満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

SEUN ANIKULAPO KUTI & EGYPT80 『From Africa with Fury Rise』

2011-08-19 | 新規投稿
 


イギリスの暴徒達はフェイスブックで暴動や略奪の場所を示し合わせているという。メディアは相変わらず失業問題や人種間格差などの社会問題をあげつらっているが、事の本質は彼らの現実に対する不満の沸点や快楽指数の満足度レヴェルの変位なのだと私は感じている。緊縮財政による雇用の悪化、移民同化政策の破綻による秩序の崩壊、それらは確かに‘怒り’の要因に他ならないのだろうが、もはやそういった常態化した不安定要素を‘暴れる’言い訳にできない程の精神的荒廃が今回の乱痴気騒ぎの正体で、フェイスブックとやらを使いこなすくせに学校に行かず仕事もしないというリベラリズムの爛熟期といった事態に於けるイギリスの新人種達は政府の政策いかんを問わず、いつでも暴動に向かう要素を胚胎しているのではないか。更にそんな ‘遊びたい奴ら’を抑えられない警察の治安維持に対する使命感の感覚的弛緩も併せて‘心のメルトダウン’とでも呼びたくなるような荒んだ心象風景が見えてくる。
私は以前、サッチャー改革時のパンクスについて書いた事があった。(ディスチャージのアルバム評だった)(http://blog.goo.ne.jp/stillgoo/m/200812)人頭税導入時のデモ隊に多数のパンクスが入り混じり、車をたたき壊したりする破壊行為で運動を低レヴェル化させる事に‘貢献’していたと書き、そんなパンクスの意義をしかし、社会への反抗や政治性ではなく、むしろ音楽やアートなどを通じた自らの快楽ゾーンの拡大、即ち世間や体制が用意する娯楽ではないオリジナルな創造的遊び場の獲得という重要な改革を果たしたそのD・I・Y精神を賛美したわけだが、今回の暴動はもはや、嘗てのハードコアパンクスが見ても全くアナーキーで理不尽なものに映るのではないか。それは造反有理ならぬ無邪気な遊び感覚による破壊という民主主義のなれの果てか。しかし、デモで2000人もの人々が軍に殺されるシリアの国民が求めているものが、正しくこの‘民主主義’なのだ。それはいつでも劇薬になるという事だろう。

ブライアンイーノがプロデュースにクレジットされたシューン・クティのニューアルバム『From Africa with Fury Rise』はデビュー作であった前作『+FELA’S EGYPT 80』(08)(http://blog.goo.ne.jp/stillgoo/m/200809より、サウンドがカラフル且つ、微妙な音響効果で娯楽性が増したのであるが、おそらくそれを差し引いても、傑作であろう事はシューン・クティのボーカルの深化によって約束されたであろう。ドスの効いたインパクトと言うか全体に連なるボイスの力こそが妙に印象に残り、耳から離れない。シューンクティにとって歌は自らが身を置く環境に関するノンフィクションであり、ボイスは主張の武器である。従って絵空事、物語を書き連ねる客観芸術には無縁の感性がリアリティを持つ眼前の関心事に向かう、そのピンポイントな表現が素晴らしい。‘常態化した不安定要素’と先ほど書いたが、それは本来、先進国ではなく、アフリカの事である。常に戦時、常に貧困、犯罪というもはや国柄は、手の施しようのない現状の循環停滞の時がただ、淡々と流れていく。意識的であればあるほど、虚脱感からもま逃れない現実に対し、能動的に立ち向かうパワーはよほどの強い意志がなければ継続しない。かくしてシューン・クティはメッセンジャーとして立った。デビュー作のシリアスでちょっと裡にこもるようなヘヴィイネスに父、フェラ・クティの開放性とは異質な生真面目さ、悪く言えばエロスの欠如した‘地味アフロビート’を聴いた。そして新作『From Africa with Fury Rise』ははたしてフェラ・クティが舞い降りたかのような陽性を伴ったサウンドの深化を見せたのである。実に楽しい作品となった。楽曲の良さ、豊富なバリエーション、圧倒的な演奏。アフロビートが軽量、クラブ化される昨今、シューン・クティはその王道たる超弩級の音楽を提示した。これを聴くとやはり、フェラ・クティの27枚ボックスセットも買わないといけないかな、という気になってきた。

2011.8.19
  

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