絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

仏画、観音像

2009-07-31 | 絵のこと
観音様を描きました。

これは、5年前のことです。
上里町の安盛寺というお寺さんが建てられて400年に当たるということで、その企画として、襖絵を頼まれました。

私は頼まれたとき、「自分は洋画家なので、観音様は描けません」とお断りしていたのですが、本当に何度も頼まれて、こう言っては申し訳ないですが、しかたなく描くことになりました。
というのは、頼まれた住職さんが、私の学校の元校長先生だったので、やりもしないでできないというのは、いけないかなと思い、とりあえず、やってみてできませんでしたという方がいいのかなと判断し、始めてみました。

同僚の先生も、無理なお願いをされたのだから、断ればいいじゃないですかと言ってくれる人もいました。

ーーーーーーーーー

しかし、一枚やってみたら、これでいいと言われてしまったのです。

それで、やらざるを得なくなりました。

ーーーーーーーーーー

初めての墨絵、初めての観音様、私は描いていて、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井壁画のことを考えていました。

ミケランジェロも初め断ったのです。自分は彫刻家だから絵は描けないと。
だから、フレスコ画の技法を学ぶためにテクニックを習得するまで、専門家を呼んで学びながら描いたと言われています。(ノアの洪水の部分はその人たちとの共同制作です)

宗教は違いますがお寺さんから頼まれて描いたという点では同じことかと思い、ミケランジェロの気持もわかるなあなんて、考えながら描きました。
ミケランジェロの大変さと比べたら、私の大変さなんて何百分の一かもしれません。なにしろあちらは天井ですからね。そして、規模がまるで違う。

ーーーーーーーーーーーー


ただ、私の大変さは、足の障害でした。
もう、足がかなり悪くなっていましたので、たかが、160センチの画面が全てに手が届きません。

下の方を描くときは、床に座り込んで、中間を描くときは椅子に座って、上の方を描くときは、椅子を3つ積んで、その上にやっとの思いで、上がり込んでという具合です。

墨絵は、立てて描くと、すぐに紙に染み込まないので、すこし垂れます。
塗ったところの一番下に墨が溜まります。それを注意して筆で取り除かないとそこだけ濃くなってしまします。

だから、絵を床に置いて、寝かせて描けばいいかなと考えましたが、そうすると筆の着地点まで行きつく間に、垂れる心配があります。水彩や油絵なら垂れても修正は簡単ですが、墨は消えません。しかたなく立てて描き続けることにしました。
私にとって、これは泣くような辛さでした。上がったり降りたり、離れて見ないと全体の状態が確認できないから、その動くことがなんとも大変で、---
しかし、ミケランジェロはどうやって全体をみたのでしょう??
そんなことを考えていました。

墨は黒くした後は、明るく戻せません。木炭の石膏デッサンなら暗くしてから練ゴムで抜けば白くなるし明るく戻せますが、墨はだめなのです。ということは、薄く塗って重ねていくしかありません。
しかし、塗れているときと乾いた時で感じが違います。それで塗るたびに乾いたらどうなるかを調べ、状況を見ながら確認して進めるという作業になりました。

ーーーーーーーーーーーーーーー

私の観音様の絵は、いろいろなお寺さんにある観音像の写真を見て描いたものです。普通、観音像というのは線描きで、平面的なものが多いようです。インドや中国へ行くとお土産に売っているのが、一般的な観音像ですが、見せてもらったら、そのようになっていました。
しかし、私は洋画家なので、石膏デッサンをするように観音像を描きました。このように立体感のある観音像は、少ないと聞きました。

実は、最初に描いたものは、線描きでした。しかし、どうも詰らないので、自分なりに石膏デッサンをするように描いて、二つを持って行ったら、この方が良いと住職さんがおっしゃったのです。それで、このパターンになりました。

ーーーーーーーー

完成まで、4か月くらいだったと思います。(ミケランジェロは4年です)

描いていて、思ったのは、進める内に自分が上手くなっていくことでした。やり方がわかると、上手になるのです。
そこで、思ったのは、この作品は8点でセットなのだから、上手さも統一されなくてはならないということでした。だから、あまり上手くなってはいけないということで、他の下手さに統一する必要を感じました。変な考えです。

また、描いているうちに、もっと工夫したくなるんですね。観音様を一枚に一つではなく、複数描いてみたいとか、造形的に工夫して、画面一杯にいろいろな向きの顔を描いたり、構成したりと ーーーーー やってみたくなったのです。しかし、相談したところ、一枚に一つというパターンでやってほしいと言われました。
そのため、そのような工夫も断念して、とにかくセットでみせるパターンで完成させました。

ただ、終わってみて、感じたのは、頼まれた枚数が終わると突然かけなくなりました。実は、全部で10枚描いたのです。本当は、もっと描いて良いものから8枚を選ぼうと考えていたのです。
最初に描いたものは、紙が違うので、没にしました。それで9枚目に描いたものを採用しました。しかし、その後、10枚目が上手くいきません。疲れてしまったのか、それとも創作意欲が欠けてしまったのか、どうしても気が入らないのです。

これは、私が観音様を描くことをもうやめてもいいよと観音様が言っているのかなと思いました。(笑)

そんな状況で、この襖絵が完成しました。

いま、安盛寺へ行くと、いつでもこの絵が見られます。もし、ご覧になりたい方は、高崎線の神保原駅前の安盛寺へ、出かけてください。

尚、この襖絵の裏には、同僚の高橋先生が書いた観音経が書かれています。


ーーーーーーーーー

描いて思ったことは、そうだ、お寺さんの襖絵だから、多くの人に見てもらえるなあということです。よく考えたらこの先、何百年も見てもらえる。そう考えたら、200年先の人たちがこの絵を見てどう思うかなあなんて考えました。そうしたら、その人たちと会話をしているような気になりました。
ミケランジェロが描いて、500年くらい経っている今日、私たちが見ているのですからね。ちょっと、面白いですよね。

私は、安盛寺の住職さん(元校長先生)には、大変な恩があるので、いやいややったなんて言ったら、罰が当たります。しかし、できないと思っていたので、初めは断ったのです。
しかし、いま思うと、お願いされて良かったなあと感じています。そうでなければこれは出来ませんでした。自分の意志でこれだけの物はとてもやれません。そういう意味では、やらせていただいたことに感謝しています。

もし、少しでも、恩がえしになるならという気持ちもありました。














コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デッサンの思い出

2009-07-30 | 思い出
高校時代の話をします。

私は、デッサンが下手でした。
美大受験には、デッサンが必要で、そのためには適当な取り組みでは済まない事を知り、専門に勉強をしなければならないということで、美術室でデッサンをやらせてもらうことになりました。

美術部に入るつもりもなく、デッサンだけをやりに通いましたが、いつの間にか美術部員の扱いを受けるようになり、卒業の時は、立派な美術部員になっていました。

しかし、デッサンというのは、なんでこんなに難しいのだろうとつくづく思いました。上手くならないまま、一年半が経過して、受験を迎えてしまいました。
卒業した先輩にデッサンを見てもらったとき、先輩がこう言いました。

「菅野君、デッサンは枚数だからたくさん描けば上手くなるのよ、頑張ってね」

でした。

おいおい、本当かよ、たくさん描いたって上手くなりそうもないぞ、下手な私を慰めようと思って、言ってくれたのかなとその時は思いました。

そのくらい、下手でした。

しかし、私はよく嫌にならなかったなあと思います。いや、嫌になったのです。だから、いつもだらだらしていました。本気になってなかったのです。
言いかえれば、甘かった。

本気になれば、もっとやり方があったはずです。バスケットならこんなときどうするということを経験していたのに、それをしませんでした。絵は違うと思っていたのです。

ですから、誰かが言った、「描けない人の気持は、描ける人にはわからない」というのも、そのとき経験しました。

しかし、そんな私でも、やはり、上手くなりたいのです。それにはどうすればいいのか、本気で悩みました。
描いては、美術室の後ろの壁に貼ってある卒業生のデッサンと比べて、勝負をしていました。今度はどうだと思って持って行くのですが、やはり、どうにも比べものになりません。同じ人間が描いたのに、どうしてこんなに違うのか。

天才画家が描いたのなら負けてもしょうがないと思いますが、身近にいる一つか二つ上の先輩が描いたのですから、俺にだって描けないわけがないと思いました。でもダメでした。

そうして、二年間が過ぎました。私は、同級生と比べても下手で、人生の中で、こんなに負けたまま屈辱感でいたことはありません。それまでの私は何をやっても誰にも負ける気がしないほど、いろいろな面で成長が早かったのです。

だから、よく我慢したなあと思います。

ーーーーーーーーーー

それが、突如として上手くなります。それは、予備校へ冬季講習に通ったときでした。いままで、悶々としていたことが一気に爆発するかのように、やり方がわかったのです。
これは、目から鱗というのでしょうか。

初心者コースでしたが、コンクールで一位になりました。
予備校の一位ですから、ちょっとうれしかったですよ。

でも、考えてみると、ぜんぜんダメなのに、我慢した二年半があったから、この爆発があったのです。
岡本太郎の爆発とは違うかもしれませんが、私の爆発はこのように現れました。

じっと我慢していると、いつかこの爆発がやってくるという経験をしました。
駄目だと思っていたことが、駄目じゃなかった、それまでの上手くいかない日々の経験がそれまでバラバラだったのが、全部つながったような感じでした。
だから、予備校へ行けば上手くなるのではないのです。それまでの経験がつながったのが、このときだったのです。

私は、先生から意外なことを言われました。
「お前は、今までの美術部員の中では、二番目に上手い」と。
「ただ、一人だけその上にいるけどな」
ということでした。

一番ダメな私が、この美術部の歴史の中で二番だとは、思いもかけない言葉に、有頂天になったのは、言うまでもありません。


デッサンは枚数です。先輩が言ってくれた言葉は、本当でした。
本気で描いて、たくさん描けば必ず上手になります。
だから、騙されたと思ってやってみてほしいですね。
はやく、上手くなるには、環境が大切です。
それについては、ピカソがライバルで書きました。興味のある方は、ご覧になってください。








コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部屋の片づけ

2009-07-30 | 日記
今日は、部屋の片づけをしていただきました。

私は、身障者なので、自分で物を運んで片付けることができません。
そのため、毎週1回、ヘルパーさんに部屋の掃除をしてもらっています。

しかし、通常の掃除では一週間に一回なので、本格的な片付けをするところまでいきません。そこで、特別に時間を作ってもらって、今日はやっていただきました。

ーーーーーーーー

私の部屋は二階ですが、階段リフトを使って毎日上がったり下りたりしています。
その二階の部屋にあるものが、多すぎて溢れています。片づけないと、車いすの動きが取れない状態になってしまいます。(車いすは、二階に一台、一階に一台、外用1台と3台使っています)

本当に、他の人がなんでもなくできることができないので、悔しくてなりません。

ホームセンターで、プラスチックの箱を買ってきて、それに7箱分くらい整理しました。特に多いのは、アルバムや本やビデオテープやファイルでした。
今日は、VHSのテープを200本くらい捨てたでしょうか。もうDVDの時代ですからね。

ヘルパーさんは、来てくれましたが、一人では重い物が持てないだろうと考えて、特別に若い男の人も頼みました。いつも私の家に絵の勉強に来ている人です。

そんな人に支えられて、漸くすっきりさせることができました。
部屋が片付くということは、気持がいいことですね。

ーーーーーーーー
二階の私の部屋を片付けることは、その荷物を運ぶ場所が必要です。
それは、私専用の物置があります。そこへ運ぶのですが、まず、そこから整理しないといけないのです。入れるために空ける必要があります。
いままで、取っておいたもので、捨ててもいいものがないか考えて、できるだけ思い切って捨てることに徹しました。そうでないと、増える一方なのです。
誰か、もらってくれる人がいれば、あげたいなあと思うものもたくさんありました。英会話のカセットとテキストとか。一年分揃っているのです。

しかし、捨てるしかないかなと思って、捨てました。
ゆかっこという焼却場があるので、そこまで、ワゴン車で二回往復して捨ててきました。二階からの物で捨てるものと、物置にあったもので捨てるものを合わせたら、二回分になってしまったのです。


ーーーーーーーーーーーー

ヘルパーさんは、一時間半と決まっていて、時間で帰りましたが、助手をしてくれた絵の生徒さんは、そのゆかっこまで二回付き合ってくれました。とても助かりました。

ヘルパーさんがありがたかったのは、以前同じことをしていただいた方がまた、きてくださったことでした。
前回このようにしたということを把握してくださっていて、今回はこうしましょうとアドバイスをしてくれたからです。また、その方も掃除の時に時々来てくださる方なので、物置の中の状態まで把握してもらっているのは、有難いと思いました。
なぜなら、私が車いすで、物置までいけないからです。

今日は、私の物置をビデオで撮影してもらって、行けない私に中の様子を見せてくれました。本当に気持ちよく、整理していただきました。ありがとうございました。

汗だくで、一生懸命やっていただきました。感謝感謝です。
お昼を御馳走したいくらいなのですが、規則でそれはできません。
なにか、あげたいと思ってもそれもできません。本当に申し訳なく思いました。
せめて、ここで、お礼を申し上げて、ご容赦いただきたいと思います。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵は才能????

2009-07-30 | 絵のこと
絵は才能だからという言葉をよく耳にします。

それは、どうしてでしょう。??

私はどうもその言葉が引っ掛かります。

その才能と言って片づけるのは、諦めですか?と問いたいです。

そうやって、自分は絵に向いてないということを自分に言い聞かせて、片づけているのではないですか。

ーーーーーーーーーー

私は才能だとは思わないのです。もしそれを才能だというなら、他のことはどうなのでしょうか。
私は、中学時代バスケットボールをやってきました。練習すれば上手くなりました。才能だからいくらやってもうまくならないとは思いませんでした。
スポーツの場合は、才能が云々されるのは、プロになれるかどうかというようなレベルのときではないでしょうか。

なのに、絵の場合はどうして?初めから才能だと言われるかと不思議に思うのです。絵で食べていけるかどうかという問題なら、才能がないとだめだよというかもしれません。それは、売れる絵を描けるかどうかの才能ですけどね。

話が逸れないように、結論をいいますが、絵も練習すればだれでも上手くなるのです。ピアノの練習やその他のお稽古と同様に、スポーツと同じです。

ーーーーーーーーーーーー
しかし、こう言っても、そうかなあという人が多いのはどうしてでしょうね。
絵を描くということは、本当に特別の才能がないとできないと思う理由は何なのでしょうか。

ーーーーーーーーーーーー
視覚的問題だからでしょうか。
そして、その見える物を再現するという技術がすぐには上達しないからでしょうか。
私は、その意味では、ピアノにはバイエルがあるのでいいなあと思います。
あれは、本当に素人でもゆっくりやれば、一歩づつ進めて行けて、必ずあるところまでは弾けるようになりますね。

ところが、絵にはバイエルがない。

私はその絵のバイエルを作ってやろうかなと考えています。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

そうすれば、人は誰でも絵がうまく描けるようになるということを実感してもらえるかなあと思うのです。
この考えは、どこかの誰かが考えたことがあるのではないでしょうか。

ただ、画家は面倒でそんなことに時間をかけたくないという人がほとんどでしょうね。本音を言えば、私もやるのが面倒です。

だから、誰かやってくれませんかという感じです。

でも、美大を出たような人なら、誰でも作れるものなんですけどね。
上手に、誰にでもやりやすいものを作るということで、研究を重ねてやるとなると大変ですが、企業がお金を出して、アルバイトの学生を使ってやれば、簡単にできると思います。

ーーーーーーーー

今日は、このアイディアを無料で提供します。

どうぞ、その気になった美術関係者の方、やってみてください。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モナリザが動くとき

2009-07-29 | 美術
モナリザがルーブル美術館から出たのは、何回でしょう?

答えは、3回です。

1回は、アメリカ、もう一回は、なんと日本、あと一回は?

答え、  泥棒が盗んだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1911年ルーブルのガラス職人、ペルージャ(イタリア人)が盗みました。

大変な騒ぎになりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ペルージャは、二年間それを隠していて、フィレンツェの画商に売りさばこうとして捕まりました。

その後、どうなったと思いますか??


ペルージャは、イタリア国民から大喝采を受けました。

なぜなら、「ナポレオンが盗んだモナリザを取り戻してきた」と言ったからです。


泥棒をしたのに、お咎めなしどころか、拍手喝采ですから、信じられませんね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
因みに、ナポレオンが盗んだというのは嘘です。レオナルドはフランスで亡くなりました。そのとき、本人がフランスに持っていったのです。しかし、ペルージャはナポレオンが盗んだと思っていたようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

結局、モナリザは、二年ぶりにルーブルに戻されました。

しかし、です。

果たして、戻されたモナリザは本物でしょうか???

という問題は残ります。

鑑定は、ルーブル美術館の館長が行いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

モナリザが隠されていた間、精巧な複製画が作られて、たくさん裏で売買がおこなわれたのではないかという噂もあります。
戻された絵が本物かどうか、それも心配です。

裏話ですが、ルーブルにも精巧な複製画があって、時々架け替えるなどという冗談みたいな話があるのです。ということは、私たちはわざわざパリのルーブル美術館まで行って、もしかしたら偽物を見て帰ってきたかもしれないのです。

そんなバカなですよね。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

モナリザの誘拐という番組がありましたが、大体これですべてです。
3時間くらいかけて面白おかしくやってくれた番組を簡単にお話しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
今日のタイトルは、モナリザが動くときという題にしましたが、それは、
アメリカに動いた時、モナリザを紹介したのが、ケネディ大統領でした。
その後、すぐ、ケネディは暗殺されました。

モナリザが、日本に来たとき、フランスのポンピドー大統領が急死しました。

それで、モナリザが動くとき、世界が動くといわれました。

モナリザは、動かしてはいけないと誰かが言いました。

それ以降、モナリザは、ルーブルを出ていません。もう出さないだろうとも言われています。

日本はラッキーでしたね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

モナリザについてのこの話は、菅野の美術史「レオナルドダビンチ」でお話しています。
ーーーーーーーーーーーーー

追加知識

1、ペルージャという名前を覚えるには、サッカーの中田選手がイタリアへ行ったときの、チームがペルージャでした。それとひっかけて覚えると覚えやすいです。

2、ペルージャは、単独犯ではなく、命じた人がいたのです。

3、モナリザを隠していたのは、フィレンツェのホテルでした。
  いまでは、「ホテルジョコンダ」として有名になっています。

  モナリザのモデルがジョコンダ婦人だと言われているため、その名前になっています。

4、モナリザが日本に来るときの、飛行機は、もし墜落してもモナリザが壊れないような梱包がされていたといわれています。専用の特別便で、関係者だけが乗って運んだそうです。国賓級ですね。

5、日本では、上野の国立博物館で展示されました。
  上野駅の公園口から国立博物館まで長ーい行列ができました。
  立ち止まらないでくださいとアナウンスされ、一人30秒の出会いと言われました。横眼で歩きながら見るような感じだったそうです。私は行きませんでした。
  でも、ルーブル美術館に7回行きましたから、時間をかけてじっくり見てきました。それが、本物でありますようにという感じですね。

6、参考資料

-------------------------

昨日の、クイズの答えです。

1、レオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ

2、ギリシャ、ローマ

3、フィレンツェ

4、モネの「印象、日の出」

5、黒い絵

6、写真

7、ルイ ルロア

8、豚の膀胱

9、チューブ絵の具

10、ルーアンの大聖堂

どうですか、できましたか?また挑戦してください。









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする