満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

続・続 フリクション観戦日誌

2008-05-02 | 新規投稿
 
2008年4月22日 心斎橋クラブクアトロ

デジタルリマスターという技術革新や紙ジャケという新商法による過去音楽の広汎な再評価がシーンにもたらされているが、レコード店でフリクションのCDが常時、在庫があるという状況が生まれたのも、そんな昨今のアーカイブムーブメントと無関係ではない。店頭で‘ふ’の棚にはフリッパーズギターとブームの大量のCDの間に‘フリクション’という仕切りしかなかったと以前、書いた事がある。
過去の作品のリマスターCDの登場や、『FRICTION the BOOK』の刊行、3/3のCD復刻、などによるグループの世間的評価基軸の上昇に対し、それまで私達ファンがずっと感じてきたフリクションの孤高的マイナーとしての位置が幻のようだったかのような錯覚を感じざるを得ない。時代認識がやっとフリクションに追いついたのか。

この2年ほどの間、フリクションをめぐる状況が激変していると言えばそれは大げさか。
過去の音源復刻や本の出版に見られるアーカイブ作業を、しかし私は偉業の回顧ではなく、むしろ、それらが現在進行形のフリクションへと自然に直結させる現在的意義を認識させる事に役立っていると感じられる。それほど現在のフリクションの演奏はすごい。もう昔のフリクションに過剰に入れ込む必要もない。CDも「以前はこんなのだったのか」程度に聴いてもいい。結局、ライブバンド的本質を持つフリクションの過去回顧とは、今のフリクションの演奏が歴代の音楽性に対し遜色ないインパクトを放っているが故の、より強い意義発見の事である。現在のフリクションの充実度が前提にあるからこそ、過去の音源に対する関心が高まっているというのが、正確な見方ではないか。
無理に延命措置を図る長期継続バンドの醜態を帳消しにする為の過去回顧はよくあるが、フリクションはそれとは程遠い。レック自身がそもそも過去に対する態度が冷淡極まりない。このバンドはいつの時代も‘今’にしか関心がない。

フリクションに対する期待の気運の高まりを何となく感じる。新作をリリースしていないにもかかわらず、その数少ないライブの衝撃が静かに伝播している予感がする。
マイペース派のレックと違い、相棒の中村達也が活動活発なハイペース派で、広く名が知れた存在である事も大きいだろう。思えばレックがフリクションでこんな‘メジャー’なミュージシャンと組むのも初めてだ。ちょっとした宣伝効果にもなっているか。いや、しかし中村達也と組む事で‘吉’と出たのは、勿論、その音楽性の進化においてのみである。二人フリクションによるライブを先日、二度目の体験をした私は、このロックユニットの創造性をより強く認識するに至った。

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昨年3月の磔磔ライブからもう一年が経つ。年に一度のフリクション祭り。クアトロに入るともう大谷は来ていた。この手のライブはいつもこの旧友と一緒だ。
「最近、何か観たか?」
「渋さ知らズ。」
「俺は恒松正敏を見逃した。」
「俺もチケット買ったが、親父が亡くなり行けなかった。」
2人共フリクションだけは逃すわけにはいかない。

いつも通り、レックは登場するや否や、速攻で楽器を持って弾き始める。このもったいぶらない態度は相変わらず。あわててMDウォークマンをレック(REC)する。
曲はヒットメドレー&キンクス、イギー。
ベースギターの音がまた改良されている。全体的に低音が強調され、音に拡がりが生まれたように感じる。去年、見た印象はベースでいかにギターを代行できるか、その音色の高音域を際立たせる試みがあり、曲によって低音部の不足を感じたが、今回のフィット感はレックが試みたバランスの完成によるものだと確信する。ドラムとの混ざり具合が抜群になった。最高に気持ちいいサウンドだ。
初めて観た時、私はこのユニットに興味深さを感じながらも、この編成が過渡期における一時的なもので、ずっとこのスタイルを続けるには無理があるかなと多少、感じていたのだが、今回、その感じ方が変化した。3人目は要らない。二人だけだからこそ生きるサウンドがあると思えてきた。私にとってこの感想は大きな変化だ。

もうギターは不要。
そう思わせるほど、レックのベースギターの試行錯誤が完成に近づいた印象がある。
しかし重要なのは、そんな音色面での完成度以上に、その演奏のスタイル、二人のつくる音楽性そのものが、二人編成だからこそ、その創造が可能になったという実感によるものである。何がそう感じさせるのか。それは一言で言えばロックにおけるリズムのズレをグルーブさせる斬新な試みが、ここでは行われているのである。しかも極めて自然体に。それが解った。

ドンカマ時代以降の機械的単線ビート全盛の中にあっても、ロックに於いてリズムのズレこそがグルーブの命である事は変わらない。そんなグルーブが減った事だけが事実なのだ。
ロックミュージックで最高度のグルーブを誇るバンドがリズムセクションの各パート間のタイム差を利用した(無意識的にでも、)ものである事は数多の例を見るまでもない。
ジャストタイムでは決してロックのバイブレーションは生まれない。
レッドツェッペリンを見れば解る。突っ込むギターと後乗りドラム。ベースはどちらにも与せずニュートラルに保つ。いわば、三者がバラバラなノリを創造し、瞬間的一致する事で、最高のドライブ感を生んでいたのが、ツェッペリンの凄さだった。ペイジやジョーンズにR&Bのセッションの下積みを長く経験した事によるグルーブ感覚が体に染みこんでいたに違いないが、ブラックミュージック特有のノリ、タメがロックフォーマットで存分に生きた最たる例がツェッペリンである。それは演奏者のグルーブ創造への意識が高度レベルに達しているそのセンスによってなし得る技でもあるだろう。ジャストキープしながら一瞬のズレを生む、そのリズム創造の奥義。昨今のロックに見られなくなったグルーブサウンズの快感。レック=中村達也の創造の醍醐味は正しく、そんなロックのグルーブ革命の継承、実践にあるのだ。

この生々しいロックリズムが現在のフリクションの進化の形である。
中村達也が山下洋輔やナスノミツルなど、ジャズや即興音楽の演奏家との競演が多いプレイヤーである事を知った。以前、エイトビートに行き詰まり、苦悩の中での試行錯誤があった時期、レックから再び、エイトの気持ちよさをサジェスチョンされ、スタジオでセッションを繰り返す中でその快楽を再確認したと書いてあったのを読んだ事がある。中村達也はエイトをそのままキープするのではなく、固有の即興感覚を通過させながら、創造的に打ち鳴らしている。従って極めて激しく流動するエイトビートの形が顕れた。そのタイム感に独自のものが生まれ、レックと異なる時間アプロ-チによるズレのグルーブ創出に至っていると言えよう。二人の、一致したり、離れたりしながら進行するビートがランニングするのが最高のグルーブを生む。従って曲中のユニゾンやキメが、より際立ち、生きるのだ。短い、一瞬のキメでさえ、それが長大なユニゾンプレイに感じるのは、その前後の演奏にズレや間、フリーな空間が用意され、常に次の瞬間の音が予期できないスリリングさがあるからだ。それを強く感じる。

「cycle dance」のリズムパターンでそのまま「gapping」へ移行する。なるほど、こう来たかという感じ。ノリやすい。高速の16ビートのうねりが延々続く。ジャングルとテクノを合体させたような反復リズム。カッコいい。終わって欲しくない陶酔感がある。私は前列に割り込んだ。

フリクションは新たな領域に入ったようだ。
前回よりもサウンドの多様性を感じる。恐らく二人は更にスタジオでの試行錯誤を行い、その即興感覚、構成感覚に深みを加えてきたのだろう。
私は去年の磔磔ライブのレポートで以下のように書いた。
‘私はグループの新たな局面を見た。内向するドライブ感。ズレながら加速し、感情の揺れをビートで表現するような不定形なグルーブ。その印象は<裸体のリズム>であり、<剥き出しになったビートの核>だ。’
そして‘フリクションに初めて<内面>を発見した’とも書いた。
今回のクアトロにもそんなソウルフルな感性は健在だが、より強く印象づけられるのは、音楽のスタイル、外形を綾取る広角さと、演奏の即興的生成感だった。ライブ構成もより練られ、80年代にあったフリクションライブの‘構築美’を再び、実現している。

曲が終わる度に、レックが中村達也に近づき、何やら耳打ちする。演奏の打ち合わせか。
ヒソヒソ呟くレックに中村達也が大きな声で「ハイッ」と答える。なんのこっちゃ。こんな愉快なフリクション今まで見たことない。中村達也のキャラは歴代フリクションでも異質か。いや、楽しくていいよ。

アンコールは「no thrill」。常々、私が感じていたレックのベースコントロール(ここではベースギター)の妙技に感じ入る。音量やバランスを安定的に処すコントロールではない。むしろ逆でピッキングレベルを微妙に変えながら自由に遊ぶコントロールであり、音量や音質が指使い、そのアタッチする毎に変化するライブ感覚が、なんとも生々しくいい音になるのだ。レックに呼応するように中村達也も幾分、ピアニシモで始まり、徐々に高揚していく。2回目のアンコールに応えて「big-s」。ここで終了予定だったらしいが、私達のアンコールは終わらない。レックたまらず「大阪 サディスティックピープル」会場爆笑。ラストは「fire」。レック、ちょっと指か手首を痛めたか。ぶるぶる手を振る。

希に見る個性を放つロックユニットとなったフリクション。
たった二人で発するインパクトの強さ。強いて言えばそろそろ新曲が聴きたい。
嘗てフリクションのライブは常に、未だレコーディングされてない新曲で構成されてきた。「replicant walk」(88)が出た時も、「zone tripper」(95)が出た時も、その殆どのナンバーが既にライブで何度も演奏されていた馴染みの曲であり、しかもライブ毎にアレンジを変えて演奏されていた事に驚きや楽しみがあった。曲名すら解らない曲を(レックはMCをしない)リリースされたアルバムによって初めて知り、それらの曲が「こうゆうアレンジに収まったのか」という確認をしていたものだ。

確かにレックは過去の曲をまるで新曲のように斬新なアレンジで演奏する。まるでマイルスデイビスのように。それはフリクションというバンドの現在も続く長い特性である。ただ、私達ファンの更なる望みは、新作レコーディングである。ライブで新曲がないという事は、未だその準備はできてないという事かもしれない。
中村達也がレック強く進言する事で、それが可能なのかも。期待してます。

2008.5.2


 




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