絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出9

2009-11-30 | 思い出
練習メニューは私が考えていたと書きました。

3年生がいるときは、キャプテンの指示に従いますが、居ない時は私です。
実は、顧問の先生がバスケットの素人でした。だから、練習のパターンを知りません。そのため、私は、1年生の時に3年生が作ってくれた練習パターンを覚えていて、それを常に繰り返していました。ただし、時々、来てくれるコーチからやり方を教えてもらい、少しづつ取り入れて、変化をつけていました。

その頃は、まだ、体育館がありません。外のコートです。しかもグランドはまだ完璧ではなく、穴を掘って土管を埋めたりの作業があったので、元の中学校のコートまで戻って練習をしていました。

私は、3年生に混ざってレギュラーになり試合に出るようになりましたが、その頃は先生が素人だということもあったのですが、とにかく5ファールで退場にならない限り、私はコートから出ることはありませんでした。今の人が聞いたら、それはバスケットを知らないねと言われるでしょうね。
バスケットというスポーツは、初めから終わりまで、出ずっぱりというものではありません。必ずメンバーチェンジをして、少し休んではまた交代して出るというのが普通です。なんとかやれたのは、ゾーンディフェンスだったからでしょうか。

しかし、その頃、本庄西中学は、凄いことをしていました。メンバーチェンジを頻繁に繰り返して、時には、5人とも全部取り換えをしてしまうのです。なんだ?と思いました。それだけ使える選手がいるということなのです。ベストメンバーと控えの選手の力の差があまりないのです。凄いなあと思いました。そして、それに憧れました。選手は休めるから出た時は思い切りできます。疲れたらすぐに交代できます。補欠という感覚がなくて、誰もが自信を持っています。そして、そのチームが県大会で優勝してしまったのです。

我々児玉中学はその本庄西中学と前半は、ほとんど互角に戦ったのですよ。だから児玉中も弱くはなかったのですが、常に本庄西中と当たって、敗れました。それで、春と夏は県大会に行けませんでした。
だから、私が二年生の時は、新人戦で県大会に行っただけで、その後はいけませんでした。
ーーーーー
そして、私たちの時代が来ました。

私は、キャプテンになりました。これは、当然でしょうね。しかし、それでも決める時は、投票をして決めました。その結果を見るときはドキドキしました。私はクラスの学級委員も3年間務めましたが、その投票よりずっと緊張しました。やはりキャプテンの重みは、かなり重い物です。

そして、その時に感じたことは、二年生の時に、先輩たちが練習に出てこないので、二年生だけで試合に行きましょうと先生に言ったくらい生意気だったのに、いざ先輩がいなくなってみると、結構大変だなと思いました。責任の重さです。それで、いままでは、なんだかんだといっても先輩がいるので、甘えていたんだなと感じました。

部活に入って初めて感じた不安感でした。

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最初の試合は、県北新人大会でした。ここで、私たちは大活躍の児玉旋風を巻き起こします。誰も予想しなかった児玉中が準決勝まで勝ち進んだのです。

しかし、その前に、一回戦の話をしなければなりません。その試合は、同点で延長でした。そして、延長をやっても決着がつかず、再延長をやりました。途中で、我々のフリースローになり、二つ打つ内の一つでも入れば勝ちという瞬間がありました。しかし、二つとも入りません。また、その逆に相手のフリースローになり、一つ入れば相手の勝ちという場面がありましたが、それも二つとも入りません。その度に勝ったという思いと、負けたという思いを繰り返しました。
そして、二度目の延長も同点で切りが付きませんでした。シュートを入れては勝ったと思い、入れられては負けたと思いました。しかし、その度にどちらも追いついて、けりがつかないのです。
そうしたら、審判がそんなルールはなかったのですが、検討してくれて、この後は最初にゴールを決めた方の勝ちにすると言いました。

最後のシュートは、私でした。シュートが入って勝ちになりました。右45度からのジャンプシュートでした。その瞬間は、まだ、ゴールが眼の前によみがえってきます。空中でリングを見つめて入れるぞーと構えている瞬間が映像で止まって見えます。映画のストップモーションです。

私は、大変な試合を戦ってしまいました。途中で何度も勝った負けたを繰り返しました。最後のシュートを決めた時、入って良かったと思いました。そして、勝った瞬間涙がどっとこぼれて来ました。まるで、優勝の瞬間のようでした。

たかが、県北大会の一回戦です。なのに、私はうれしくて涙が止まりませんでした。我々の時代になって初めての試合です。自分にとっては、責任の重さも感じていました。それが、こんな試合になってしまったのです。終わって責任を果たせた気持ちと、自分がその勝利のシュートを決めたことの感動と、いろいろなものが入り混じって、涙になりました。あまりに私が泣くものだから、他のチームの選手が大丈夫かと声をかけてくれた程でした。

少し、オーバーな言い方ですが、私はこの大会で優勝するつもりで行ったのです。それなのに、一回戦がこれです。この先大変だなあと感じていました。

しかし、おかしなものです。その一回戦で苦労したからかもしれませんが、次の試合も接戦でありながら1ゴール差で勝ちました。1ゴールと言えば、2点差です。
そういうのは、僅差の勝利というのです。しかし、1回戦で延長の延長を戦ったことから考えたら、すぐ終わったという感じさえしました。ええーー、終わりでいいの?という感じでした。

この試合は、実は、とんでもない結果なのです。24-22で勝ったのですが、その24点の内、私が何点取ったと思いますか?私は22点取ったのです。後の2点は他のメンバーがフリースローで1点づつ取った点でした。
これは、完全なワンマンチームというんですよね。

全く、誰が聞いてもそんな馬鹿なという点の取り方です。私はそんな経験もしているのです。

二つ勝って、いい気になっている我々に、女子の顧問の先生が男子はこの次で負けると言ったそうです。次の相手が熊谷東でした。そのチームの強さを先生は知っていたのでしょうか。それとも児玉がそんなに強いわけがないと思ってでしょうか。とにかく、その言葉はカチンときました。先生は我々に悔しかったら勝ってみろと発破をかけたのでしょうか。分かりませんがとにかくその言葉をきいて、よし、それなら勝ってやると思いました。そして、その通り勝ってしまいました。

その頃は、まだ、児玉中学はそんなに強いとは思われていなかったので、この準決勝進出は周りからみると驚きだったのかもしれません。しかし、とにかく3つ勝ってしまいました。そして、次の日の準決勝にコマを進めたのです。

私にとっての、公式戦はこのようにして始まりました。

つづく



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坂の上の雲

2009-11-30 | いろいろ
坂の上の雲を見ました。

明治の若者の輝いた目がいいですね。

中学を中退して、東京へ出て行く。それが、流行りだったと言っていました。
お金がある家ならそれができたのかな?

今は、どうすることがそれに当たるのでしょうか。高校を中退して、ヨーロッパに出て行くと考えても、それがどうした?と思いますが。世界がグローバル化して、どこにいても世界が見えますね。こうすることが、これからの世の中では、理想だということが、なかなか見え難い時代になりました。

若者が希望を持って、活き活きと世の中のために尽くすには、どうすることが良いのでしょうか。教育は、その方向性をきちんと示せない時代になりました。

私が生徒に教えた最大のことは、「こうすればとてもできないと思うようなことができてしまう」ということでした。
高校生が県展に入選してしまうという奇跡的なことでも、こんな風にやれば、それをほとんど全員ができてしまうということ。それを示しました。
人間は、必死になれば、とてもできないと思うようなことでもやってしまう能力があることを教えたと思います。生徒たちは振り返って、そう感じるはずです。だから、何かをするときに、絵でやった取り組みが生かされると思います。能力が無くてもハートがあれば、あれだけのことができてしまうという事実です。

世の中で自分を生かすにはどうすればいいのか、見え難い時代になったと言いました。しかし、世の中が変わっても、人の本質は変わらないとすれば、やはり大切なのは、ハートではないかと思います。

勉強して、それを世の中のために生かすこと。その情熱を失わないこと。勉強しただけじゃダメでしょうね。それを生かさないと。

私のバスケット部での体験は、机の上では学べないことがたくさんありました。それが、その後の教員という仕事でとても生かされました。数学や英語ができるだけじゃとてもわからないことです。

高校時代の制服自由化も、やってやれないことはないというチャレンジ精神を持つことに、勇気を与えてくれるものでした。どうせやったって駄目さと思ったら、なにもできませんからね。

坂の上の雲が、この後どのように展開されるかは分かりませんが、司馬さんは日本人を明るく捉えています。このような希望に目を輝かせている若者ばかりじゃなかったはずですが、こうならいいなという姿を見せてくれていますね。続けてみて行こうと思います。
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バスケットの思い出8

2009-11-30 | 思い出
先輩たちは、とてもよく教えてくれたと書きました。

初心者である我々にボールの持ち方から、パスの仕方、ランニングシュートのステップなど、本当に優しく丁寧にです。あの初めてランニングシュートのステップを覚えた時の感覚は忘れられません。

空中でパスを受け取って、右足で降りる、そして左足で蹴ってジャンプをしてボールをリングへ投げるという感覚です。そのときは右足は膝が持ち上がっています。
それができるようになると走りながらボールを受け取って、右、左と二歩だけ運んでシュートを打つことができるようになるのです。

そう考えると、先輩には感謝しなければなりませんねえ。
上手くなるにつれて、そのことを忘れてしまいます。

しかし、今となっては、恩返しもできません。

ただ、自分がそのようにしてもらって有難かったと思うなら、同じように後輩にしてやることが恩返しだろうなあと思いました。それ以外に感謝の気持ちを表すことができません。

だから、結果的にはずいぶん多くの人に、私も教えてきました。その教え方も、後輩ができるまでいろいろ工夫して、やりました。

極端な例を言えば、「シュートは手で打つんじゃなく腰で打て」などということまで言いました。ロングシュートなどは手で打つだけじゃ届きません。足腰のばねを生かして打つのです。これは、バスケットの経験者でないと分からないかもしれませんね。
腕を伸ばして、スナップをかけて、中指で狙って、などと言いながら、やって見せて、させてみて、褒めてやって、ですね。その良かった時のイメージを掴ませて、そのイメージを忘れない内に繰り返し練習させてという感じです。

私は、教え方を学んだのは、ここからかもしれません。絵の指導でも、良くなるまで何度でもやらせるのです。バスケットのシュートを教えるのと変わらないですね。シュートは入らなければなりません。結果が直ぐに出ます。絵は、展覧会に出して初めて入選か落選かの結果が出ます。時間がかかります。しかし、絵の場合は答えがたくさんあります。行ってみればバスケットのリングより的が大きいです。

だから、バスケットほど、制約はありません。バスケットは少しでも狂えば、入りませんからね。絵の方が楽です。

しかし、入らないときになぜだろうと考えて、工夫をします。原因を探ります。このことは、なぜ県展に入らないのだろうと考えることと共通するのです。研究心でしょうか。私の指導力と研究心はこうしたバスケットでの経験が生かされているのだろうと思います。


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バスケットの思い出7

2009-11-30 | 思い出
統合中学になって、私がレギュラーになったということまで、お話しました。

ここで、一つ学んだことがあります。
我々の児玉中学の先輩たちが小さくなってしまったと書きました。そのことがどういうことだったのかと考えると、いろいろなことが出て来ます。それは、5つの中学が集まったら、そこの力関係が出てくるということです。元のままなら威張っていられた先輩たちも、他の中学の様子を見ないと、バスケット部でどのようにふるまったらよいのかわからないということです。まして、一番強いのが共和中でしたから、必然的に共和中が主導権を握ることになるでしょう。しかし、その共和中の雰囲気が全く児玉とは違うのです。児玉は軍隊みたいでした。よくある運動部の上下関係がしっかり確立されていました。しかし、共和中はそれが全くないのです。まるで、兄弟みたいに先輩を「~ちゃん」などと呼んでいます。
それでいて強いのですから、部活もそのようになっていきます。児玉の先輩たちも戸惑ったでしょう。児玉は「~先輩」と呼ばなければなりません。いくら遠くにいても「~先輩、こんにちはーーー」というのが普通でしたから、それが全く違います。だから、それを続けていると、他の中学から笑われることになりました。
それで、できなくなったのです。先輩たちもそのようなことをさせることができません。部活の中で、主導権が握れないのです。そのようなことも原因でしょうか。それと、自分たちが試合に出られず、下級生の二人がレギュラーになってしまったことも原因でしょうか。とにかく練習にもあまり出てこなくなってしまいました。

確かに、自分がその立場だったら、そうかもしれないなあと思います。先輩としての立場がないですよね。

しかし、同時に問題になったのは、その鬼のような存在がいなくなったこともあって、部活に緊張感がなくなり、練習がたるんでしまったということでした。やはり先輩を「~ちゃん」などと呼んでいては、練習もあまくなりますね。
その時、副キャプテンのKさんがこれではいけないと言い始めました。統合中学になったために出て来た仲よしクラブ的な雰囲気は、お互いの様子を見るためにみんな警戒して、嫌われないようにしていたのですが、その時点からKさんが急に怖くなりました。
それまでは、「~ちゃん」で済んでいたのですが、ある時期から「Kさん」に変わりました。部活はやはり誰か怖い存在がいないとピリッとしないというのです。それは、その通りでした。そして、そのKさんが実は自分のキャラクターとしてはあまり向かないかもしれないと思いつつ、怖い先輩になってくれたのです。私は有難いと思いました。
そのことは、このKさんに教えてもらいました。

これは、教員になってからも生きています。全員が怖い先生ではいけないのですが、学年のスタッフを見た時に、このメンバーなら自分が怖い存在にならないといけないなあと判断して、敢えて嫌われ役を演じることがありました。

それは、集団の中での自分の役割ということです。

そのことを、私はこのK先輩から教えてもらったのです。

部活はこんなことも勉強できるのですね。机の上ではできない勉強でした。

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バスケットの思い出6

2009-11-29 | 思い出
試合の話ばかりになりそうなので、少し横道にそれます。

私の子どもの時は、巨人の星で育ったと書きました。

それは、スポーツ根性ものでした。しかし、理由は分かりませんが、それは人の見ていないところで、地道な努力を続けるということを教えてくれました。どうなのでしょうか。そういう漫画でしたか?小さい時から父親の夢を子どもに託して、子どもは自分の意思にかかわらず、親の夢を叶えるために頑張るという話ですよね。どこに隠れたところで努力するという話があるのでしょうか。

しかし、私はそう受け取って、人が見ていなくても自分の夢のために頑張るという姿にあこがれていました。だから、私は本当に良く練習をしたと思います。現役当時も先生方が美談にするほど、私は見えないところで練習する人でした。いや、実際は見えるところです。学校のリングを使ってのシュート練習ですから。

そして、いつでも思っていたのは、どこかで誰かが見ていてくれるという気持ちでした。このことは、絵を始めてもずっと貫いている感覚です。絵も人が見ていないところで努力して、ある日突然パッと凄いところを見せるというものですから、バスケットの隠れた練習と似たところがありますね。

とにかく、練習の休みの日でも、私は一人で練習していました。だから、上手くなるはずですね。そして、いま思うのは、それを考えた時、結構練習の休みの日があったのだなということです。日曜日と言えば練習試合をするのが当たり前かと思いますが、結構日曜日をやすんでいたのかもしれないのです。

その自主練習に同級生を誘ったこともありましたが、なかなか乗ってこなくて、私は一人でやっていることが多かったです。ただ、少し救われたのは、サッカー部が私と同じように自主練習をやっている子が多かったことです。やはり、県大会で優勝するようなチームはその辺から違いますね。

その頃から、サッカー部は5年連続県大会優勝という成績を上げたのです。

私が先輩を追い抜いてレギュラーになったのは、言ってみれば、陰で練習したその練習量の差でもあったと思います。とにかく、言われてする練習ではなく、自分からやる練習が好きでした。それは、練習が終わってからの練習もそうでした。下級生にフォローをさせて、真っ暗になった外コートでシュート練習をしました。付き合わされる下級生もかわいそうでしたが、私はそういうことが好きでした。その頃のボールは外用で、ゴムボールでした。しかも白いボールでした。私は時には石灰を付けてやったこともありました。暗くなっても見えるかなと思ったのです。

私がレギュラーになって、先輩たちと一緒に試合に出るようになったころ、統合中学になったのですが、ある時期に先輩たちがみんな練習に出てこなくなった時期がありました。あれは、なんだったのでしょうか。よくわかりません。しかし、先生も忙しくて、なかなか出てこないので、不思議なことですが、私たちは新2年生だけで練習していました。その指示は私が出しました。練習メニューはほとんど私が決めていました。

そして、ある時期、私は先生に言いました。「先輩たちが練習に出てこないなら、試合は2年生だけで行きましょう」と言ったのです。その事を考えると、二年生の二人がレギュラーになるのもわかるでしょう。だから、最終的には共和の先輩二人と金屋の先輩と我々下級生の二人がレギュラーになったのだと思います。

その頃、先輩たちは何かあったのかなという気もしないではありません。それが何なのかは、全く分かりませんでした。

私は、真面目なバスケット選手だったなあと思います。一人で練習していてもきっと誰かが見ていてくれると思っていました。テレビじゃないですが、どこかで私を見ていてくれるという期待でしょうか。いつかはこの努力が実る時が来るということかもしれません。ヨーロッパなら、キリストか神様が見ていると思うかもしれませんね。
また、テレビの実況中継のような解説付きの場面を想定して、自分で実況しながら試合をシミュレーションしていたこともありました。もちろん声は出しませんが。そのような感じで一人練習をするのが好きでした。



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