満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

The Wayne Shorter Quartet 『without a net』

2013-11-01 | 新規投稿

 
昔、中上健次の『破壊せよとアイラーは言った』を読んでつまらないと感じたのは私が‘秩序派’だったと言うよりは作家自身の‘破滅ぶり’や‘破天荒’をだらだら書きなぐるその文体に全く共感できず、どうせだったらセリーヌや太宰のように‘破滅ぶり’を文学に昇華させればいいのにと生意気にも感じた私の嫌悪感によるものだったと思う。しかもアルバートアイラーのレコードを初めて聴いてその‘統制されたカオスの美しさ’に感動するに及び私は「このミュージシャンは‘破壊せよ’なんて言ってへんやないか」と感じた事を記憶している。そんな事を最近、思い出したのは毒舌で人気の作家(哲学者)、適菜収が『B層の研究』の中で、フリージャズの破壊の無意味さを『破壊せよとアイラーは言った』を絡めながら記述しているのを見つけたからであるが、デレクベイリーを持ち上げながら<破壊が‘自由’をもたらすというのは愚かなオプティミズムにすぎません。それどころか破壊はたいていの場合、非常につまらない結果に終わる。近藤等則や阿部薫の底の浅さは、そこに由来すると思います>と断定している。阿部薫の中にも‘歌’を感じ、近藤等則の中に‘ポップ’を感じる私としては安直な物言いだと感じる部分もあるが、言いたい事の核心についての異議はない。

<破壊>は行為であって<結果>ではない。束縛からの解放や自由という概念的なものが実感として音楽による一つの成果だと感じたいのであれば、それを可能にするのは<破壊>の当事者になるか、その行為に自らも‘参加する’瞬間においてのみだろう。その<自由>は一時的なものだし、行為によって<もたらされたもの>という鑑賞の対象としての音楽ではなくなってしまう。音楽は発せられた時点で演奏者の手を離れ自立する。そこに普遍的か否かという価値を持たせる気があるのであれば、それは少なくとも<破壊>に終始するものによっては、それが可能だとは思わない。

‘フリージャズを完全に無視したマイルスデイビスは大人の見識を示した’なる文で、その項を締めた保守主義者、適菜収はその社会や政治分野での‘改革嫌い’‘革新嫌い’を音楽上での小さな出来事をも引用する事で、その主張を補完したのであるが、声高々に改革や維新を叫ぶ馬鹿政治家と情念を振り絞って激越にハチャメチャ演奏に終始するフリージャズ演奏家を<破壊>という同じ愚行を繰り返す共通のものとしてオーバーラップさせたのだろう。

ただし、<自由>というのは確かにジャズにとって一つの命題ではあっただろうとは思う。
即興とは楽理の制約からの自由の行為であり、場合によってはその延長線上に形而上学的な自由を想定する無理矢理な試みもあるだろう。実際、演奏家が自らそのような‘精神的’や‘社会的な’<自由>という大文字のテーマに言及する場合もままある。適菜収なら‘そんな大層なお題目をのたまっている奴ほど<自由>を獲得していない’ってな事になるのかもしれないが。ウェインショーター、マイルスデイビス、ポールモチアン、菊池雅章といった私のフェイバリットは<破壊>ではない言わばリフォーム的解体と再建築による<自由>獲得の道程を切り開いた演奏家と言えようか。

ウェインショーターの『without a net』はDanilo Perez(p)、John Patitucci(b)、Brian Blade(ds)という不動のメンバーを従えたカルテットの新譜。『Footprints Live』(2002)以来、ジャズの未来性を提示してきたように感じられる本家メインストリームジャズの重鎮による創造的ライブ音源である。その音の硬さ、演奏の脅威感覚はジャズフォーマットという古色蒼然とした制約下でいかに自由に演奏するかという狭い門を果敢に潜り抜ける稀有な証明であるかのようだ。テーマからフリーという場面転換のリピートもなければ、完全即興の無秩序もない。あるいはコンポージングによる違和感創出という飛び道具もない。ここまで自然にジャズ本来の生命力を完備したまま、自由度を保ち、鑑賞に耐えうる演奏を残すのはもはや、演奏力の優越という一言ですんでしまう奇跡的なグループだろう。逆にいえばこの形、この方法でしか未来のアコースティックジャズは道がないということか。すごく狭い険しい道である。

2013.11.1

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