性があったら、それはネフェルタリだと思っていいでしょう。

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ついでに話ますが、ラムセス2世の有名な戦いに、カデシュの戦いというのがありますが、戦いはエジプトがやや有利に展開していたにも関わらず、引き上げてしまいました。相手は、ヒッタイトでしたが、ラムセス2世が敵に背を向けるわけがない、きっとこれは罠に違いないと思って、追わなかったそうです。
しかし、よくよく調べると、それは、奥さんのネフェルタリが戦いが嫌になって、息子を連れてエジプトに帰ってしまったため、じゃあ僕も帰ると言って、帰ったと言う話でした。そんな、馬鹿なという話です。
愛する奥さんが、帰ってしまうなら、僕も帰りたいなどと、嘘みたいな話ですよね。
この時、ネフェルタリは、「あなたは好きなだけ戦ってください。私は帰ります。
あなたが死んでもこの子がいるから大丈夫です。存分に戦ってください」と言ったとか。

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カンボジアの小学校

2009-12-30 | いろいろ
カンボジアの小学校で、楽しい授業

電次郎先生が、カンボジアの小学校で理科の実験授業をやっていました。
子供たちは、楽しそうに学んでいました。

次に、別の学校で音楽の授業をやりました。先生の名前を忘れてしまいました。
シンガーソングライターの方です。

カンボジアの子供たちは、音楽の授業がありません。楽器がありません。
小学校がなくて、通えない子供もたくさんいます。
最初に驚いたのは、手拍子が合いません。みんなで揃って歌うという経験がないのです。みんなバラバラでした。

そうか、合唱というのも習わないとできないのかと思いました。
それで、121212というリズムから始めました。

だんだん、子供たちはできるようになっていきました。
そして、その先生が作った歌を現地の言葉で歌えるように教えました。

一人の女の子が、引っ越すことになりました。
じゃあ、その子を送る歌にしようと言って、みんなの思いを歌に入れました。

歌自体は、世界の平和を願い、人類はみんな仲間だという歌です。

それを、その子のために、さようなら、元気でね、笑顔を忘れないという言葉に変えて歌いました。

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歌は、いいですね。特にみんなで歌うというのは。
子供たちの素直な表情、輝く目を見ていると、小学校を作ってやりたいなあと思ったり、せめて笛でも送ってやりたいなあと思ったりしました。

地雷がたくさんあって、今でも爆発して死んだり怪我をしたりという状態が続いているそうです。不発弾もたくさんあるそうです。

日本と比べたら、とんでもない状態ですね。
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私の母と一緒に見ていたら、母が子供のころは学校へお弁当を持って来られない子供がいて、用務員室でおにぎりをもらっていた子がいたと聞きました。日本も70年くらい前は、そういう貧しい状態もあったのだと思うと、今の子たちは幸せですね。



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