絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

視点の統一

2009-11-24 | 美術
具象と抽象の違いを考えているわけですが、抽象には出てこない問題の一つとして、視点ということがあります。

これは、透視図法ということで多くのみなさんがご存知のはずです。しかし、展覧会で批評を求められたときに、お話しすると知らないで描いている人があまりに多いので驚きます。

これは、ルネッサンスの時に、ブルネルスキーなどが発明したと言われますが、

 「水平な面の上にある平行線は地平線上のある1点で交わる」ということです。

それが、画面の中央に来る時、1点透視と言います。少しでも左右にずれると、それは2点透視になります。
普通は、それで良いのですが、見上げたときや見下ろした時は上下に集まるので、左右と合わせて3点透視と言います。普通は4点が全て見える場合はありません。(例外は、凸レンズのような表現をするならあり得ます。)


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透視図法を正しく使って描いていることが良いとは一概に言えません。しかし、それを知った上で描くのと、知らないで描くのとでは大きな違いが出て来ます。

まず、知っていると、写真に近い表現ができます。要するに見えるとおりに近い、上手な絵が描けます。そして、利点は、世界が統一して安定した大地を感じさせることができるということです。

このことは、逆を言えば、それを知らないで、間違って描くと、台地が不安定になったり、建物が水平に立たなくなったり、いろいろなものがぎくしゃくして、直方体のものが、台形の形になったり、歪んだりしてしまうということになります。

それでも良ければそれで構いませんが、その点を指摘すると、実は、きちんと描きたいのだけれど描けないのだという人が多いです。だから、それなら透視図法を一度頭に入れて、視点の統一を覚えてくださいとお話しします。

このことは、抽象画では出てこない問題です。

余談ですが、高校生に教えていると、この透視図法がきちんと描けないために、抽象に逃げる生徒がいます。抽象ならそんな面倒なことは言われないで済むと考えるようです。それは、逃げですよね。
よくわかっていて、描けるけど、自分は抽象をやりたいのだということであってほしいです。

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一応ここまで、抑えて、では、という話になりますが、透視図法を正しく使うか使わないかは本人の自由です。

使えば、古典技法のようなしっかりした安定した絵になります。言いかえると写真のような上手な絵になります。そういう絵を望むなら、しっかりそれに則ってください。

もし、使わないなら、透視が狂っていますねと言われないような使い方をしてください。分かっているけれど、敢えて透視図法通りには描かないのですと言えるような絵です。作者が自分で言うのではありません。絵がそのように語るのです。

絵を見ると、明らかに分かっているけど、使わないで描いたのだと分かるものがあります。それは、それで良いのです。狂っているからそこが不安定でおかしいねと判断された場合は、失敗です。

人物画などでは、かなり人物が良く描けているのに、床が平らで落ちてしまっているなどという絵があります。原因は透視を知らないためです。

キリコの絵のように、明らかに透視の狂いを利用してそのために出てくる違和感を出そうとしている絵なら、狂っているとは言いません。また、わざと平面的に見せるために透視を無視する場合があります。その場合は、それ以外の物も平面的に見せる工夫をしています。

そこは、その技法をどのように利用するかという問題で、それも作者の意図によります。さじ加減という問題でもあるでしょう。

とりあえず、抽象では出てこない、透視図法に関係するお話をしました。





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絵画と写真

2009-11-24 | 美術
リアルさの統一という話をしました。

それを考えていた時、そうだ、写真との違いも考えるといいと思いました。
どこかをリアルに描いたら、それに合わせてリアルさを統一する必要が出てくる。しかし、写真のような統一では味気ない。絵は主役と脇役を設定することで、画家の表現したいものを強調することができる。そのさじ加減は画家の自由だ。そう考えると、写真ではできない操作が絵画にはある。

リアルさの統一とは、世界を統一することなのですが、それは、言いたいことを一つに絞ることでもあります。一つの絵であれもこれもとたくさんのことを言うと、結局は何が言いたいのかわからない絵になる。それは、群衆ががやがや騒いでいて、だれの声も伝わってこないのと同じです。やはり、誰かがしゃべったら、その話を静かに聞かないとなにもわからないでしょう。そういう意味で、絵は世界を統一する必要があるのです。

だから、詳しく言えば、全員が同じリアルさではだめなのです。それで、生かす殺すということが出て来ます。主役を目立たせて、脇役を殺す必要性です。

その生かす殺すは、リアルさという方法でもできるということを言いたいのです。
私は、それは、それ以前の構成の問題でよく話していますが。

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リアルさについては、とりあえずこのくらいにして、次は、空間ということをかんがえてみましょう。

これも空間の統一と言って話すのが良いでしょう。

どうも一つの空間になっていないので、落ち着かないねと言うことがあります。
一つの絵の中に、別の世界があるのです。それも、意図的にやったのなら、それが良いと思えれば成功の場合もあります。シャガールのように、わざとやっている場合がありますが、それは、そのように理解できるので、あまり気になりません。しかし、本人が気付かずに別世界ができてしまった場合は、違和感に感じることがあります。それは、考えた方が良いでしょう。

それが、いいねと思える場合は、そのままでも構いませんが、大抵の場合は、そこがおかしいねとなります。(これは、形が狂っているのか、デホルメなのかということと同じです。)

その世界が統一されていないケースで、最も多いのが、光の問題です。影の方向が違うことです。時間と共に変化する太陽の角度。これを忘れて描いているからなのです。また、静物画でも光源に幅があるからだと思いますが、方向が曖昧なものが多く、そのために影の方向がいろいろで、どうも統一した空間になりません。

別の言葉で言うと、同じ空気の中にあるように描くことが必要でしょうね。というアドバイスが多く出て来ます。

とりあえず、世界を一つにまとめること。これはリアルさの統一と空間の統一ということで、話しました。しかし、それは作者の意図があるので、それを統一したうえで、どこをどのくらい強調していくかというさじ加減の問題が出て来て、そこが写真との違いだというお話をしました。

まだ、まだ、ありそうです。


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具象と抽象について

2009-11-24 | 美術
写実と象徴について考えたので、具象と抽象についても話して置かないと、混乱する人がいるのではないかと心配になりました。

具象絵画とは、具体的に意味のわかるものを描いた絵画です。それに対して、抽象絵画とは、何が描いてあるのか具体的にはわからない絵画のことです。

そう言って分からなければ、抽象絵画とは、色と形の模様だと思えば良いでしょう。具体的に、人間が描いてあるとか、木が描いてあるとか、意味で分かるものが描いてあれば具象絵画です。

よろしいですか?

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そうなると、いままで話してきた写実はもちろん具象ですし、象徴も具象です。
何が描いてあるかわかるからです。

実は、私が写実と象徴という区別で語っている時に、聞いている人が、写実を具象という意味で聞いていないかと心配になったのです。それで、このことをお話ししておこうと思いました。
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全ての絵画は、具象か抽象かという区分けで考えることができます。それはわかりますよね。何が描いてあるかわかるか、わからないかのどちらかですと言っているのと同じですから。

その時に、その中間があるのです。それを反具象という場合があります。非具象という場合は、ほとんど抽象を言っていることが多いでしょう。
私は、中間の物は、半分具象だから「半具象」でいいんじゃないかなと思ったりします。

だから、絵を見る場合、完全に具象だなと言ったり、やや抽象がかっているねと言ったり、完全抽象だねといったりして、区分して話します。

ただし、絵の良さを考えるときは、造形的に見たら良いとか悪いとか言う場合が多くて、その場合には、抽象的に見ます。抽象的に見ると言うのは、造形要素でみるのです。

例えば、調和が取れているとか、バランスが良いとか、リズムが良いとか、アクセントがきいているとか言います。これらが、造形要素です。


造形要素で絵を見るときは、具象であっても、意味を取り払ってみるのです。それによって、絵のレベルがわかります。ただ、そのレベルは形と色では、別個に考えられると思います。
だから形については、なかなかレベルが高いけれど、色のレベルがどうかなあという場合があります。

私はこのように考えています。

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また、すこし別の話をしますが、

私は、抽象絵画の方が、時代的に新しいので、抽象絵画の方が進んでいると考えてきました。しかし、よく考えると、抽象的に見ることはどの絵画にも当てはまるけれど、具象絵画の問題は、抽象的に見ただけでは扱えない部分があることに改めて気付きました。

それは、これまで当たり前のように、話していることなのですが、その問題は抽象絵画では扱えません。

例えば、リアルさの統一です。リアルさのバランスという場合もあるでしょうか。
リアルさの扱いと言った方が良いでしょうか。全体をどのくらいリアルに描くか?

具体例を上げれば、
主役のリアルさと背景のリアルさの違いという場合が出て来ます。主役を目立たせるために、背景を飛ばす。その飛ばし方のさじ加減ということです。

一部をあまりに上手に描いてしまったので、他もそれに合わせてリアルに描かないとバランスがおかしいということが出て来ます。

これは、私がいままで指導していて、いくらでも出てきた問題です。そして、そのように指導してきました。例えば、Sさんの絵の指導で、左上の布があまりに上手に描けてしまったので、他の下手さと合わないということがありましたね。だからその布を下手に戻すか、他をもっと上手に描かないといけないと話しました。

そのような問題は、抽象絵画を指導している場合には出て来ません。

だから、指導という観点で考えると、具象の方が要素が多いかなと思いました。
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そう考えると、まだまだありそうです。
また、考えながら書いてみます。
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象徴主義について

2009-11-24 | 美術
夕べ、寝ながら、考えてみました。

写実に対して、象徴ということがあるなら、写実以外はほとんど象徴じゃないかな?と。

見たものをそのまま写そうとすることが写実で、背景にあるテーマを見える物を使って表そうとすることが象徴だとすると、絵は、ほとんどそれで語りつくせるのかな?と考えてみました。

例えば、レオナルドのモナリザも、ただジョコンダ夫人を描いたのだと言えば、写実ですが、ダビンチコードのような解釈で、実はマグダラのマリアを描いたのだと言えば、象徴でしょう。もう一つ考えると、あの女性を描くことによって、女性の美というイデアを描いたのだと言えば、象徴でしょうね。

目に見えないものを、或るものに託して見える形にすると考えるなら、象徴ですからね。

どうでしょうか?私の象徴という捉え方は、これでよいのでしょうか。

象徴というと、私は天皇陛下を思い浮かべます。天皇は日本国民の象徴であるという言葉です。これは、天皇こそ日本人である。日本人の代表であるという感じですよね。日本人とは?と問われた時、天皇陛下を見てくださいと言えばいいんですよね。

そうなると、典型的な日本人という意味でしょうか。

象徴という言葉が、そのような意味なら、絵画の象徴主義とは?
例えば、女性の美しさはモナリザを見てくださいと言えたら、モナリザという絵は、女性の美しさを象徴していると言えるのかなと思います。

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美術史的に見ると、象徴主義は、19世紀の後半にサロンに反発する形で、印象派とほとんど同じ時期に現れた画家たちのことを言うと定義されるのでしょう。
しかし、それを外して考えた時、どの絵に対しても写実か象徴かと考えることができるなあと思いました。

なぜなら、いろいろ調べると、ゴーギャンも象徴主義であると書いてある物もあるのです。ゴーギャンは後期印象派として区分するのが普通です。ただ、ゴーギャンのやったことは、写実ではありません。だから、内側に目には見えない思想があって、それを表そうとしたと考えれば、象徴主義になるわけです。たとえば、「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」というテーマの絵があります。それなどは、哲学の存在論です。人生とは何なのか?この世は何なのか?と問いかける絵です。

ゴーギャンは、印象派について、ただ写しているだけだと批判したそうです。絵の中に思想がないと批判したのです。

セザンヌも、モネを単に目にすぎないと言っています。

だから、印象派はどちらかと分類すれば写実なんですよね。

夕べは、そんなことを考えながら、寝ました。



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