満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

VAN DER GRAAF GENERATOR 『Trisector』

2008-08-05 | 新規投稿

音楽に浸ることで鬱屈した精神に陥ったのか、或いは鬱屈した精神が音楽に浸る事で助長されていたのか。それは今となってはもう解らない。しかし、あの頃、音楽とは‘可能性’そのものだった。例え、その‘可能性’が青春期特有の‘勘違い’の上に成り立つルサンチマンによる妄想であったとしても、音楽の持つ未知の力、魔力は全方位に私を呪縛した。仄暗い生活は音楽によって慰められ、または音楽によって私は仄暗い生活に潜航していた。
外界との対峙という歪んだ図式があり、音楽を聴く事は、‘こちら側’に引き寄せる味方の獲得という儀式であったと思う。私には敵がいた。見えない敵が。従って音楽をめぐる自己愛が進行し、どうしようもない自家中毒に陥っていただろう。しかし、その時期を私は今、貴重な感覚として、自己対象化している。あの青臭い時期に聴いた音楽は素晴らしかった。いや、音楽の聴き方が尊いものだった。音楽とは‘向かい合うもの’という基本スタンスを今尚、持ち続けているのは、当時の習わしに私が従っている継続の証明だろうか。

悪い事に、と言おうか、そんな私の抽象感覚を言葉で補完し、示唆してくれる批評家が嘗て、何人かいた。彼等こそが音楽をめぐる‘可能性’の説教者であった。阿木譲、間章、北村昌士等は果たして音楽評論家だったのだろうか。彼等のある意味、偏った考えは、音楽を契機とする生き方そのものを読者へサジェスチョンし、その言論は彼等自身に向けての矛盾との格闘の記録であったと思う。その姿は真剣であり、従って音楽に対する容赦ない批評となって顕れる。自己の肥大化した観念を音楽に強引に当てはめ、そこに峻別される思想を創造していた。極めて独自的なイデオロギーに満ちた思想を。彼等は音楽の快楽に深化を設定し、その中心へと感覚と魂が向かっていたと思う。従って好みや考え方に厳格性が生まれ、厳格であるが故に度々、音楽に裏切られ、しかし尚も音楽を求めていた。

北村昌士が最大に評価していたのが、ヴァンダーグラーフジェネレーターだ。何せ彼の雑誌名「Fool’s Mate」はヴァンダーグラーフジェネレーターのリーダー、ピーターハミルのソロアルバムのタイトルからとられていた。高一の時、手にしたこの本の衝撃は大きかった。「ジャーマンロック史学」と銘打たれた特集記事もさることながら、その本の内容全体に貫かれたロックを愛する濃さや情熱が迸る誌面そのものに感動していたのだと思う。ユーロロック等、私にとっての未知なアーティストの情報を知り得たという嬉しさ以上に、音楽への熱き想いが伝わってくる誌面全体に対する共感だった。北村昌士は特にヴァンダーグラーフジェネレーターを熱く語っていた。彼の著作「キングクリムゾン 至高の音宇宙を求めて」の中でもヴァンダーグラーフのアルバム評になると、クリムゾンを脇へ置いて、それを凌ぐ価値を記していた事を面白く記憶している。

ヴァンダーグラーフジェネレーターが他のプログレッシブロックと一線を画していたのは、その脱構築的な‘熱さ’故だったであろうか。それは殆どソウルミュージックだった。プログレ特有の様式美を持ってはいたが、それすら解体を前提にしたもので、演奏の危うさが、その緊張感を一層、際立たせていただろう。しかもボーカリスト、ピーターハミルの感情爆発的な発声たるや、あからさまな静と動の振幅の大きさを現し、その劇的なスタイルでバンドカラーを象徴した。

ヴァンダーグラーフジェネレーターの音楽には感動を喚ぶサムシングがある。勿論、楽曲が良い。しかし楽曲以上に感動の基底になっているのが、その演奏性である。決してテクニシャンの集まりではない。しかし、ハミル(vo g)、ヒューバントン(key b)、ガイエバンス(ds)、デビッドジャクソン(sax)の四人は合奏やアレンジの完璧さより優先するものがあったように思える。曲に向かう激情と言うか、独特な入魂の演奏スタイルがあり、その気迫めいたものこそがヴァンダーグラーフジェネレーターの感動の秘訣だった。
「refugees」や「pilgrims」を聴き、手に汗を握った昂揚感を今の音楽に見出すことはなかなか難しい。しかもそれらの曲には今尚、エネルギーに満ちており、決して色褪せることがない。昨今の音楽の‘あっさりした’感じをもう私は掌中に収め、その快楽を日常としている。しかし嘗てヴァンダーグラーフジェネレーターが持ち得た凝縮されたような音楽の味わい深さは何物にも代え難い。旋律に涙し、感動に打ち震える。そんな種類の音楽だった。確かに。

『Ttisector』はグループの復活第2作目。デビッドジャクソン(sax)が抜けており、その経緯を私は知らないが、アルバムの完成度は増している。1曲目「the Hurlyburly」の意外なインスト曲で幕を開け、全編に力がこもる嘗てのヴァンダーグラーフ節に完全に回帰しており、充実した楽曲が並ぶ。大変、聴き応えのあるアルバムだ。発声レベルや演奏の力感が現状維持され、そこに変わらぬ表現の根拠や意志があれば、これほどの力作が還暦も過ぎて尚、創作できるという事か。私はソロで来日したピーターハミルを二度、観ているが、そのソウルシンガーぶりの凄さを目の当たりにすると、表現、永遠なり。と実感するだろう。

音楽的な注目点と言えば、ハミルの数多のソロアルバムには見られない、声に拮抗する楽器パートを再認識する。そう、ヒューバントンだ。ハミルの声がバントンのキーボードに混じる事で生まれるマジックがヴァンダーグラーフジェネレーターの核心にあった。バントンの音の細部に生命を宿すような演奏は詩人ハミルに拮抗し、相乗効果を生んだ。そのマジックがここに再生した。
70年代後半のギターに対する傾倒を長年、修復してきたハミルが今回のバランスは意外にもキーボードの大きな比重となって顕れた。しかしヒューバントンの力量はそれを自然なものとし、
しかも、2008年という今、このキーボードロックという古きフォーマットの意外な斬新さを感じさせてくれる。この演奏は誰にでもやれるものではない。

北村昌士が二年前に49才で亡くなっていた事を私は去年知った.
彼が抜けた「Fool’s Mate」はバカみたいな雑誌に成りはてたが、北村昌士本人も評論家を辞めてイボイボというつまらないバンドで活躍した。私は全く関心外だったが、その‘闘い’のスタンスだけは注視していた。彼はいつだって‘可能性’に対する‘闘い’を生きていた。美狂乱やフレッドフリスをめぐる言動やその支持の仕方にも、そんな姿勢が如実に顕れていたと思う。そして既存のアーティスト達の‘不徹底さ’を垣間見た彼は自らが音を発する事を選び、その醜態をも攻撃的な先鋭さとしたのだろう。
ヴァンダーグラーフジェネレーターの復帰作『present』(05)がリリースされて一年ほど後の北村昌士の死。今回の『Trisector』の方が充実した内容だけに、その死が一層、悔やまれる。いや、もしかしたら『Trisector』の音楽的完成度に彼なら、やや醒めた感想を持ったかも知れない。嘗て北村昌士にとってアーティスト達は自分と伴走する一方的な共闘仲間であった。その思いこみがエネルギーとなり、言語表現に結実した。北村昌士の脱構築的アナーキズムは成熟を拒むような性質があったように思う。言語から音楽への表現のシフトも‘逸脱’を常とするスタンスの顕れだろう。(逃走論者、浅田彰との対談もあった)

しかし当のアーティスト達は、自らの人生を生き、自らの要請に従って演奏していた。私はピーターハミルの長きに渡る多作な活動を思うに、彼にとって表現行為とは業のようなもので、その精神はアンビバレンツながらも、彼の安定したライフスタイルが基底にあるとイメージする。それはもはや、悲痛ではなく、いつでも成熟に接近するものだ。しかもそれは音楽を愛する上で否定要素にはならない。聴き手の側からも。
私はヴァンダーグラーフジェネレーターの復帰と成熟を北村昌士なら拒否したであろうと想起するに至った。

2008.8.5

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