絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 19

2013-05-25 | 思い出
高校時代の思い出を書いてたら、今日同窓会の知らせが届きました。
卒業して、40年が経ちました。ということで同窓会をしましょうということらしいです。こういう機会でないと、とても会うことができない人がいるでしょう。
なので、出てみようかなと思います。

しかし、クラスではなく、学年全部ですから、すごい人数になるかなと思います。
高校時代の自分がどうであったかを振り返りながら書いているので、そこで再会した人たちが、自分のことをどのように見ていたかなどもわかるかもしれません。

そう考えると、美術部の仲間にも会ってみたいなと思いました。
特に、下級生も含めて再会できたら楽しいだろうなあと思います。

美術部の下級生たちは、私にかなりの好印象を持ってくれて、私はまるでスターのような扱いを受けました。私が二年の後半から美術部に行くようになったので、初めは部員という感覚ではなく、お客さん的な位置づけでした。ゲストというものは、大切に扱われるものですからね。

私が最もいい気分だったのは、下級生の男子の面倒を見ていて、それを女子が見学している状態です。私の勘違いかもしれませんが、みんなが憧れの視線を向けてくれたような気がしました。

私は、バスケット部のキャプテンをしていましたが、二年の二学期から美術部に顔を出すようになり、バスケット部を辞めました。進路を考えてデッサンを始めたからです。
このことは、「私が絵の道に入るまで」という文章で、このブログに以前載せました。

私はこのころ、器用貧乏という言葉を意識するようになりました。
自分の進路を考えたとき、一体何をすればいいのか?わかりませんでした。
数学が好きでしたが、そうは言っても学校で一番でもない。将棋が強いと言っても、プロになるほどではない。バスケットの選手としては、身長が低すぎる。172センチでしたが、成長が止まっていました
もし、バスケット部がもっと強くて、激しい練習をするチームだったら、最後までやって、体育の先生を目指したかもしれませんが、そういうチーム状況ではありませんでした。なぜなら、二年生になった私は、下級生に私が教える状態でした。これでは強くなりません。指導者がいないのです。

結局、一つ残った絵の道を選ぶことになるのですが、それは、一つのカルチャーショックがあったのです。

私が尊敬する古川先生がいたことも原因です。
古川先生は、私の父の絵の師匠ですから、私の家にもよくいらっしゃいました。実は私の家が古川先生の家の隣なのです。私が中学二年の時に先生が引っ越してきました。

あるとき、先生が我が家に来て、父と絵の話をしていました。
そのときに、私は先生に自分が描いた石膏デッサンを見せました。
私は、美術部でもないのに、水彩画を描いたり、石膏デッサンを自宅でしたりする子供でした。それは、父が美術の先生だったのでその影響です。

そのときに、先生は私のデッサンを見るやいなや、「形は違うけど、結構描けるな」と言いました。私は、驚きました。石膏像を見て、デッサンを見て、見比べてからならわかります。しかし、先生は石膏を見もしないで、形が違うけどと言ったのです。これが驚きでした。父にしても、父の友達にしても、見比べてから、いろいろ言ってくれます。そこが違いました。すごい先生だとは聞いていたけど、そうなのかとショックを受けました。
私は、美術部でもないのに、県展に入選したとお話ししました。それは、古川先生が入選させてくれたのだと思います。しかし、高校生の頭では、自分の力だと思ってしまいました。自分はすごいんだと得意になっていました。だから、このとき見せたデッサンも、すごいとほめられるかと思っていたのです。
実に甘かったですね。そして更にカルチャーショックが襲います。
一度、美術部に見学に来てみろという先生の言葉に誘われて、行ったところ、そこにあった石膏デッサンが、すさまじいレベルでした。
西洋の有名な画家のデッサンかと思うようなすごいデッサンが、それは美術部の先輩が描いたものだと知ったからです。
ええええーーーーと思いました。

私は、絵が上手いとうぬぼれていました。美術部でもないのに県展に入選したということが、自慢でしたし誇りでした。

ところが、自分よりすごい人がいたのです。
それで、美術室でデッサンをさせてもらうことになりました。
すると、尚更ショックが増しました。飾ってあるデッサンどころか、美術部の同級生のデッサンにも適わないのです。

あれーーー、俺はデッサンが下手なんだという現実でした。
上手いつもりでいた私は、決定的な挫折を味わいます。

もし、このショックが無かったら、私は考えが甘いまま過ぎていたでしょう。
なぜなら、バスケットをやりながら、大学は美大に行こうという考えもあったからです。

しかし、そんなことをしていては、とても駄目だと思い知らされたのです。

つづく













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高校時代の思い出 18

2013-05-21 | 思い出
高校時代の思い出を17まで書いて、中断していました。

17でやめて余韻を持たせて想像してもらう方がいいかなという気持ちもあり、
また、高校時代の友達が読んでくれたら、何か反応があるかなとも思ったりして、
ストップしていましたが、ふと思い出して、これを先に書こうと思うことがありました。

二年生の時の話です。
制服自由化運動です。我々の時代は、どこの学校でも制服自由化の気運が高まっていました。
実は、その何年か前から、そういう運動はありました。しかし、大抵盛り上がらず消えていました。

それが、どういう気運か?また再燃したのです。

少し前の人たちは、制服を自由にしようと運動を起こしても、みんな知らん顔で無関心でした。
それは、そんなことをしても変わらないよという気持ちもあったのでしょう。
しかし、男子の帽子を被るという点においては、ほとんどの生徒が守っていませんでした。
そして、先生たちも帽子を被れとはいいませんでした。

これは暗黙の了解で、被らなくても良いことになっていました。

しかしよく考えると、制服をきちんと着るということは、帽子も含めてなのです。

生徒は校則を守らず、先生もそれを注意しない。これはおかしいことでした。

そこで、ある時代は、校門に生徒会と応援団が立ち、登校する生徒に「帽子を被れ、なぜ被らない」ということを
問いただす行動に出たそうです。

もし被るのが嫌なら、それをきちんと学校側に認めさせて、校則を変えるべきだと訴えたのです。

それは、校則やそれを変える運動に無関心な生徒に関心を持たせる行動だったようです。
しかし、それでも運動の気運は盛り上がりませんでした。

だから我々の時代は、なぜそれが盛り上がったのか不思議です。
理由は何だったのでしょうか。

私の想像では、この盛り上がりは本庄高校だけでなく、ほかの学校でも盛り上がっていたという状況があったからという
気がしています。また、先生たちにも制服は自由でいいじゃないかという議論があったのだと思います。

活動している私たちは、腹の中では、以前と同じように「これは運動に過ぎない、おそらく通らないだろう。」と思っていました。

ただ、一つだけ思ったのは、俺たちは無関心じゃない、無気力じゃない、無責任じゃないと叫びたかったのです。
いわゆる、三無主義という言葉に対する反発でした。

この時代に生きてる若者として、きちんと自分たちの意志を表示したかったのです。

私にとっては、その議論そのものが戦われること自体が意味のあることでした。
だから、やっている最中、反対意見が出たときには、私は嬉しそうな顔をしました。
友達から、「菅野は一体どっちの意見なんだ?」と問われました。
私はクラスの中での意見交換の中では、常に議長をしていました。誰から言われたのでもなく、クラス会議のときに自主的に議長をかってでたのです。
もちろん、制服自由か運動を展開しているのですから、自由化賛成派ではあります。しかし、議長なら立場上反対意見も大切に取り上げなければなりません。少数意見も尊重することが必要です。だから、誤解を受けたこともありましたが、議論そのものが重要に考えていました。

時には、授業担当の先生に申し出て、議論したいので授業をいただけませんかとお願いしました。
先生もそれを許可しました。そのかわり、後ろで見させてくれと言いました。

私は、先生の意見も求めました。
すると、ある先生から、「君たちの言っている制服自由化とは?」と問われました。

私たちは、「今着ている学生服は軍服の延長で、経済的に貧しかったときは一年中着ていられる便利なものだったけれど、もうそういう時代ではないと思う」と言いました。貧しくて着る服が買えない時代ではなくなったという表明でもあるという意見です。それに、外国から来た人から見ると、日本は随分と警官が多いのですねと言われるそうです。学生服を着ている人はみんな警察官だと勘違いされるらしいのです。
そう考えると、女子はセーラー服です。なぜ、水兵さんなの?という感じです。
本庄高校はセーラー服でした。

すると、先生は「制服制度の廃止なのか?それとも何を着ても制服だと考えるのか?」と問われました。
私は、それにはちょっと戸惑いました。私は何を着てもいいという状態を作りたいので、今ある学生服を着たい人は着ても構わないし、普段着の状態で来ても構わないという状態を作りたかったのです。

ただ、制度の廃止と言うと、反対派は反発がありました。「俺は制服が好きだ」というのです。廃止というときには、もう学生服は着てはいけないというニュアンスが付きまといました。
しかし、よく考えると、自由というのは曖昧です。

と言いつつ、その方がみんなの意見をまとめやすかったのかもしれません。
我々は自由を求めているんだという方が、一つになりやすかったのです。
結局、中身は制服制度の廃止だったのでしょう。今まで学生服と言っていたものが制服ではなくなったのですから。
学生服も私服になったわけです。

先生たちの出した結論は、生徒の意見を尊重するというものでした。しかし、校章は胸に付けるようにという条件が出されました。
だから、セーターで登校する場合は、セーターに校章をつけるということになりました。
ということは、一々着かえる度に付け替える必要があります。

ーーーーーーーーーーー

しかし、我々の要求は通ってしまいました。何度も生徒総会が行われ、各学年の意見がまとめられ、卒業していく三年生は自分たちには関係ないのに、前向きに議論して賛成してくれました。二年生が一番の中心のわけで、我々が一番重要な議論がなされたと思います。
一年生は、とにかくもう着たくないんだという乱暴なわがままのような意見でした。

そして、三学期にお試し期間が設けられ、自由にしたら、ファッションショーのようなことになるんじゃないかとか、乱れた服装になるんじゃないかという反対派の心配がどうなるかを見る期間が設けられました。

その辺は、「私たちのモラルを見てください」ということでした。
何も規制はしませんでした。

ただ考えが足りなかったかなと思うのは、その後、自由になった状態で入学してくる次世代の生徒たちがどうであるか、どう考えて行動するかまでは、考えが及びませんでした。

しかし、それは、その時代の生徒たちが考えるべきことではありますが。

ーーーーーーーーーーーーーー

制服が自由ということは、外見では本庄高校の生徒であることがわからなくなることです。
それをいいことに、大人のふりをして煙草を吸ったり、パチンコに入ったりするなどのことも起こりそうです。
また、制服を着ることで、高校生だと見られて、社会から守られていたということも知る必要があります。
それがなくなるのだから、一般社会人と同じようにみられることの責任も必要になってきます。

しかし、女子は相変わらず、セーラー服を買わされているようです。
そのあたりは、学校側で決めたようです。
本庄高校に入学できたという誇り、象徴でしょうか。買わなければいけないのか、自由なのかわかりません。
ただ、相変わらず、本庄高校にセーラー服姿が見られます。

他の学校も、この波に乗り、自由化が実現しましたが、その後、また制服に戻されたところもあります。
その学校の状況はわかりませんが、自由には責任が伴います。自由にした弊害が大きすぎたのでしょうか。
規制はしなかったとは言え、本庄高校でも半纏で登校して叱られた生徒がいました。モラルということを考えなけばならないでしょう。

私はときどき、学生服も着ていきました。運動の先端にいたとは言っても、学生服は嫌いではありません。何を着てもいいという状態を実現したかったのですから、理屈は通っています。

つづく

























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高校時代の思い出 17

2013-05-01 | 思い出
高校に入って、私は今までの自分とは違うキャラクターを演じるということをやったとお話ししました。
それは、それでとても面白いことでした。

とにかく、面白いことを言って、みんなを笑わせるということ。
それは、一つの快感でした。
それまでの自分にはできないことでしたから。

また、もう一つは、その笑いとつながることですが、馬鹿なふりをしました。
これも今までできないことでした。
私はバスケット部のキャプテンでしたし、父親が自分の中学の先生でした。
小学校のころからの友達がたくさんいたので、私のキャラクターは変えられませんでした。

高校に入って初めて、誰も知らない世界に位置付けられたのです。

もちろん、本庄高校に合格できたのですから、ある程度学力があることは、誰もが想像できました。
ただ、それでも、自分は間違って合格してしまったんだというようなふりをするのが楽しいことでした。

そのために、みんなが安心して私に近づいてくれました。
気楽に自分の同類として考えてくれたのです。

しかし、実は一人だけ、それを見抜いている人がいました。
いや、おそらく気づいているだろうと私が想像するだけですが、
実は、そこに私の狙いもあったのです。

何だと思いますか?

それは、一人のかわいい女の子でした。
私はその子に、中学時代に出会っています。

英検の時でした。私は中学三年のとき、英語検定3級を受けるため美里中学に行きました。
その会場が美里中学だったのです。そのとき、私の右の側の二つ後ろの席にその子がいました。
私は、廊下から数えて三列目の後ろから三番目、その子は二列目の一番後ろです。

なぜ、その子に気づいたのかというと、テスト監督の先生がその子に話しかけたからです。
そして、その先生は、私に気づいて話しかけました。その子と私を先生が知っていたのです。

その子は、美里中学の子で、先生も美里中学の先生ですから、知っているのは当たり前です。
また、私は父親がその先生と顔見知りでした。その先生は私の名前を見て、もしかしてと思ったのです。
「君は、あの菅野先生の家の子か?」という声をかけたのです。私はもちろんその先生を知りませんが、父親の知り合いでは、いい顔をしなければなりません。とても気持ちよく、しかしやや照れながら、「はい」と答えた気がします。


その後、父親がらみの話をいくらかされたと思いますが、試験の前なので、先生も多くを話しているわけにはいかず、
そのくらいで済みました。ただ、そのときに、私はその先生が話しかけた女の子の方を向いたため、その子に気づきました。

そして、衝撃を受けました。なんとこの世のものとも思えないほど美しい女の子でした。
驚きました。世の中にこんなにきれいな子がいるんだと思いました。
私は一目で、興味を持ちました。

しかし、検定試験の前です。その子に興味を持っている場合ではありません。
また、興味を持ったとしても、どうなるものでもなく、ここだけの出会いです。
ただ単に、英検で出会っただけ、それっきりの関係ーーーー  のはずでした。

ところが、私は筆記試験に合格し、二次試験で前橋女子高校に行きましたが、その時に再びその子に会いました。

本来ならしらばっくれていてもいいのですが、私は児玉中学の女の子と一緒でした。
一緒にいた子は、卒業後熊谷女子高校へ行った才女です。

その才女がその子に気づき、話し始めたのです。「あの時の美里中学の子だよね」という話からです。
私はほとんど、しらばっくれていましたが、そうは言っても全く話さない訳にはいかず、いくらか話したかもしれません。
ただ、あまり話した内容は、覚えていないのです。

それと、やはりその場だけの関係であるはずだと思っていたので、適当でいいのです。
深入りすると、私はその子への興味がどんどん湧き起っていくかもしれません。だからなるべく関わらないようにという感じでした。
それよりも、実は気になっていたのは、一緒に行った才女が、またなかなか魅力的な子なので、二人だけでいることに緊張したり、
帰りは夜になって、同じ電車の中で知り合いがその子だけですから、一応は私が連れ合いということなので、緊張していることがばれないように、平静を装うことに必死でした。夜の八高線で、二人で並んで座っていることにどきどきしていました。
普段生意気な私でも、こういう場面ではからっきし臆病でしたね。

ーーーーーーーー
そんなことがあって、しかし、そんなことは全く忘れてしまって、高校に入学した私ですから、そこで、再会したときは、思いっきり驚きました。

高校に入ってみて、まさか、その子とまた出会うなんて、想像すらしないことでした。
しかも、同じクラスになったのです。

えええーーー、まさかの坂ですよね。

そのため、私は英検の3級の二次試験まで行ったということをその子が知っているのです。
いくら、お馬鹿のキャラクターを演じても、その子だけは、私が英語ができることを知っていた訳です。

つづく

















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高校時代の思い出 16

2013-04-30 | 思い出
どこの学校にも名物先生と言われる人がいるようですが、本庄高校の一番の名物先生は
体育のT先生でした。この先生は、本庄高校出身です。だから自分の母校で教員をやっているわけです。
バレー部の顧問でもありました。だからI君の顧問です。

見た目は、まるでやくざのようです。常に肩をいからせて歩く先生でした。
そして、学校の中の悪そうな連中でもこの先生の前だけは、小さくなっていました。

応援団の顧問もしていて、そのメンバーは結構危ない感じの生徒が多かったのですが、そのメンバーでさえ子分のようでした。

「俺はなあ、高校時代は体育の授業のときなんか、ほとんど独り舞台だった。サッカーをやれば、一人でボールを持って相手を全員抜いて、一人でシュート決めていたんだ。すごいだろ!」というような感じの話をしていました。
だから、お前たちなんか相手にならないというのです。

私は笑って聞いていましたが、確かに運動神経はいいんだろうなあと思いました。

ーーーーーーーーーー
あるとき、ソフトボールの試合が本庄高校で行われました。
私は、たぶん自習だったのだと思いますが、友達3人くらいで、サッカーボールで遊んでいました。
それは、ソフトボールの試合をしている外野でした。

まあ、これだけ離れていれば、邪魔にはならないだろうと思って、やっていました。

すると、そのやくざみたいなT先生が、授業を終えて通りかかりました。
そして、我々を見つけて、「おい、何をやってるんだ」と言いました。
いきなり、叱りつけるような言い方です。

私はやや興奮して、「ボールリフティングです」と答えました。

「そんなところで、やっていたら邪魔だろう」と先生は言いました。
その言い方と権幕が激しかったので、私も強く「邪魔していません」と答えました。

実は、これを言うのは、大変な勇気でした。そんなことをこの先生に向っていう生徒はいません。
みんなこの先生の前では小さくなっているのです。すぐに「はい、わかりました」というのが普通でした。

しかし、私はこの先生に一回逆らってみたかったのです。
みんなが小さくなってへいこらしているのが、見ていて嫌だったのです。


そうしたら、先生は「なにいーー」と言って、「ちょっと、こっちにこい」と言いました。
先生にしても、そんな生徒はいないだろうと思っていたのでしょう。俺に逆らうなんてと。
それで、呼びつけて「もう一度言ってみろ」と言いました。
私はやや震えながら、「じゃましてません」と言ったのです。
だから、大変です。
「このやろう、体育教官室へ来い」と言われました。

この先生は、殴ることで有名でした。私は覚悟を決めました。これは、やられるなと。

そして、体育教官室へ行きました。私は教官室の入口の前に立たされ、その先生から散々罵倒されました。

「ここは、本庄なんだよ、児玉の山じゃないんだ。ソフトの試合をやってるんだよ、あんなところでボール遊びなんかしていたら、迷惑なんだよ。第一、失礼だ。児玉の山なら地面が少ないから許されるかもしれないが、ここはそんな山じゃないんだよ」と。

穏やかに言えば、その通りなのかもしれません。しかし、その言い方がまるで凄みを利かせたやくざっぽい言い方なのです。
それで、言われて頭にきました。試合をしている審判でもじゃまだから退いてくれと言わないのに、なんで?とも思いましたし、
先生のその児玉を馬鹿にした言い方がまた気に食わなかったのです。

しかし、私はすごみに圧倒されて、言い返すことができませんでした。
ただ、納得がいかないので、はいとも言えず、不服そうな顔をしていました。

最後は、「わかりました、すみませんでした」と言わされました。そう言わないと終わりそうもなかったからです。

ただ、これで、T先生は児玉全員を敵に回したなと思いました。

ーーーーーーーー
私は同じ体育館で、練習をしています。バスケット部とバレー部だからです。だからその後もこの先生と常に顔を合わせました。
児玉のことまで話に出たのは、そこまで私を知っていたからです。

私は、I君たちバレー部の選手の前を通った時、「へへえ、怒られちゃったよ」と伝えました。そうしたら、その先生も近くにいたのです。
私が落ち込むことなく、そういう態度でいたので、先生は私に好感を持ったようです。

実は、後日談ですが、私の担任のK先生に「あいつは、いい奴だね」と言ったそうです。
自分が思ったことを思ったように、誰に対しても臆することなく言える勇気、まさか自分に対してあんな逆らい方をするなんてということなんでしょう。そして、怒られた後の態度も含めてです。落ち込むことなく、悪びれることなくという面を見ていたからです。
私はその後、その先生となかよくなります。

合宿の時このT先生は、合宿所で生徒と将棋をしていました。何人も負かして、俺はお前らなんかに負けないと例の如く、得意になっていました。そのため、「じゃあ先生やりますか?」と私が名乗り出たら、「お前なんか相手にならない」と勝負をする前から言いました。

そして、やったところ、私が勝ってしまいました。
先生は、「あれ?お前強いな」と言って、もう1回と言いました。それでもう1回やったら、また私が勝ちました。
こりゃあ、大変だと思った先生は、さらにもう1回と言いました。すこしむきになってきたのです。
しかし、また私が勝ちました。
それで、とうとう私の強さを認めました。みんなの前で、馬鹿にしていた先生が、私の前で面目丸つぶれになりました。
しかし、強いことを認めて、また今度挑戦させてくれと言いました。

その後、会うたびに、「また将棋やろうな」というのです。

私は児玉を馬鹿にされた復讐を将棋でしたのでした。

このT先生は、私が三年になる前に、転勤していきました。その挨拶で、誰に対しても自分の思ったことを堂々と言えるようでなければならないという話をしました。先生が怖くて、言いたいことがあっても言えない軟弱な奴が多いという意味を含んでいました。
私はその挨拶を聞いて、あのとき、逆らったことを思い出していました。勝手な解釈ですが、まるで、先生が私に対してそれでいいんだと言ってくれているように感じました。

つづく










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高校時代の思い出 15

2013-04-28 | 思い出
高校一年の思い出の一つに、将棋があります。

部活としても将棋部があったのですが、もちろん私はバスケット部ですから入れません。
しかし、休み時間になると将棋を指している人がいました。
たった、10分の休み時間に一局指してしまうのです。
それは、すごい早指しでした。

最初は、私も見ているだけでしたが、横から笑っていると、そんな馬鹿にしたように笑っていないで、お前やってみろと言われました。
よした方がいいよ、私は強いよと言ってやりました。
バスケット部のお前なんかに負けないよと言っていたのは、将棋部のS君でした。
しかし、やってみたら私の方が強かったです。

実は、私は中学時代、同級生にものすごく強い友達がいて、そいつにコテンパンにやっつけられました。
私は悔しくて、その友達の家に通いました。日曜ごとでしたが、行くと必ず3局はやりました。
しかし、何回やっても勝てません。私は負けず嫌いでしたから、バスケットの経験でもお話しした通り、同級生を相手にしていませんでした。
何をやっても負けるなどということはなかったのです。しかし、この将棋の経験は衝撃的でした。

結局、16連敗します。しかし、めげずによく通ったものです。中学3年の後半は、この将棋に明け暮れました。
というのは、熊谷高校へは行かないと決めてからは、勉強しなくも大丈夫などと、なめてかかりました。
それで勉強より将棋だったのです。

16連敗と書いたのは、その後、1回勝ったからです。
それは、相手が負けてくれました。
その友達は、無二の親友になるのですが、私が棒銀で攻めていったら、角と交換してくれたのです。
普通は、そんなことをしないのが、セオリーです。悪くても銀と銀を交換するのです。
しかし、彼は、言い訳をしませんでした。勝った時はすべての手が良い手に見えるからなあと言いました。
自分は、それでよいと思って指したのだけれど、結果が負けだったというだけだと。

かっこいいですね。男ですね。
わざと、ハンデを与えたんだとは、言いません。
すごいやつだと思いました。

その後も、また15連敗位するのですが、私もただ負けていた訳ではありません。
NHKの将棋講座を見たり、本屋へ行って、将棋世界という本を買ってきて読んだりして、研究をしました。
そして、負けは負けでも、かなり僅差になって行ったのです。
受験間際の一週間は、一応将棋を休もうと言って、その友達の家に行きましたが、将棋を指しませんでした。

しかし、そのお蔭で、私は将棋がかなり強くなりました。
おそらく初段くらいの力はあったと思います。

だから、友達の将棋を笑って見ていたのは、あながち冷やかしではなかったのです。

ーーーーーーーーー
私は、高校一年のこの時期、学校の中では、おそらく強い方の何人かの中にいたと思います。
自慢できる思い出は、将棋部の部長さんに勝ってしまったことです。
その部長さんは、指してみて驚いて、もう一局お願いしますと言いました。
そして、もう一度指したら、今度は私が負けました。
一勝一敗で、別れましたが、決着をつけないまま、その後やりませんでした。

私はクラスでは、馬鹿を演じていましたが、私が馬鹿じゃないと思われる材料がこんなところにもありました。

将棋部のS君は、後日談があります。
実は、大学が一緒でした。そして彼は大学でも将棋部に入るのです。
生協祭りというのがあって、そこで将棋大会が開かれていました。
その大会は、3人一組で戦う形式です。二勝した方が勝ちとなります。
そのS君は、チームメイトと決勝まで勝ち上がりました。
決勝の相手は、同じ将棋部のチームでした。

それは、そうですね。他の人がチームを組んでも、大学の将棋部には勝てません。
その時です。S君が私を見つけると、「菅野、代わってくれ」と言いました。
その相手というのは、毎日のように将棋部で戦っている人なのですが、勝ったことがないのだそうです。
とても自分には勝てないから、代わりに指してくれと私に頼んだのです。

「そんな正式な大会の決勝に代わりに出たりしていいの?」と私は聞きました。
そうしたら構わないというのです。どちらが勝っても身内なので、いいというのです。
それで、「じゃあ負けても知らないよ」と言いながら、やりました。

そして、指していたら、私の両脇が早く終わって、一勝一敗でした。
ということは、私が勝つか負けるかで、優勝か準優勝かが決まるのです。
参ったなあと思いました。しかし、やるしかありません。
そして、最後は私が勝ちました。
すると、S君は、「やったー、さすが菅野」と言いながら、優勝の商品である一升瓶を持って、どこかへ行ってしまいました。
私は、お酒が飲めないので、それは構わないのですが、終わってから相手の人たちと感想戦をやりました。
見ていた人が言いました。「最初から手つきを見て強いと思ったよ」と。
「銀を上げるとき、金にぶつけて滑らすように指したでしょ、その時に、もうこれはただ者じゃないと感じた」と言われました。

さすが将棋部ですね。そんなところで、強さがわかるなんて。

そのS君は、もうこの世にいません。児玉郡の中学の教員になりましたが、病気で死んでしまいました。
私は、告別式に行きましたが、大学の友達は来ていませんでした。

そのS君が、高校1年からの将棋の友達なのです。

高校二年生になったとき、私は同級生で将棋が強いと思われる11人を選び出し、リーグ戦を行いました。
そして、私は全勝して、優勝しました。その時は、私の将棋の先生ともいうべき、A君にも勝ちました。
だから、私は高校二年の時は、学年で一番強かった時期があるということです。

これも、後日談になりますが、私はもうA君にも負ける気がしなくなりました。
なぜなら、私は将棋連盟から3段の力があると認められたのです。
免状は取りませんでしたが、認定されました。
だから、もう負けないと思いました。

それで、A君に、「もう負けないよ」と言いました。
そして、指してみました。そうしたら、また負かされました。
私は、A君は一体何段の力があるのだろうと、思いました。
もう負けないよと言ったのは、わざとです。なぜなら、そういえば、彼が本気を出すだろうと思ったからです。
高校二年生の時は勝ちました。その後も勝ったり負けたりを繰り返すくらいになりました。
だから、もう力は五分五分と思っていました。そして、その後、私は3段を取ったので、もう負けないと思ったのです。
しかし、さにあらずでした。

将棋の思い出は、まだまだ他にもありますが、それはまたその時。

つづく
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