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パンクという拠点  ストラングラーズ (後半)

2020-05-06 | 新規投稿

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『フェライン』

 

ストラングラーズはイギリス、ヨーロッパで大衆性を獲得し得るユーロロックの創造へ向かった。それは1982年発表の『フェライン(feline)』(邦題:黒豹)で頂点を迎える。

当時、私はこのアルバムを熱狂的に受け入れた。『ラ・フォーリー』に続く傑作である。そして私は理解した。ストラングラーズがその音楽性を常に変化させながらも、一貫して保持するソングライティングの重要性の認識を。そして音楽の内側にあるエネルギーの強度への執着はグループを支えてきた原動力になっていたという事を。それはいつでもスタイルの変容を可能とする‘音楽の大きさ’につながるものなのだ。

「golden brown」を継承したアルバム『フェライン』は『ラ・フォーリー』以上の美が支配している。しかも本作では一貫した流れの中で曲が進行するトータル性があり、一種のコンセプトアルバムと言っても良いだろう。

 

一曲目「midnight summer dream」は衝撃的な曲だ。そのインパクトはかつてのオープニングナンバー「I feel like a wog」や「tank」に匹敵するものだ。しかしこの曲は以前のものとは180度異なる作風故、その衝撃度は際立つ筈である。

デイブグリーンフィールドが弾く「midnight summer dream」の大仰なシンフォニックなキーボード。このイントロを聴いて私達はグループが不退転の創作を開始したことを悟るだろう。もはやパンクサウンドへの回帰はあり得ないという最終通告かのようだ。嘗て誰がこのようなストラングラーズのサウンドを予想しただろう。ヒューコーンウェルの語りは曲を第三者的な語り口で歌うナレーションのような客観性がある。ミディアムテンポで進行する夢幻のような曲。後半に登場するJ.Jバーネルの歌はずっと後方から聞こえる。この立体感は素晴らしい。ジェットブラックのドラムは以前に増して明確になり、パルスを感じさせる音色処理がなされている。ジェットの骨太なビートがやはり、このドリームな曲にリアリティーを吹き込んでいるのだ。全くすごい曲である。

続く「it’s a small world」、「ship that pass in the night」もやはり夢のようなムードの中、静かに言葉が綴られるクールな曲だ。ロマンティックでもある。そしてシングルカットされた「the european female」(邦題:「ヨーロッパの女」)はJ.Jバーネルがリードボーカルを務める硬派なバラード。

ソロアルバム『european cometh』からの思想的継続が窺える「the european female」には‘in celebration of’という副題がついており、祝祭のテーマが存在する。それがJ.Jバーネルを通じクールな熱狂の元、静かに歌われる。名曲だ。

 

アルバム『フェライン』のB面は「let’s tango in Paris」、「paradise」、「all roads lead to Roma」、「blue sister」とその曲名、言葉の美しさに魅惑される。何れの曲もやはり、美しいメロディーを持ち、独特の浮遊感と優美さを持っている。前作『ラ・フォーリー』のようなカラフルさはないが、逆にこの『フェライン』には統一されたカラーがある点がアルバムとしての完成度を感じさせる要素になっている。その色を強いて言えば‘black and gold’だろうか。

ストラングラーズはアルバム『フェライン』で黄金の輝きにも似たコンパクトな作品集を創作した。これは独自のユーロロックというジャンルの創始であろう。プログレッシブロックにはない簡潔さを持ちながら、より物語性の強い作品をニュービートの中で構築したのである。

 

「let’s tango in Paris」の優美さ、「paradise」、「never say goodbye」のエキゾチズムはヨーロッパの視点から‘外部の美’を回収するアイデンティティーの発露だろう。「all roads lead to Roma」(全ての道はローマに続く)、「blue sister」、「it’s a small world」はヨーロッパにおける‘大きな物語’の終焉と憧憬、そして更なる復古としてのリアリティーへの志向が感じられる。「blue sister」の緊張感は素晴らしい。この甘美な歌をリアルなスピードの中で構成するクールネスはストラングラーズだけのものだ。ヨーロッパはまだ懐古や鑑賞の対象ではない。ストラングラーズは単純な伝統回帰ではなく、ヨーロッパ的美意識を普遍的な価値基準として再生し、メッセージしているのだ。従ってここには悪しき退廃やムードとしての‘滅びの美’は存在しない。そんな子供じみた表層的なムードメイカーが音楽シーンに多いのも事実だ。ゴシックだの何だのとバカみたいなバンドが当時多くいた。今でもいるが。

 

ストラングラーズは8枚目のアルバム『フェライン』で全く予想不可能な、とんでもない所まできてしまった。そしてその地平は振り返れば誰もいない場所であった。グループは嘗ての外向的攻撃性を潜め、内向性へと変化してきた訳だが、その歩みには一貫した流れがあるのも事実だろう。ストラングラーズの‘怒り’は沈静化したわけではなく、表現方法に於いて成長、進化を継続している訳だ。それはファンと一緒に成長するグループの潔いスタンスでもあるだろう。

しかしこの時期、ストラングラーズは日本のマスコミから消えた。話題性は一気に後退し、以後のストラングラーズの新作発表は忘れられたカルトバンドの年に一回のインフォメーションになった。それも熱狂に覆われた情報ではなく、初期パンクの懐古話に花を咲かせる熱の無さだけがあった。嘗てあれほどの熱狂の中で語られたストラングラーズを現在進行形で捉える視点は日本のジャーナリズムにはなかったのではないか。少なくとも私は正当な論評を読んだ事も聞いた事もない。

しかしグループの実態はこの時期、新たな熱狂と祝祭の中に在ったのだ。ヨーロッパに於いて確実な人気と大衆性を得たストラングラーズはメインストリームとは別の支持領域を築いていたのだ。その事は日本では全く認識されてなかったと言っていいだろう。

 

ストラングラーズがSIS(stranglers information service)を設立したのはアルバム『メニンブラック』の時だろう。あの問題作。音は暗く、ファンに誤解ととまどいを与える事になった異色の作品を創作しながら、グループはこの時期,実は最も強く‘連帯’を欲していたのだ。SISはグループとファンの相互コミュニケーションの一端となり、強い信頼関係へのシステムであった。

ストラングラーズはファンを置き去りにした活動はしない。常にファンを増やし、理解を欲しているタイプのバンドである。ただ、だからと言って判で押したような音楽を続けるわけではない。それではお互いの成長がない。『メニンブラック』は私達の精神を開拓した。‘違和感’と‘驚き’によってこそそれは成される事だろう。

 

第二期ストラングラーズはアルバム『フェライン』で完了する。そこではヨーロッパ美意識の再評価とポップフィールドへの転換があった。それらは政治意識や社会性を内側に含んだ硬質なポピュラーミュージックと言えるだろう。

私達は嘗て第一期ストラングラーズによるアジテーションを受けた。ストラングラーズのスピードと音の明解さ、そして強力なメッセージが起爆剤としての役割を果したのだった。そしてストラングラーズの確信性が『レイブン』、『メニンブラック』でピークになりながらも音楽のスタイルを著しく変化させた事が混乱のきっかけになった。しかしストラングラーズはそんなカオス状態から抜け出るべくニュースタイルを創造した。その成果として『ラ・フォーリー』と『フェライン』がある。それらは私達にとってポストパンクの意義としての‘創造、発展’を啓示する第二の起爆剤と言えるものだ。

ストラングラーズの発展は終わらない。続くアルバムはグループの最高傑作となるだろう。

即ち『フェライン』から2年の歳月を経て発表された『オーラル・スカルプチャー(aural sculpture)』(邦題:音響彫刻)(85)である。

 

 

『オーラル・スカルプチャー』

 

「音響彫刻の創造に忠誠を誓った我々が周囲に増加しつつある音の乱用をこれ以上は容赦できないと言うのなら、それは声を大にすべく時が訪れたのである。

当世の音楽家達に至っては科学者にあらずして科学を用い、芸術家にあらずして芸術を酷使する娼婦であり、詐欺師なのである。我々は今、音楽の崩壊を目撃しつつある。正に。

この世界は聴く耳を、見る目を、そして理解する知性を携えた少数の幸運な人々によってのみ共有され得る音響彫刻の出現を世に告げるべく、その準備を整えておかねばならないのである。

待て。自分には何かが動き始めているのが解る。我々は「彫刻」の誕生を目撃しつつあるのだろうか。この同心の円を描く溝の内側に置いて、今まさに非の打ち所のない受胎が始まろうとしているのだ。聞くがよい。聞こえてはいるか。この誕生のカタルシスを堪え忍ぶのは苦痛ですらある。すでに現れつつある。その煌めく外形よ、その官能的な曲線よ、新生児の忘我の叫びに耳を傾けるがよい。それは次第に強まってお前達の哀れな生命の空白を埋めるべく広がってゆくのだ。

ああ、この無上の喜びよ、ああ、お前達のその耳を愛でる快楽よ。この歴史的瞬間に至るまでお前達はいかにして生き延びてきたというのだ。音楽という名の老い行く生き物の将来に関して、この世界はこれ程の無知に身を委ねつつ、今までどのようにして躊躇し続けてこられたのであろうか。

見よ。今、ストラングラーズはお前達に音響彫刻をもたらすのだ。」

 

                                                                 「音響彫刻」

 

ストラングラーズはアルバム『オーラル・スカルプチャー(aural sculpture)』の内袋に「音響彫刻」という宣言文を六カ国語で表している。日本語でも記述されたこの文章を読んで私はこのグループの孤高のスタンス、特異性を感じた。つまりこれを読んだ1985年に私が感じたのはまず、共鳴ではなく、違和感だったのである。このマニフェストでストラングラーズはポピュラーミュージックシーンの堕落を言い放っている。果たしてそれは適切であるか。80年代半ばと言えばREM、the smithが台頭し、CUREの全ヨーロッパ的人気の定着。そしてアメリカではヒップホップという第2のパンクムーブメントも起こっている。決して空白期ではないというのが客観的な見方であろう。このような情況に対し一方的に堕落を宣言するストラングラーズは正に孤立的であると言わざるを得ない。しかし彼らは一貫して確信性のみを支柱として活動を継続させてきたグループである。私はマジに受けよう。このメッセージを。

デビュー当時から批評性を表現の糧とし、敵性を認識するやいなや総攻撃を展開してきたストラングラーズ。そして

内向的スタンスへと変貌したグループがここにきて同時代音楽への批評を行う。しかしそれは単なる罵倒ではない。

私の理解ではストラングラーズは音楽の身体機能に及ぼす力についての追求とその意識の欠如としての同時代音楽へ

の批判を行ったのである。それは‘音響彫刻’という言葉にも示されているし、アルバムジャケットの巨大な耳の彫

刻、裏ジャケットにあるメンバー4人の耳のレイアウトにも顕われているだろう。

ストラングラーズはアルバム『オーラル・スカルプチャー』で音楽が耳から入って、どのようなエネルギーの生成と

身体メカニズムへの影響、変容があるのかというテーマについて学究的にではなくポップフィールドで構築してみせ

た。これはかつてタンジェリンドリームが初期作品で挑んだテーマや、キングクリムゾン=ロバートフリップがグル

ジェフのワーク理論を援用して確立した音のハート(心)、ヘッド(知)、ヒップ(衝動)への一体化プログラムの理

論と同質のものを想い起こさせる。ストラングラーズは相も変わらずラディカルだ。これはロックミュージックの歌

詞が人へ及ぼす思索的影響というレベルを超えた音響的影響に関するコンセプトだろう。リズムとメロディー、声で

構成されるポピュラー音楽が聴覚を通過し、体内に入る時,それは音楽から音響(サウンド)、そして音そのもの、音

の素粒子へと自己分裂するだろう。そしてそこに快楽がある限り、感性の内側に沈殿物として残存するだろう。それ

は私の聴覚のみならず実体そのものへと影響を与える筈である。

ポップミュージックが一時的な慰みではなく、本格的な治癒、快楽の高精度、コミュニケーションの持続性、そして

人間形成への実際的影響となる事に対する着目がストラングラーズにはあった。そんなコンセプトを具現化するかの

ような音作りがアルバム『オーラル・スカルプチャー』で完成している。

 

1曲目「ice queen」を聴くと私達は正にそこに音響による彫刻のようなサウンドに立ち会える。数学的に配置されて

いるかのようなドラムのディレイ。3重層にもなるキーボード群の奥行き。時々しか出てはこないギターのストロー

ク音によるスペース感覚。どっしりしたベースラインと急に強く全面に出るベース。それもリバーブが絶妙にかかる。

このダブ的表現は以前、アルバム『ラ・フォーリー』の時から見られるJ.Jバーネルの技である。ホーンアレンジの

不思議な一体感。サウンド全体に貫かれるデジタル感覚。ヒューコーンウェルのクールなボイスは熱狂的でありなが

ら常にアンチクライマックスに還ってくるかのようだ。夢幻的なインスト環境だが、ヒューのボーカルは人間臭い。

従って曲そのものの印象はやはりストラングラーズ特有の攻撃的要素に満ちている。

「ice queen」はストラングラーズの新たな傑作となった。様々な要素が交差する不思議な世界。しかし硬派な音楽で

あり、強い実在感がある。

 

アルバム『オーラル・スカルプチャー』は名曲が目白押しの力作である。

「skin deep」はグルーブする軽快なビートとキラキラ輝くようなキーボード群に包まれたポップナンバー。シングル

カットナンバーである。「let me down easy」はノスタルディックなムードにパルスビートの前進性がミックスされた

曲。深みのあるピアノの響きと重層的な音響、ムーディーなボーカルの交差が素晴らしい。

北風に乗って始まる「north winds blowing」はストラングラーズ特有のヨーロッパ的美の表現。そのドラマ性は極め

つけである。「no mercy」と「under name of spain」は力強いポジティブナンバー。そして意外だったのは「uptown」、

「punch & judy」におけるR&B的要素。そこにストラングラーズのユーロピアンテイストをミックスさせたアメリカ

ンミュージックの新解釈とでも言うべき個性的な曲だ。「laughing」も味わい深い傑作。含蓄あるメロディが全く素晴

らしい。

このアルバムでストラングラーズは相変わらずバラエティーな作曲を試み、それらに平坦ではないアレンジの凝りを

見せる事で立体的な建造物のようなサウンドを創り上げた。

アルバムのハイライトは「souls」だ。この曲の持つ雰囲気をどう言い表せば良いだろう。フェイドインしながら始ま

るイントロ。いやそれはイントロではなく既に曲は始まっていた。曲がもう鳴っていたのにも関わらず聞こえなかっ

ただけなのだ。そんな多次元な音響を聴く者に印象付ける絶妙な表現方法がこの「souls」にはある。デイブグリーン

フィールドのキーボードは光る流星のような輝きを放つ。ヒューコーンウェルのボーカルは静かな語り調。またして

も素晴らしいコーラス。全く究極的な美しさであろう。

 

ストラングラーズはアルバム『オーラル・スカルプチャー』でまたもや進化した。前作『フェライン』より遥かにス

ケールが大きく、ユーロロックというエリアアイデンティティーからも抜け出し‘音響’という広野へ至ったかのよ

うだ。一本筋の通った硬派な音楽。グループの強固な思想に根ざされたグローバルで高度な娯楽作品が誕生した。も

はやストラングラーズは他のどんな音楽グループにも似ていない。そうした類似性、カテゴリーを一切、拒否するか

のような唯一無比の個性がここにはある。

ストラングラーズの同時代音楽への批判は正しかった。思えばストラングラーズが作り続けてきた作品の数々はその

全てが既成の音楽的影響をカットアウトし、自らのルーツをもカットアウトする志向に溢れていた。それぞれの時代

に強い様式美を完成しながらも、次作では常にそこから脱却してきたのだ。『ブラックアンドホワイト』や『フェライ

ン』という完成品でさえ、それらの次作においてはスタイルの乗り越えが常に試みられている。その事はグループの

アイデンティティーに関する最も重大な要素なのだ。ストラングラーズにとっては‘音の形態’の充実と変化、発展

こそが生命線であり、言葉よりもサウンドに先行意識を置いていたと言えよう。彼等は当初から特異なサウンドメー

カーであり、その個性は突出していた。ただ、彼等の体質からくる強力な思想がメッセージの有効性を追求するグル

ープのカラーを決定付け、社会派としての責任めいたものを自らが背負ってしまった事は否めないのかもしれない。

 

ストラングラーズが‘アバンギャルド’の範疇で語られる事を私はあまり見聞きしないが、彼等の根底に在る前衛意

識はいわば文字通りの‘前衛’であると言えるだろう。つまり彼等の実験精神は音楽的、社会的、思想的、実生活的

なレベルに於けるフロンティア意識であり、それはいわば‘前線での戦闘意識そのもの’の事であった。だからサウ

ンド的に実験性を帯びることがあっても観念性に埋没する事なく、常にリアルな視線と現実認識、人々への浸透性が

意図されていた。その結果がストラングラーズをポップフィールドへ繋ぎ止め、あくまでもメジャーな場での孤独な

闘いというスタンスに腰を据えているのである。

そんなグループの性格はやはりこの『オーラル・スカルプチャー』にも反映されている。‘音響彫刻‘という大仰な命題にも関わらず、ここで展開されるサウンドはポップであり、相変わらずの名曲生産チームなのだ。そしてストラングラーズのポップスは音の細部にまで硬質なものが浸透している。

 

‘音響彫刻’という言葉から私達は‘社会彫刻’を実践したアヴァンギャルディスト、ヨーゼフボイス、音楽シーンではタンジェリンドリーム、クラスター等の音響派、現代音楽のサウンドコラージュなどを想起するかも知れない。それらは作曲のセオリーを無化した非構築なところから始まるもので、音楽の概容そのものが必然的に音響による彫刻のようなものになる。しかしストラングラーズはこれらとは異なり、構築的なポップスによって音響による彫刻を成立させたのである。それはバンドメンバーの演奏力とアレンジのアイデア、録音の緻密性などに因るところが大きい筈だ。

アルバム『オーラル・スカルプチャー』は『フェライン』以上の美しいメロディーを持ち、リズムはこれまで以上に明確である。ジェットブラックは新しい形のパルスビートの体現者となっている。デジタルとアナログの合体的陶酔感を持つ彼のドラムはビートがポリリズムや変拍子、アウトゾーンに頼らなくても、普通のインテンポに於いて充分、空間的、重層的たりうる事を示すものだ。そしてデイブグリーンフィールドはもはやロックキーボードの頂点だろう。その多彩な音色とフレーズ、リズムに密着したドライブ感はベースの役割さえも担っている。J.Jバーネルのベースは相変わらずヘビーだ。初期のエッジの効いたリードベース的要素は薄れたがより、うねりを増している。特に「ice queen」でのベースはすごい。シンセベースと聞き違うほどのデジタル感覚に乗ったグルーブ感。独特のダブ処理により、ラインが読みとれない程の横の振幅を実現している。フロントマンのヒューコーンウェルの熱血漢ぶりも健在で、繊細さと野性味を兼ね備えた希有のプレイヤーであろう。

 

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ストラングラーズのサウンドは4人のインストゥルメンタルの革新性が支えている。4人の個性が合体し、作曲されたものを超える力となる。そんなマジックが『オーラル・スカルプチャー』で実現されているのだろう。

アルバムに収録された各曲は紛れもないポピュラーであり、実験音楽ではない。そしてそのポピュラーとは言葉本来の意味としての大衆ネットワークへと向かうものである。その創造物はある‘客観性’へと辿り着くだろう。ストラングラーズは『オーラル・スカルプチャー』で以前のヨーロッパ様式美をも捨て去り、ある絶対性へと辿り着いた。

ロックによるメッセンジャーであるストラングラーズにはその音楽がグループの手から離れる事のない主観が存在する。初期においてストラングラーズの主観がリスナーの主観と一致してあった時、最高のエネルギーへと変容した。しかし『レイブン』以降のストラングラーズはそのサウンドメイクにおいて主観と主観の一致という構造を解体してきたように思われる。そこにある種の混乱やカオスが生じた。私達のとまどいの原因はそこにあったし、初期ストラングラーズのファンが明確に離れていく過程にはグループの新しい音の構築と早い変貌に対しファンがついていけなくなったという事実があった。

 

ではストラングラーズは何を目指し、何処へ行こうとしたのか。『オーラル・スカルプチャー』で彼等は‘客観的な場所’そして‘唯一的な建造物’を作った。ここにはグループの変わらない強固な意志と主観が反映されている。しかもそこにあるのは決してグループの手を離れて自由に遊泳する客観性ではない。自由に解釈し得る客観性とはストラングラーズの本意ではあるまい。『オーラル・スカルプチャー』の客観性とはある信望と支持の集合体としての客観性である。ストラングラーズはそれを一旦作ってから無名性へと至る。こうして作られた音楽は作り手と同等のスタンス、大衆と同等のスタンスで成立する。このスタンスは重要だ。なぜならこのスタンス、即ち客観性こそはコマーシャリズム(或いは反コマーシャリズム)等、音楽に付随する要素に対しても同等の距離を保ち得るからだ。何ものからも吸収されない所に立つ音楽、あるワンサイドからの影響からま逃れ得る音楽とはそれ自体が自律的存在である。そしてその自律性は音楽が一人歩きする‘自立’ではなく、ストラングラーズの場合、一つの抽象的な支持の総体としての最大公約数的な自律性なのである。

ストラングラーズの意志を濃縮した音楽がストラングラーズの手を離れる。しかしその過程に於いて許容し得る全ての差異を取り込み、大きくなった支持の形となった客観性こそが『オーラル・スカルプチャー』なのだ。グループの主観(メッセージ)とそれを受けたリスナーがオリジナルを生む契機を発見する事によってグループとは違う主観を作る。そこに生まれる価値、要素がグループと対峙しながら総体的には大同一致する大きなエネルギーへと至る結果になるのである。

ここには初期にあった主観と主観の単純一致ではない、高度な交感としての音楽のマジックが成立したと言えようか。

 

『オーラル・スカルプチャー』は『ブラックアンドホワイト』と並ぶ最高傑作である。両者のスタイルの違いは歴然としているが、グループのラジカルな姿勢は一直線に繋がっているだろう。これはパンクの進化の形そのものである。ストラングラーズというグループはとどまることを知らない批評性の連続の中に生きている。かつてヒューコーンウェルは「俺たちは新しいものを創造しようとしてきた。もし俺たちにそれを不可能ならストラングラーズを続けていく意味はない」と語っていた。ストラングラーズは進化する事を自ら至上命題としたグループであるのだ。

そんなストラングラーズの次作は『ドリームタイム』(dream time)である。これは1986年に発表された。『オーラル・スカルプチャー』で新たな頂点を極めたグループが再び変貌する。全くこのグループは二度と同じ事をしない。

 

『ドリームタイム』

 

アルバム『ドリームタイム』は「always the sun」というグループ歴代のナンバーでもベストと言える傑作ナンバーで始まる。この曲は全く素晴らしい。穏やかで美しく、且つ力強いビート=生命力に溢れている。そのメロディーは優美であり、陰影に富む最高のドラマ性を持つものだ。そしてこの曲の持つカラー、雰囲気がアルバム全体を支配し、一貫性を決定づけていると言っても良いだろう。

歌の内容は現実の不平等や不条理をシニカルに批判しつつ、希望の光を見出すものだ。

攻撃的なストラングラーズが‘希求’というスタンスへ移行したかのようなこの曲はそのメロディーも穏やかで少しばかり悲しい。ジェットブラックのドラムは相変わらず重く力強いが、この曲の性格は哀愁や願い、祈りという感覚も感じられる。

グループの批評精神や問題意識は不滅である。しかしストラングラーズのアジテーションは嘗ての先鋭さから比較するとより分散された抽象的なものへと変質されている。そしてそこには相対主義の堂々巡りの中で闘いぬいてきた者だけが辿り着いたある調和の地平が見出される。それはあきらめでも敗北でもない事は確かだ。しかしこの一種静寂感とたおやかな状態は批評性の後に来る一つの肯定性と攻撃的要素の大地定着的な安定感のようなものだ。従ってここには揺らぎのない、安定的な批評性とでも言うべきものがある。4曲目の「you’ll always reap what you sow」は「always the sun」と並ぶ同アルバムのハイライトであると思われるが、この天上感覚と大地感覚が一体化した安定的サウンド、その暖かく、優しいサウンドはストラングラーズの到達点を思わせるものだ。

 

ストラングラーズの『ドリームタイム』は「always the sun」と「you’ll always reap what you sow」の2曲の持つ優しさとドラマ性が支配するアルバムとなった。そしてこの優しさとはグループの批判意識と表裏一体のものである。アルバムジャケットには夕陽に映える未開社会の部族のシルエットが映し出され、裏ジャケットにはひび割れ崩壊する大地が描かれている。そしてオーストラリアの先住民族アボリジニーのスクリプトが掲載されている。その最後は「我々民族を捕らえる多くの罠がある。しかし我々は強さと誇りを持ち、生き続ける。」という言葉で締めくくられている。

ストラングラーズは嘗てアルバム『レイブン』(79)の中の「nuclear device」でアボリジニーを取り上げた。それはこの精霊の民と言われる民族が世界的注目を浴びるもっと以前の事であった。ストラングラーズは早くからエコロジーの視点、そして被抑圧者としての少数民族の問題を捉えていたと言えよう。

ストラングラーズの全方位的な問題意識の顕われが本作でも発揮される。‘dream time’とはアボリジニーの独特の宗教観であるドリーミングストーリー(天地創造説話)に基づく

‘dream time’=天地創造時代の事である。ここでは地上や天空に存在する全てのものが永久である事を教え、人間も動物も草木や山、川、そして風、雨も生あるものとしてこの世に平等に存在するものであるという考えである。

ストラングラーズのエコロジカルな視点はグループの長い闘争の歴史の最終段階なのかもしれない。ストラングラーズの存在価値とは切迫するテーマの永続性を認識し、創造行為による現実的効果を目指す事と言い切れる。その為、グループは音楽性そのものを革新し続けなければならなかった。

 

しかしそのストラングラーズが『ドリームタイム』で革新の運動を止めた。この作品はこれまでの各アルバムに一貫して在った驚き、意外性が存在しなかった。扱うテーマの重さは継続されたが、少なくとも音の様式においてこの作品ほど安心感と中庸的なものを感じさせるアルバムは嘗てなかった。ただ、その事が本作の否定的要素とは決して感じられないのは、やはりソングライティングの良さに因るものだろう。『ドリームタイム』には革新を超越する絶対的な空間があった。

 

ストラングラーズは『ドリームタイム』によって‘ある場所’に行き着いた。それは批評性の円環の中で盲目に傷つきながら尚、闘争を継続しようとする‘反(アンチ)’の拠点である。そしてその場所は迷路でありながらも、緩やかな感情が一貫して支配する暖かい場所でもあった。ストラングラーズは初期のストリート性、中期のヨーロッパアイデンティティーという土着性を離れ、ワールドワイド且つミクロ的な空間主義へと転じている。

そして批評精神がある客観性や希求、願いという柔和なスタイルを持ち、静かに現れる。

『ドリームタイム』の暖かさはグループの新たな局面ではある。しかしサウンド面でのラディカリズムはストップした。『オーラル・スカルプチャー』までのストラングラーズにあったポップや優美さまでも攻撃的に処理、構築するような硬質で冷えた感触を『ドリームタイム』では聴く事はできない。この作品での各曲にはそれに反比例するかのような絶対的な暖かさと穏やかさがある。

このサウンドの変化はストラングラーズの意識の変化である。グループの歩みはその初期に於けるストリートからのアジテーションで始まり、中期にはヨーロッパアイデンティティーへの迷宮的入場による危機意識の放射。そして音響による人間の知覚の変容、新生のテーマへと至り、『ドリームタイム』で自らの聖域へ入っていく。そこは相対主義が克服された調和と秩序の状態だ。そしてストラングラーズはそこから福音的な真言を暖かいサウンドにのせて散布しているかのようだ。

 

アルバム『ドリームタイム』で私が感じた印象は以上である。そして私が予感した事はストラングラーズはもう先がないのではないかという事である。歌うべきものが無くなったという意味ではない。グループの持つテーマ、問題意識の前進速度と距離を開けはじめたサウンドによる予感である。ストラングラーズが今後、活動を継続してもそれなりに良い曲を書くだろう。しかしそれは多分に中道的なものになっていくだろう。

音楽が客観性を保持し、高いテンションで自律する為にはもう一度『オーラル・スカルプチャー』のような彫刻的作品を作らねばならない。そしてそのような作品を作るには外部のサウンドメーカーも必要かもしれない。しかしそうゆう方向には、もう行かないのではないか。『ドリームタイム』からはそんな印象も受ける。そこにはストラングラーズの闘争の総括としての天上の音楽が鳴り響いていた。

 

『ドリームタイム』は当時の私には滲みた。この暖かい空間は何なのだと思ったものだ。漠然とした‘寒さ’の中に在ったと記憶する当時の私の生活。そんな中で買ったこのレコードであった。「always the sun」を聴いた時の感動は大きかった。晴れ間が拡がり、希望をそこに見た。もはやストラングラーズという過去、大きな思い入れを持ったグループに対する過度な期待より、単純にこの曲の暖かさが私には嬉しく、救われた気分であった。

ストラングラーズの終焉を予感した私だが、ライブアルバム『all live and all of the night』が届いたのは1年後であった。これはしかし熱狂的なライブであり、バンドの継続を期待したが、その後3年を経てリリースされたアルバム『10』(90)はその内容の無さに私は全く共感できなかった。やはりという感じを持った所へ飛び込んだヒューコーンウェル脱退のニュース。私はヒューのコメントを知らないが、J.Jバーネルの「彼は曲を書かなくなってしまった」というコメントだけを覚えている。ストラングラーズの終焉が近づいてきた。

 

『all live and all of the night』 『10』

 

ストラングラーズのライブアルバム『all live and all of the night』は『ドリームタイム』の一年後1987年に発表された。パリとロンドンでのライブが収められたこのアルバムは私達が全く知ることがなかった80年代ストラングラーズのライブバンドとしての絶頂を窺えるものだ。アルバムトップはあの「no more heroes」である。10年振りの「no more heroes」。パンクという新時代の幕開けであり、新しい時代と価値観のオープニングテーマであった「no more heroes」。10年前の宣言を再確認するかのようなヒューコーンウェルのシャウト。そして圧倒的にサイケデリックなギターソロ。観客の熱狂、‘no more heroes anymore!’という大合唱。何ということだ。ストラングラーズの変わらぬステージング。あの狂熱のライブ盤『Xサーツ』と同等のエネルギーがここにある。

そして曲は「always the sun」、「golden brown」、「north winds blowing」、「the european female」と後期ストラングラーズの名曲が続く。涙腺が緩むのは私だけか。アルバム『ブラックアンドホワイト』の中から「nice ‘n sleezy」「toiler on the sea」も演奏される。アレンジが大仰にはなったが、力強さは健在だ。ジェットブラックの年齢を感じさせぬヘヴィーなドラム、デイブグリーンフィールドのキーボードマジック、そしてJ・Jバーネルの過激さ。

日本で忘れられたカルトバンド、ストラングラーズはイギリス、ヨーロッパでは圧倒的な支持の元に在り続けていた。この事実を私達は思い知らされるだろう。「golden brown」のイントロでのオーディエンスの熱狂的な反応は何なのか?ここには紛れもなく初期のパンクスタイルのストラングラーズへの熱狂と同質の支持がある。つまりストラングラーズのパンクの継続性の証明なのである。

私は当時、このLPを聴いて不覚にも涙が出そうになった。それは曲への感動を超えたストラングラーズの存在そのものへの感動であり、感謝であったと思う。

 

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『ドリームタイム』から三年を待ってリリースされたオリジナル10作目『10』でストラングラーズは終焉を迎えた。1990年の事である。10枚目なので『10』というタイトルをつけたストラングラーズ。この何も意味しない、何のコンセプトも感じられないタイトルから解るようにストラングラーズはここで進化をストップした。内容は歯切れの良いビートを基調としたポップロックで寓話的要素や曲調にキンクス等、ブリティッシュロックの伝統に従う良質部分を感じさせるものがないでもない。しかしその仕事はストラングラーズじゃなくても他のバンドがやれば良いものだ。ここにはストラングラーズ特有の硬質さと神秘がない。表面的な曲の良さのみを指して、このアルバムを良しとみる向きもあったが、私にはグループの崩壊が垣間見えていた。やがて飛び込んだヒューコーンウェル脱退のニュース。しかしJ・Jバーネルは新メンバーを入れ、グループを継続させた。

 

そして1992年12月、私はストラングラーズを観た。約14年振りにストラングラーズは来日したのである。そこにヒューコーンウェルは居なかった。そして見知らぬシンガーとギタリストがいた。観客もまばらな心斎橋クラブクアトロで観たそのステージはチラシにあった‘元祖武闘派ロック’という文句がむなしくなる程、凡庸なものであった。「I feel like a wog」,「hanging around」,「tank」等ストラングラーズ栄光のナンバーも色あせて聞こえる。アンコールは「dutches」。アルバム『レイブン』の隠れた名曲である。ストラングラーズはナツメロ大会をやった。『stranglers in the night』という新作の意味を探ろうとした私の意図は果たせなかった。新グループの存在意義と新しい闘争の形は見つける事はできなかったのである。

ストラングラーズは確実に終わった。あの日、J・Jバーネルは空手の‘押忍’のポーズをしてステージを去った。

私は失望しなかった。私は終わりを確認しに一人で出かけたのだ。逆に私は誇らしかった。あの少ない観客の中に私もいたのだ。あの日、クアトロに来た客はストラングラーズの熱狂的ファンだろう。関西の全ストラングラーズファンがあそこに居たのだ。それは全く寂しい人数であった。昔、パンクに熱狂し、ストラングラーズ、ピストルズ、クラッシュ、ダムド等に自分の人生を変えられた(筈の)人間がたくさん居た。彼等は今、どこへ行ったのだろう。ストラングラーズが日本に来たと言うのに。私はいた。そしてストラングラーズの死をこの目で見届けた。

 

1996年10月


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