満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

          ちあきなおみ   『百花繚乱』      

2008-04-15 | 新規投稿
 
ブログで新譜批評を始めて約1年になるが、その70本程のアルバム評の中に普段、最も聴いている筈のR&B、ソウル、ファンク、ブルースが殆どない事に気づく。なぜ書かないのか。多分、書けないからだ。書く言葉がみつからない。マービンゲイやJB等、肉体的、感情的表現を極めた音楽を聴く時、その感動の言語化を無効にするような感覚に捕らわれる。そんな時、私ごときに一体、何が書けると言うのか。書く行為自体に意味を見出す事がしばしば困難になる。もはや音楽に浸り快楽に酔う、そして感動に泣くという事以外に何もする事などない。しかも私が実感するブラックミュージックの高濃度な感動とはエロスやエモーションが知性と重なり合う事で発揮される優位性に他ならない。感情の放流状態やリズムの快楽指数の中にある構築美、知的空間こそが、聴く者を失語症にさせる本質的な力なのではないか。アレサフランクリンのBOXセットについてずっと書こうと思っているが、ここでも聴く快楽時間が全てに勝り、やはり書けない。ここに流れる音楽時間とはいわば‘瞬間の至高点’なのだ。音楽が終われば、そこに完結があり、後には何も残らず、全ては不要となる。しかも音楽が流れる最中に聴く行為以外の営みが入り込む余地はない。

そんな感慨を抱かせる歌手が日本にもいる。
ちあきなおみを聴く時、私は呆然とするような無の状態に陥る自分を発見する時がある。
卓越した歌唱力をしばしば指摘されるこの歌手はそれ故、プロ中のプロなのだろう。私もそんな歌の上手さに感嘆しているのは間違いない。しかし私の感動とはちあきなおみが多彩な楽曲を引き受けながら苦闘するように挑むその姿そのものに対するものであると言っても良いかもしれない。いわば、人間、ちあきなおみに感動しているのだ。彼女の人生やドラマを想起しながら歌声に打ち震え、歌の物語に同化する感動なのである。

「気持ち悪い歌ですねえ」
かつて「夜へ急ぐ人」を歌い終えたちあきなおみに対し、司会者が言い放った事があった。周囲の批判の中、異能の天才、友川かずきの曲を取り上げる時、ちあきなおみは正に歌う鬼神のようであった。刺すような眼光で髪を振り乱していた。彼女の本領をそこに見る事ができるだろう。ちあきなおみこそが美空ひばりに匹敵するトータル歌手である所以は彼女の歌唱力とその歌を演じきる天才性にこそあるのだから。

「喝采」が流行ったのは私が10才の時。テレビの中で虚空を見つめるような眼差しで歌うちあきなおみを覚えている。誰をも釘付けにするような神秘的なオーラを発していた。その目は霊的なものを求めるかのように彷徨い、歌声は天上に届く祈りのよう。70年代とは実にとんでもないレベルの芸能がお茶の間で観られたものだと思う。
最近、古い紅白歌合戦で船村徹の生ギターをバックに「さだめ川」を歌うちあきなおみの映像を見た。言葉にならない衝撃がある。何なのだ。この歌のすごさというのは。ちあきなおみが歌と一心同体になる瞬間芸がそこにある。歌の意味や登場人物の人生や時代背景を瞬時に裡に咀嚼し、全的表現を遂行する姿。歌う表情や体の動き全てが説得力の塊と化し、研ぎ澄まされていく。

歌神、ちあきなおみは夫の急死(92)を境に事実上の引退状態にある。
今回、最後期の活動期間であるテイチクレコード時代のアルバムが全て復刻リリースされた。『百花繚乱』(91)は現段階のラストアルバム。楽曲を深く理解し、感受するちあきなおみの真骨頂がここでも見られる。その表現力はもはや、編曲者としてクレジットされるべきものではないのか。曲によって表情を変える語り部。歌が生き物のように顕れ、聴く者の眼前に大劇場をつくる。一つ一つの短い曲が壮大なドラマに変容する。

またも歌われる友川かずきナンバー。この「祭りの花を買いに行く」の美しさを昔、「夜へ急ぐ人」を「気持ち悪い歌」と評した司会者はどう聴くのか。2曲にどこに違いがあるのか。同じなのだ。ちあきなおみは歌を選ばない。徹底された歌手とは往々にして自作自演者よりも表現力で勝るものだ。作曲者の内面に歌い手の心が通底するイニシエーションを経過し、現れ出た歌。生命を帯び、真の客観性、力に至る。

小坂明子の「あなた」を歌ったちあきなおみを例に見るまでもなく、私達は歌というものがそれを歌う歌手の力量によって、まるで違うレベルに昇華されるのを見てきている。
小椋佳の作曲による「あなたのための微笑み」に見られる悲劇すれすれの微妙な心の襞、揺れる心境を、絶妙な声の震えによる歌唱トーンを実現するちあきなおみの凄さ。劇的なアレンジを見通し、敢えて部分的にトーンダウンするような歌い方を感じる。悲恋でもないが、成就された愛でもない。そんな不安定の表現を旋律豊かに歌う深み。何ともの悲しく美しい曲なのか。  

ちあきなおみは歌を自己表現と捉えず、歌の中に深く入っていく。いわばそれを媒介する巫女のような存在なのだ。原曲に対する批評観点よりも自らの表現力の振幅を対置する。芸の媒体に対峙する姿勢に一貫性がある。あくまでもそれらは他者なのだ。従ってまず違和感があり、そこへ挺身する精神状態に自身を高めてゆく。ちあきなおみにしかでき得ないパフォーマンスの深みがここに生まれる。CM「タンスにゴン」でのひょうきんクレイジーな芝居もそんな彼女の芸能資質で理解されよう。

アルバム『百花繚乱』に収められた究極のナンバー「ほうずきの町」。
作曲は服部隆之(あの服部良一の孫である)。6年前にリリースされた10枚組CDBOX『うたくらべ』で初めてこの曲を聴いた時、私はこの上ない感動に見舞われた。

「ほうずきの町」

打ち水、簾、竹しょうぎ
風鈴チリリン 宵の風
そぞろ歩いた ほうずき市の
浴衣姿がうれしくて

墨田川あたりでお酒を飲んだわね
ほんのり薄紅色の
私の手を取って歩く
あなたの横顔に 風を感じていた


とてつもない名曲。名唱。
感動。感涙。
しなやかにグルーブされるリズムに乗る美の旋律。穏やかで、たおやかな言葉の流れ。聴いて希望、また聴いて希望。ノスタルジーが現在の自身を投影し、心が満ちてゆく。これは単なるラブソングなのか。
愛に恵まれた人、そうでない人、愛を得た人、失った人。
全ての人の心に吹く暖かい風のような歌。幸も不幸も同一の地平に抱擁する賛美歌。人生を肯定し、諦めさえも軟着陸させ、心静める力が湧き出てくるようだ。
究極の美を表現した歌の神髄がここにある。歌という営みが成し得た一つの奇跡。

歌に生きたちあきなおみの長き沈黙を想う。
実生活では愛に生きる人だったのだろう。夫の死は彼女を打ちのめし、もはや歌う精神状態を彼女から奪ったようだ。そこまで深い愛だった。彼女は様々な愛や物語を歌いながら、現実の夫婦愛を生きた人だった。彼女のパフォーマンスの充実の前提に現実での愛の成就があった。歌は実は彼女の外部に存在したのだ。現実の愛を喪失した時、ちあきなおみはあっさりと歌を捨てたのか。

思わぬ事で結果的にラストアルバムとなっている『百花繚乱』のラストナンバーは「そ・れ・じゃ・ネ」である。
ラストアルバムの最後に偶然、このタイトル曲が座った。宿命を感じざるを得ない。しかし、この曲のさりげなさはどうだ。シティポップ風の軽やかな歌が奏でられる。別れ言葉をさり気なく言って、去ってしまったちあきなおみ。歌う神の化身は静かな伝説となっている。
しかし、私達に残された音源の目映いばかりの光が、広く伝播してゆく事は必然のようにも思われる。それはソウルミュージックのように拡がってゆくかもしれない。

2008.4.15
 
コメント
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