満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Emmylou Harris 『Hard Bargain』

2011-06-03 | 新規投稿


ロビーロバートソンの13年ぶりのニューアルバム『how to become Clairvoyant』のつまらなさの正体は何か。いや、もったいぶった言い方はやめよう。前作も、その前も、全てのソロアルバムがイマイチだったのは、そのコンポジション能力の低下という、名だたる名作曲家に等しく訪れる命運によるものと解すればいいだけの事だ。しかし、私が思い出すのはレヴォンヘルムがその自伝『軌跡』において、ザ・バンドにおける曲の生成が‘全員’によるものだった事を執拗に強調し、big pinkでの共同作業のスナップ等を多数、挿入しながらその‘事実’を訴えていた事だった。私は以前、ロビーとレヴォンの確執について書いた事があったが(当ブログ2008.6.18 LEVON HELM『DIRT FARMER』)、誰も望まぬグループの解散を独断で遂行したロビーに当初、ソロ活動に向けての己の才能への過信があっただろうか。しかし、散発で、しかもコンセプト倒れな一連のソロワークの無残は、ザ・バンドの至高の音楽との対比に於いて、あまりにも好対照なコントラストを描いている。私はザ・バンドに於けるロビーのソングライティングが、実はザ・バンド専用の曲、つまり、5人の演奏を想定する事で成り立っていたのではないかとイメージする。つまり、ロビーは曲を内面からひねり出し、紙に書きつけて、誰もが演奏できる普遍的な楽曲を書いたのではなく、ザ・バンドという代え難き究極の5人が演奏するサウンドを前提にしながら曲を作っていた。‘イントロでガースのオルガンがこう入って、リチャードの歌が始まり、レヴォンのコーラスが絡む。そしてリックのアタックベースと俺がシンコペーションで・・・・’という具合に、何らかの具体的なイメージの進行をメンバーに共有させながら、曲が生まれていた。従って、そんな‘触媒’を失ったロビー(逆にレヴォンが嘗てロビーを指してこう言ったのだが)にザ・バンド時代同様の作曲のイマジネーションが生まれるはずがないのであった。

エミルーハリスを知ったのはロビーロバートソンが主宰したLAST WALTZ(1976)で、ザ・バンドと共演した「エヴァンジェリン」だった。その透き通る歌声の陰影に魅せられ、そこで私はカントリーミュージックの晴天のイメージという先入観に一つ、神秘の要素の存在を知るに及ぶ。LAST WALTZは当時、ニューウェーブ台頭期におけるオールドアメリカンミュージックの集大成的意味を持つものであったが、同時に今になって思うのは、あのイベントが現在に連なるオルタナカントリーを含むアメリカーナミュージックシーンの発端でもあったのではないかという事である。ツアーに嫌気がさし、バンドを解散させたかったロビーは‘終焉の宴’としてこの企画を勝手に進め、多くの重要なアーティストを招聘した。そこに集った大物達は皆、当時、ブルースやカントリー、ソウル、ゴスペル等の文化遺産のジャストナウな継承者達であった。ロビーは図らずもそこに集合したアーティスト達と共にアメリカンミュージックの総体を一夜でコンパイルして見せたのだ。多くの人がLAST WALTZをアメリカンミュージックのパスポートとし、入口とした。私にとっても、その豊穣な音楽は啓示的意味を持ったと思う。

LAST WALTZに集合したアーティスト達の幾人かは、現在、亡くなり、幾人かは今なお、その名人芸を継続している。そして今なお、際立つ存在なのは現代的先端性を担う形でシーンを牽引する鋭角な視点を保持するニールヤングとエミルーハリスだろう。多面体のニールはともかく、天使のような装いで歌ったLAST WALTZの時のエミルーの純朴カントリーぶりから、その後のオルタナティブな外観をまとう音楽性に至る姿を想起する事は難しい。そして仮に、当時、後世的な最新モードを形成しうる音楽リーダーは誰かと問われたら、誰もがロビーロバートソンと返答したであろう。当時のロビーはアメリカンミュージックを総括的に対象化するという‘客観視’のアーティストとしてアメリカンを地で行く(レヴォンのような)プレイヤー達と一線を画す、ある種、浮いたような神秘の面影を持っていた。異邦人としてのアメリカ発見が結果的にアメリカ音楽に寄与するという‘貢献’を周りに認知させていただろう。

エミルーハリスが、その長い活動において絶えず、曲作りを継続し、コンスタントにアルバムをリリースしてきた事に、むしろアメリカンミュージックのルーツを体現する者としての立ち位置の重さを感じる。そこに本来、コンセプチュアルな思惑や業界戦略的な作為はない。ロビーに顕著なのは‘他を意識’するその過剰であっただろうか。LAST WALTZでアメリカーナを用意したロビーの偶然はしかし、その後のシーンにおける参加を拒まれる要因となった観がある。大成したのは、純朴カントリーを芯のまま残しながら、その伝播の方法を時代と共振させたエミルーハリスの方だった。

「『all intended to be』は『red dirt girl』以来の傑作となった」と私は以前、書いたが、(当ブログ 2008.7.15)エミルーはまたしてもここに傑作を更新した。ニューアルバム『Hard Bargain』はカントリーミュージックの普遍性、世界性を示す記念碑的作品であると言わせていただく。確かに『red dirt girl』の驚異感は今もって別格の趣きがあるが、そのややもするとカントリーから遊離した作品的完成度と比べ、今回はカントリーサイドにより密着しながら『red dirt girl』と同様の音響的立体感を伴った独自性を持っている。
一曲目「the road」で私が想起したのは、神話伝承的な言霊であり、音数少なく、一音、一音を雄弁に響かせるギターオーケストレーションの繊細さである。それはスコットランドの天上音楽、コクトーツインズに類似する世界だと感じた。エミルーハリスが創造したのはアメリカンカントリーというエリア性からの雄飛であり、世界のアコースティックサウンドと共鳴する広角性の獲得であった。ルーツに密着しながら、もはや、アメリカ以外の土地や空間をイメージさせる未知感覚を呼び覚ます楽曲の力を誇るものだと感じる。

エミルーハリスは絶えず曲を書く。その多作人生は数々の駄作を残すリスクと共に、生活から生じる歌の伝統に根ざす、生き方そのものを示すものだとも言えるだろう。

エミルーハリスからオルタナカントリーの巫女の称号が今、外され、現代アメリカンミュージックの第一人者という地位が図らずも、与えられる。それはかつて、ザ・バンドを強制的に解散させたロビーロバートソンが望んだ場所であったか。

2011.6.3



 















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